文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大江健三郎を擁護する。女々しい日本帝国軍人の「名誉回復裁判」で…。


「沖縄集団自決」において「軍命令」があったか、なかったかを争う大江健三郎の『沖縄ノート』の記述をめぐる名誉毀損裁判に、訴えられている側(被告)の大江健三郎が大阪地裁に出廷し、証言したようであるが、日頃の僕の「保守反動的」(笑)な言論からは意外かも知れないが、僕は、「沖縄集団自決裁判」に関しては、多くの留保をつけた上でだが、本質的には大江健三郎を擁護する。大江健三郎は法廷に出廷することを拒否していたようだが、証人喚問ということで、仕方なく出廷し、証言することになったようである。大江健三郎を嫌う一部の保守派陣営は、「大江健三郎を法廷へ引き摺りだした・・・」ことを重視して、「大成功」だとでも言いたげに喝采を叫んでいるようだが、僕には、それは、無知無学な大衆のルサンチマンの叫びであり、ただ単に不謹慎に見えるだけだ。僕には、その拍手喝采する保守陣営の背後に曽野綾子谷沢永一の顔が重なって見える。僕が、大江健三郎を擁護しなければならないと考える大きな理由もそこにある。僕は、曽野や谷沢を、文学者として、思想家として、あるいは言論人として、ほとんど無視し軽蔑し唾棄しているが、大江健三郎に対しては、まったく逆である。僕と大江健三郎とでは、明らかに政治思想や政治的立場に関しては対極にあるが、しかしだからと言って大江健三郎という文学者を軽蔑もしなければ無視もしていない。いや、むしろ、今の日本で、語るに値する数少ない文学者、思想家、言論人の一人だと思っている。三島由紀夫は、生前、年齢的にも文壇生活においても後輩に当たるにもかかわらず、大江健三郎という文学者の才能を評価し、畏怖し、そしてその存在に異常な関心を寄せていた。大江健三郎が、山口二矢をモデルにして描いたテロリスト小説『セヴンティーン』に対しては、熱烈な賞賛の手紙を大江健三郎に送っている。また、川端康成の後にノーベル賞を受賞するのは、三島自身でも他の誰かでもなく、たぶん大江健三郎だろう、と予言していたという話もある。ノーベル賞候補としては、その後、遠藤周作安部公房井上靖西脇順三郎・・・などの名前が取りざたされたこともあったが、結果は、ご承知の通り、三島由紀夫の予言どおりになったのである。天才は天才を知るのである。さて、沖縄集団自決裁判であるが、昨日、大阪地裁に出廷し証言した原告の一人、当時、沖縄座間味島の守備隊長だった梅沢裕について、僕はその人格も見識も、あるいは軍人としての実績もよく知らないが、あまりいい印象を持っていない。そもそも、大江健三郎が『沖縄ノート』を書き、出版したのは、昭和45年4月(1970/4)である。執筆開始は、1969年1月である。それに対して梅沢らが原告として大江健三郎岩波書店を告訴したのは、いつか。平成17(2005)年10月28日である。35年余りの空白期間がある。このタイム・ラグは何を意味するのか。日本帝国軍人として名誉を傷つけられたと言うならば、何故、梅沢らは、『沖縄ノート』の出版直後に、告訴しなかったのか。このタイム・ラグの中に、誇りある帝国軍人にあるまじき、恥ずべき「打算」と「裏取引」はないのか。そこに、戦後民主主義に毒された「日和見主義」はないのか。多くの帝国軍人は、言うべきことも言わず、抗弁すべきことも抗弁せず、名誉回復などということを一顧だにせずに、ただ黙々と死地に赴き、そして処刑台の露と消えていったではないか。多くの将兵や民衆を「見殺し」にした上に、90歳まで、おめおめと生き延びた帝国軍人が、今更、アメリカ軍隊の強制の元に成立した戦後憲法下の裁判所に出廷し、何を証言する必要があるのか。「アメリカ軍隊の強制の元に成立した戦後憲法下の裁判所」で、自己の名誉回復をして欲しいのか。帝国軍人の仲間たちの名誉回復か。今更、何をかいわんや、である。報道によると、驚くべきことに、梅沢某は、こんな証言しているらしい。≪原告側代理人「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」。梅沢さん「資力がなかったから」。原告側代理人「裁判で訴えたいことは」。梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」。原告側代理人「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」。梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」≫。いやはや。帝国軍人も、たかが「名誉回復」などというチンケなことのために、ここまで落ちるものなのか。≪「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」。≫と問われて、≪「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」≫。これが士官学校出の帝国軍人の言うことか。見苦しい。幻滅である。最近、軍人を美化し、賛美する風潮があるが、とんでもない勘違いだろう。守屋元防衛次官接待事件に登場する「元自衛隊隊員」たちの無様な姿を連想するまでもなく、あるいはイラク派遣の手土産に参議院に立候補したヒゲ隊長の軽薄ぶりを見るにつけ、今も昔も、二、三の例外を除いて、軍人なんて、ほぼみんなこんなものだろう。愛国心や国家観、責任感なんて言葉だけで、実質は何もありはしない。自己保身と金銭欲と出世欲…。梅沢が、直接、自決命令を下そうと下すまいと、自らの管理指揮下にあった多数の沖縄住民が集団自決をしたという現実に、当時の現地指揮官として、≪責任はない。≫なんて、よく言えたものだ。心ある帝国軍人ならば、自決した沖縄住民に続いて、指揮官としての無能を恥じて、潔く切腹して果てるところだろう。多くの心ある帝国軍人はそうしたではないか。三島由紀夫が、市谷駐屯地のバルコニーから、檄の言葉、「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか…」を叫んだとき、それを聞きながら、罵声を浴びせ、ヘラヘラ嗤っていたのも自衛隊隊員たちだった。いずれにしろ、元帝国軍人・梅沢某の見苦しい言い訳は、倒産した会社の社長が、「私には責任はありません。すへては社員が悪いんです。」(笑)と言っているようなものだろう。耄碌していないのだとすれば、ここに、日本帝国軍人の正体、見たり、である。ところで、話を大江健三郎に戻そう。大江健三郎の『沖縄ノート』を、僕は雑誌連載中から読んでいた。もちろん、単行本も買って読んだ。その前に『ヒロシマ・ノート』も読んでいる。いわゆる大江健三郎ルポルタージュの名作二編である。実は、それまで、僕は熱狂的な大江健三郎フアンだった。もう何回も書いてきたが、僕が文学や哲学を仕事にするようになった切っ掛けは、高校生の頃読んだ大江健三郎の小説である。僕は、一番、敏感な時代に大江健三郎一色の読書生活を送っていた。サルトルドストエフスキーも、そして小林秀雄江藤淳でさえ、すへては大江健三郎を読むことから始まったと言っていい。今も、大江健三郎の小説もエッセイも、出ると買うし、ほとんど熟読している。しかし、僕は、この二編のルポルタージュを読んだ頃、大江健三郎から離れた。ヒロシマや沖縄ををダシにして、大江健三郎が美化する反戦平和主義的なヒューマニズムに嫌悪感しか感じなくなっていたからだ。とは言いながら、その後も大江健三郎のことを忘れたことはない。そして、今は、あくまでも戦後民主主義反戦平和主義の立場を貫く思想的、学問的な一貫性には、少し、大江健三郎に同情的になっている。というより、僕は、孤立無援の戦いを継続し続けている大江健三郎を、かなり尊敬し始めている。逆に僕は、ほぼ政治的にも思想的にも似通っている最近の「保守派」には、思想的にはほぼ同じ立場にあるにもかかわらず、批判的である。最近の「保守思想」は、付和雷同型の流行思想としての「保守思想」の色が濃厚で、福田恒存小林秀雄江藤淳三島由紀夫等のような「孤立無援の保守思想家」を保守思想の代表と思っている僕には、違和感がある。この沖縄集団自決裁判への違和感も、たぶん同じ根拠に基づいている。支援団体を組織して集団で裁判闘争・・・。それこそ戦後民主主義的な左翼市民運動そのものではないのか。しかも、大江健三郎の『沖縄ノート』は、今、冷静になって読んでみると、いかにも大江健三郎らしい柔軟且つ複雑怪奇な思考をめぐらし、現在までも続く沖縄問題の本質を抉り出した、なかなかいい本であることがわかるが、集団自決裁判に集う保守派の面々にとってはバイブルらしいが、曽野や谷沢の本は、誰が読んでも明らかに駄本である。何はともあれ、その点で、保守派は決定的に負けている。さて、そこで、裁判の焦点になっている沖縄集団自決問題について、大江健三郎の『沖縄ノート』が、どう書いているかを点検してみよう。実は、大江健三郎の『沖縄ノート』には、集団自決関連の記述は、あるにはあるが、極めて少ない。しかも前半ではなく、後半も後半、最終章で、ちょっと触れているだけである。それは大騒ぎするほどの量でも内容でもない。『沖縄ノート』の主要なテーマは、当時のホットな政治問題であった沖縄返還問題(本土復帰問題)であり、それにまつわる沖縄の歴史文化論とでも言うべきものである。おそらく、この裁判の支援団体の面々も、そして外野席からこの裁判を面白おかしく眺めつつ、大江健三郎を罵倒している面々も、ほとんど『沖縄ノート』を読んでいないのではないかと思われる。たぶん、大江健三郎の難解な文章と文体を、最後まで、つまり集団自決問題に触れた部分まで、読み続けられる人間は彼らの中にはいまい。ましや、この『沖縄ノート』で、名誉を傷つけられたというに至っては、まったくの言語同断であり、噴飯物であって、言いがかりもいいところだろう。なぜなら、少なくとも『沖縄ノート』に関する限り、集団自決に関わったと言う守備隊長の名前さえ記述していないのだから。しかも、大江健三郎は、問題の守備隊長が、戦友とともに、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた話を書いた後で、続けてこう書いている、≪僕は自分が、直接かれにインタビューする機会を持たない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようとは思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題だろう。≫と。つまり、大江健三郎は、赤松ナニガシや梅沢ナニガシなど、相手にしていないのである。大江健三郎は、敗戦直後は責任追及を恐れて、口をつぐみ、静かにしていて、戦争責任の追及が手薄になる時期を見はからって、戦争責任の回避と無化を画策する日本人一般の倫理観の喪失の問題として、言い換えれば、やがて来る「歴史修正主義」的な保守派の台頭という問題の一例として、この事件を扱っているのである。僕は、必ずしも大江健三郎の「歴史修正主義」に対する分析と批判に全面的に賛成するものではないが、いや、むしろ反対の立場だが、それでも大江健三郎が、この段階で(1970)、歴史修正主義の台頭を予感し、警告していたことは、やはり大江健三郎ならではの分析であって、鋭いものだと思う。ところで、集団自決裁判の被告が、何故、「大江健三郎」であり、「岩波書店」なのか。何故、「軍命令」説を最初に書籍の中で主張した沖縄タイムスの『鉄の暴風』が被告ではないのか。ここには明らかな「問題のすり替え」がある。沖縄タイムスの『鉄の暴風』が、集団自殺における「軍命令説」の情報源であると知りつつ、大江健三郎の『沖縄ノート』に問題を摩り替えたのは、何故か。そこには明らかに不純な動機が見え隠れする。それは、この集団自決の「軍命令」問題を、大江健三郎の『沖縄ノート』に触発されて現地取材し、追及したのが、大江健三郎と同世代の作家としてライバル意識をもっていたかどうか分からないが、三島由紀夫でも江藤淳でもなく、曽野綾子という作家だったことに問題がある、と僕は思う。三島由紀夫江藤淳も、保守思想家の一人として、大江健三郎と論争し、思想的に政治的に、そして文学的に対立していたが、問題を摩り替えるような卑怯な文学者ではなかった。三島由紀夫大江健三郎の関係については、前述の通りだが、江藤淳大江健三郎の関係について言うと、実は、文壇にデビュー仕立ての学生作家・大江健三郎を熱烈に擁護し、支持したのが、同じくまだ大学生で批評家としてデビューしたばかりの江藤淳だった。その後、江藤淳大江健三郎の同盟関係は破綻し、決裂するが、しかし、お互いに、才能と実績を認め合っていたことは言うまでもない。今、三島由紀夫でも江藤淳でもなく、曽野綾子という三流の通俗作家が、保守論壇の重鎮として保守論壇に君臨し、居座っているところに、この裁判の意味と、昨今の保守論壇の堕落と停滞が象徴的に現れている、と言っていい。僕は、政治思想的にも政治的立ち位置も、大江健三郎とは遠く離れているが、大江健三郎という作家を法廷に引きずり出し、それを外野席から冷やかし半分に批判罵倒する保守論壇や保守思想家たち、あるいは保守系の野次馬たちのルサンチマンに満ち満ちた言動を容認することはできない。保守論壇や保守思想家たちは、作品や思想や、あるいは言論活動のレベルで、大江健三郎と対決し、論争すべきである、と思う。(続)



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大江健三郎1

大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 沖縄集団自決訴訟
2007.11.9 21:44 産経新聞

 先の大戦末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたとする本の記述は誤りとして、当時の守備隊長らが、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めた訴訟の口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」と述べ、軍命令説の正当性を主張した。今回の訴訟で大江氏が証言するのは初めて。  

 一方、大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。

 訴訟は、来年度の高校日本史の教科書検定で、集団自決を「軍の強制」とした記述を修正した根拠にもなったが、その後、教科書会社が削除された記述を復活させる訂正申請を出している。

 大江氏は座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴(しゅりゅう)弾が配布されたケースがあることを指摘。「当時は『官軍民共生共死』の考え方があり、住民が自決を考えないはずがない」と軍の強制があったと述べた。自著『沖縄ノート』について「強制において(集団自決が)なされたことを訂正するつもりはない」と語った。

大江健三郎2

沖縄ノート訴訟、大江さん「集団自決命令あった」(読売新聞)

 沖縄戦で住民に集団自決を命じたなどと著書に虚偽を記載されて名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元少佐・梅沢裕さん(90)ら2人が、作家の大江健三郎さん(72)と岩波書店(東京)に、大江さんの著書「沖縄ノート」などの出版差し止めや損害賠償を求めた訴訟の第11回口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)で開かれ、原告、被告双方の本人尋問があった。

 大江さんは「自決命令はあったと考えているが、個人の資質、選択の結果ではなく、それよりずっと大きい、日本の軍隊が行ったものだ」と述べた。

 大江さんは、この日の陳述や地裁に提出した陳述書で、自著で自決命令があったとした根拠について、〈1〉地元新聞社が刊行した書籍などを読んだ〈2〉書籍の執筆者らにも話を聞いた――などと説明。集団自決が行われた座間味島渡嘉敷島を訪れるなどして生存者らから話を聞かなかったことについては「本土の若い小説家が悲劇について質問する資格を持つか自信が持てず、沖縄のジャーナリストらによる証言記録の集成に頼ることが妥当と考えた」とした。

 そのうえで、集団自決について、日本軍から島の守備隊、島民につながる「タテの構造」の強制力でもたらされたなどと持論を展開。「個人が単独、自発的に(集団自決を)命令したとは書いていないし、個人名も記していない」として、名誉を損なったとする原告側の主張を否定した。

 梅沢さんは、大江さんに先だって行われた尋問で、座間味島の守備隊長だった当時を振り返った。同島への米軍の空襲が始まった後の1945年3月25日の夜、自決を望んで守備隊本部を訪ねてきた地元役場の幹部ら5人から「手投げ弾をください」と言われた際、「死んだらいけない」と諭したとし、「命令は絶対に出していない」と強調した。

 閉廷後、それぞれの弁護団が記者会見した。大江さん側の弁護団は「隊長の自決命令とは記述しておらず、本来、訴訟は成り立たない」と主張。原告側弁護団は「原告による命令の有無が争われているのに、大江さんは論点をすり替えた。こうした態度が名誉棄損を生む原因」とした。

 ノーベル賞作家が出廷しただけに、この日の弁論への関心は高く、65席の一般傍聴券を求め、693人が列を作った。訴訟は12月21日の次回弁論で結審する。

大江健三郎の証言記録1

大江さんの証言要旨大阪地裁  共同通信

 大江健三郎さんが9日、大阪地裁に提出した陳述書の要旨と尋問のやりとり要旨は次の通り。

 

 ▽陳述書要旨

 

 1965年に沖縄で収集を始めた関係書が「沖縄ノート」を執筆する基本資料となり、ジャーナリストらから学んだことが基本態度をつくった。

 戦後早いうちに記録された体験者の証言を集めた本を中心に読み、中でも沖縄タイムス社刊の「鉄の暴風」を大切にした。著作への信頼があり、座間味、渡嘉敷両島での集団自決の詳細に疑いを挟まなかった。

 集団自決は太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で強制されたとの結論に至った。構造の先端の指揮官として責任があった渡嘉敷島の守備隊長が戦後の沖縄に向けて取った行動について、戦中、戦後の日本人の沖縄への基本態度を表現していると批判した。

 関係者に直接インタビューはしていない。本土の若い小説家が質問する資格を持つか自信を持てなかった。守備隊長の個人名を挙げていないのは、集団自決が構造の強制力でもたらされたと考えたからだ。

 もし隊長がタテの構造の最先端で命令に反逆し、集団自決を押しとどめて悲劇を回避していたとしたら、個人名を前面に出すことが必要だった。

 集団自決について「命令された」と括弧つきで書いた。タテの構造で押しつけられたもので、軍によって多様な形で伝えられ、手りゅう弾の配布のような実際行動によって示されたという総体を指し、命令書があるかないかというレベルのものではないと強調するためだ。

 批判したのは、1945年の悲劇を忘れ、問題化しなくなっている本土の日本人の態度で、沖縄でも集団自決の悲惨を批判する者はいないと考えるようになっていた守備隊長の心理についてだ。

 隊長命令説を否定する文献は知っているし、読んでもいるが、「沖縄ノート」を改訂する必要はないと考えている。

 皇民教育を受けていた島民たちは日々、最終的な局面に至れば集団自決のほかに道はないという認識に追い詰められていた。集団自決は、既に装置された時限爆弾としての「命令」だった。無効にする新しい命令をせず、島民たちを「最後の時」に向かわせたのが渡嘉敷島の隊長の決断だ。

 座間味島の集団自決や隊長命令のあるなしは論評していない。渡嘉敷島と同様に命令があったと考える。島民たちの証言でも支えられた確信だ。

 

 ▽やりとり要旨

 

(大江さん側の弁護士)

 -日本軍の隊長が自決を命令したと書いたのか。

 「(隊長の命令が)あったとは書いていない。隊長個人の性格、資質で行われたものではなく軍隊が行ったものと考え、特に個人の名前を書かなかった。その方が問題が明らかになると考えた」

 -集団自決は軍の命令だったと考えるか。

 「文献を読み、執筆者らに話を聞いて軍の命令だという結論に至った」

 -今現在も命令があったと考えているか。

 「確信は強くなっている」

 -記述を「リンチ」とする批判もあるが。

 「普通の人間が軍の組織の中で罪を犯しうるというのが(本の)主題」

 -日本軍の命令について訂正する必要は。

 「必要性は認めない」

 

(元守備隊長側の弁護士)

 -自決命令について「軍のタテの構造で押しつけられた」と言われたが、「沖縄ノート」にはその説明がない。

 「その言葉は使っていない」

 -守備隊長が雑誌の取材に答えた「わたしは(集団自決を)全く知らなかった」の言葉をうそと決め付けているのか。

 「事実ではないと思っている」

 -本で引用した「沖縄戦史」の「住民は(中略)いさぎよく自決せよ」の記述は。

 「事実と考えている」

 -家永三郎氏の「太平洋戦争」でも自決命令の記述の一部は削除された。軍命説は歴史家の検証に堪えられないと考えたのでは。

 「取り除かれた部分は『沖縄ノート』に抵触することはない。わたしは本に責任があり、それを守りたい」

 -一般読者が理解できるように書くべきでは。

 「誤読に反論する文章を書こうとしている」

 

大江健三郎証言2

産経新聞


【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (1/3ページ)

2007.11.9 20:11

 

 《午後1時50分ごろ、大江健三郎氏が証言台に。被告側代理人の質問に答える形で、持論を展開した》

 

 被告側代理人(以下「被」)「著書の『沖縄ノート』には3つの柱、テーマがあると聞いたが」

 大江氏「はい。第1のテーマは本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。憲法が認められず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、戦後何年もたって沖縄の渡嘉敷島を守備隊長が訪れた際の現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人が世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」

 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」

 大江氏「はい」

 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」

 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」

 大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『〜という命令』とした」

 被「日本軍の命令ということか」

 大江氏「はい」

 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていたか」

 大江氏「はい。沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』にも書いていた」



【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (2/3ページ)

2007.11.9 20:11

 

 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」

 大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」

 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」

 大江氏「そう」

 被「守備隊長に責任があると書いているのか」

 大江氏「はい」

 被「実名を書かなかったことの趣旨は」

 大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」

 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」

 大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」

 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は軍の命令と考えて書いたのか」

 大江氏「そう考えていた。『鉄の暴風』など参考資料を読んだり、執筆者に会って話を聞いた中で、軍隊の命令という結論に至った」

 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」

 大江氏「はい。なぜ、700人を超える集団自決をあったかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『官軍民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」

 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」

 大江氏「私くらいの年の人間は、子供でもそう教えられた。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると」

 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」

 大江氏「参考資料の執筆者の仲間のほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」

 被「現在のことだが、慶良間(けらま)の集団自決についても、やはり軍の命令と考えているか」

 大江氏「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなっている」



【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (3/3ページ)

2007.11.9 20:11

 

 被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」

 大江氏「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」

 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」

 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」

 大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」

 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」

 大江氏「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」

 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」

 大江氏「知っている」

 被「軍の命令だったとか、隊長の命令としたのを訂正する考えは」

 大江氏「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要はない」

 《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》


 このあとで、「原告側代理人」が質問をします。




【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (1/3ページ)

2007.11.9 20:49

 

 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》

 

 原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」

 大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」

 原「島民はどこに逃げられたというのか」

 大江氏「実際に助かった人がいるではないか」

 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」

 大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」

 原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」

 大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」

 原「集団自決は予見できるものなのか」

 大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」

 原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」

 大江氏「事実ではないと思う」

 原「その根拠は」

 大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」

 原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」

 大江氏「事実と考えている」



【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】
大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (2/3ページ)

2007.11.9 20:49

 

 原「手榴弾を島民に渡したことについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米英に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」

 大江氏「私には考えられない」

 原「曽野綾子さんの『ある神話の風景』は昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」

 大江氏「発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3カ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」

 原「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」

 大江氏「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」

 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」

 大江氏「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」

 原「しかし、この本の後に発行された沖縄県史では、集団自決の命令について訂正している。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」

 大江氏「私には(訂正や削除した)理由が分からない。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれたものが『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはしなかった




【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (3/3ページ)

2007.11.9 20:49

 

 《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。以後、ペットボトルを傍らに置いて証言を続けた》

 原「赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」

 大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」

 原「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」

 大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか」

 原「責任はない、ということか」

 大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」

 《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》

 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」

 大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」

 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》


沖縄タイムスの記事より。

元戦隊長発言転換/「自決」指示は県 強調(沖縄タイムス



 【大阪】「『集団自決』を指示したのは、軍でなく県だ」―。九日、大阪地裁で開かれた「集団自決」訴訟の本人尋問。沖縄戦時に座間味島で指揮を執った元戦隊長の梅澤裕さんは、閉廷後の記者会見で持論を展開した。尋問では「集団自決(強制集団死)」への日本軍の責任を「ありません」と明言した後、「関係ないとは言えない」と軌道修正する迷走ぶり。日本軍の責任を県に押し付ける責任転嫁の手法に、被告側支援者は「あきれてものが言えない」と言葉を失った。

 約二年三カ月に及ぶ訴訟はこの日、本人尋問で大詰めを迎えた。静まり返る二〇二号法廷。よわい九十の“元軍人”は背筋をぴんと伸ばして着席した。

 「自決命令なんか絶対に出していない」「死んだらいけないと厳しく言った」

 島の住民に命令を出したかを問われ、何度も語気を強めた。

 海上挺進第一戦隊の最高指揮官を務めたが、一九四五年三月二十五日に、日本兵が忠魂碑前で手榴弾を配ったとの今年九月に出た住民証言について「全然知らない」「あり得ないと思う」と自身の指示や関与を否定した。

 午前中の尋問では自決命令の主体を「村の助役」としていた従来の主張から「行政側の上司の那覇あたりからの指令」と大きく飛躍。夕刻の会見では記者団に「(指示は)軍ではなく県なんだ。みんなぼかしてるけど、重大な問題だ」とし、当時の島田叡知事に責任があるとした。

 一方、訴訟を起こすきっかけになった大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」を初めて通読したのは昨年だったことを法廷で明かした。訴訟前に大江さんや発行元の岩波書店に抗議したこともなかった。

 大江さんの証言については、会見で「くだらん話」と一蹴。

 「集団自決」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、教科書会社から訂正申請が相次いでいることには「沖縄でワーワー大騒ぎして十一万人だとか言って、また元の悪い教科書に戻ろうという運動がどんどん出てる」と不快感を表明した。

 渡嘉敷島に駐屯した故・赤松嘉次元戦隊長の弟の赤松秀一さんは被告側尋問で、訴訟提起のきっかけが嘉次さんの陸軍士官学校同期からの誘いだったかを問われ「そういうことになりますかね」と認め、支援者らの強い意向があったことをうかがわせた。

 渡嘉敷島での「集団自決」を「(嘉次さんから)直接聞いたことはない」とも明らかにした。

 被告側支援者で大阪歴史教育者協議会の小牧薫委員長は「日本軍の責任を県に押し付けるつもりなのか、と昼休みに支援者と話していたところだった。今日の尋問で元戦隊長がいかに無能だったかを梅澤氏自身が証明した」と厳しく批判した。




訴訟は成り立たぬ/被告側

 【大阪】「集団自決」訴訟で本人尋問が終わった九日午後、被告側代理人弁護団が大阪司法記者クラブで記者会見した。元戦隊長らから名誉棄損で訴えられている作家・大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」について、渡嘉敷島座間味島の戦隊長の実名を挙げていないことを指摘。秋山幹男弁護士は「梅澤裕氏も隊長が命令したとは書かれていないことを認めており、訴訟として成り立たないのが実情だ」として、名誉棄損が成立していないとの認識を示した。

 秋山弁護士は「沖縄ノート」での「集団自決(強制集団死)」記述について「日本軍―三二軍―慶良間諸島の守備隊という全体構造で、軍の命令・強制があったとの考えで書かれている」と説明。両元戦隊長を個人としてひぼう・中傷したものではないと強調した。




問題点のすり替え/原告側

 【大阪】「集団自決」訴訟で原告側は九日午後、被告側代理人に続いて、大阪司法記者クラブで記者会見した。座間味島に駐屯していた梅澤裕元戦隊長は、被告で作家の大江健三郎さんの尋問について「要点を外してだらだら話し、何てくだらん話をするなと思って聞くのが嫌になった」と批判した。

 渡嘉敷島に駐屯していた故・赤松嘉次元戦隊長の弟の赤松秀一さんも「本で明らかな個人攻撃をしているのに、三二軍を出して問題点のすり替えをしている」と不満をあらわにした。

 原告側代理人徳永信一弁護士は「大江さんは軍命について軍隊による実行行動の総称としたが、『沖縄ノート』にそんなことは一言も書かれていない。私などではついていけない有名な『大江ワールド』が法廷で展開された」と皮肉った。


     ◇     ◇     ◇ 
    

支援団体、大阪で報告集会

 沖縄戦本人尋問報告集会(主催・大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会ほか)が九日、大阪市内で開かれ、県内外の支援団体から約二百人が参加した。弁護団が、本人尋問の内容を報告。琉球大学の山口剛史准教授が「沖縄戦の真実は消せない―島ぐるみの闘い」、歴史教育者協議会の石山久男委員長が「著書が語る教科書検定問題」をテーマに講演。

 山口准教授は教科書検定問題を取り上げた県内紙を資料として配り、「県民の願いはあくまで検定意見の撤回。全国に連帯の輪が広がっている。さらなる攻勢を政府、文科省へとかけていきたい」と語った。

 石山委員長は「この裁判は検定問題と連動し、計画的に行われたもの」と指摘。「責任を明らかにし、再び同じ過ちを犯さぬよう検定制度を改めてほしい」と話した。


検定意見撤回へ全国集会を開催/来月3日東京

 沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」から日本軍の強制を示す記述を削除させた文部科学省教科書検定意見を撤回させようと「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会(沖縄戦首都圏の会)」は十二月三日午後六時半から、東京都の九段会館で全国集会を開く。

 教科書会社六社から文科省に記述の訂正申請が提出される一方で、検定意見撤回に応じない文科省に対し抗議の意思を示す取り組み。千五百人規模の集会を目指し、東京沖縄県人会にも協力を呼び掛けていく。


■梅沢元守備隊長

毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長
2007.11.9 12:18 産経新聞


 「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。

 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーのスーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。

 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。

 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。

 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》

 助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。

 《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》

 戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。

 「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」

 転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後、集団自決は隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長は自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。

 さらに62年、助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。

 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」

 だが、隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。

 「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」


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■【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091512008-n1.htm
【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】
梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (1/4ページ)
2007.11.9 15:12 産経新聞




 沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。

 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」

 梅沢さん「はい」

 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」

 梅沢さん「はい」

 原「当時はどんな装備だったか」

 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」

 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」

 梅沢さん「戦えない」

 原「陸上戦は予定していたのか」

 梅沢さん「いいえ」

 原「なぜ予定していなかったのか」

 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」

 原「どこに上陸してくると思っていたのか」

 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」

 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」

 梅沢さん「していない」

 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」

 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」

 原「5人はどんな話をしにきたのか」

 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」

 原「誰から言われているという話だったのか」

 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」


■【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】

原「どう答えたか」

 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」

 原「弾薬は渡したのか」

 梅沢さん「拒絶した」

 原「5人は素直に帰ったか」

 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」

 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」

 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」

 原「その後の集団自決は予想していたか」

 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」

 原「集団自決のことを知ったのはいつか」

 梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」

 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」

 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」

 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」

 梅沢さん「とんでもない」

 原「島民に餓死者はいたか」

 梅沢さん「いない」

 原「隊員は」

 梅沢さん「数名いる」

 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」

 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」

 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」

 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」


■【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】

原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」

 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」

 原「団長以外の4人の運命は」

 梅沢さん「自決したと聞いた」

 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」

 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」

 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」

 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》

 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」

 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」

 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」

 梅沢さん「1人で行った」

 原「会って、あなたは何と言ったか」

 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」

 原「そうしたら、何と返答したか」

 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」

■【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】

原「どんな話をしたのか」

 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」

 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」

 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」

 原「その反対を押し切ったのは誰か」

 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」

 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」

 梅沢さん「資力がなかったから」

 原「裁判で訴えたいことは」

 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」

 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」

 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」

 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」

 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

■【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】

【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (1/3ページ)
2007.11.9 20:49


 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》

 原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」

 大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」

 原「島民はどこに逃げられたというのか」

 大江氏「実際に助かった人がいるではないか」

 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」

 大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」

 原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」

 大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」

 原「集団自決は予見できるものなのか」

 大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」

 原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」

 大江氏「事実ではないと思う」

 原「その根拠は」

 大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」

 原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」

 大江氏「事実と考えている」


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■資料
原告 梅澤裕 意見陳述書
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論(平成17年10月28日)

原告 梅澤裕 意見陳述書
意 見 陳 述 書 沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論(平成17年10月28日)

一、 梅澤裕でございます。現在、満八八歳になります。
 座間味島島民の集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、今日に至るまで、約半世紀にわたり、汚名に泣き、苦しんで参りました。
 それら辛酸の数々と、この裁判に賭ける思いを、裁判官様に是非ともご理解戴きたく、この場をお借りして意見を述べさせて戴きます。
二、 戦時中、私は、当初、昭和一四年九月から騎兵、戦車兵として従軍して参りましたが、昭和一九年一月、船舶兵への転科の命を受けました。
瀬戸内で夜間の猛訓練の後、同年九月、海上挺進第一戦隊の長となり、座間味島に入りました。
 座間味島の人達は、当時沖縄で最も愛国的な村民で、誠心誠意の人達でありました。皆 一致団結して軍に協力して戴いたので、私達も大いに感謝し、私以下部隊は親睦に留意し、非違行為は一件もありませんでした。
昭和一九年一○月に座間味島で空襲があり、兵舎として使用していた学校が焼失し、我 々が座間味村落内に舎営し分散した際も、老人婦人方には若い兵を息子の様に大事にして戴き、双方より食料を分かち合い、甘味品を分け合いました。
この空襲の際に優秀な鰹舟が煙を発したのを見て、隊員は危険の中を飛び込み消し止めました。之も村民に対する感謝の気持の現れに他なりません。座間味島の人達との関係は、極めて良好なものでした。

三、 昭和二○年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。
問題の日は翌三月二五日のことです。夜一○時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の
幹部が五名来訪して来ました。助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。
その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
1、いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。
2、老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決
します。
3、就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂
させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であった
のかと。昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。
私は五人に、毅然として答えました。
1、決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこ たえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
2、弾薬、爆薬は渡せない。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。
四、 終戦後、私は鹿児島の疎開先にて療養に励みましたが、座間味島の戦闘で受けた骨髄炎 の傷が癒えませんでした。左膝が曲がらなかったため、尻をついて鍬を使い、畑を耕しておりました。
五、ところが昭和三三年頃、週刊誌に慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、座間味島の梅澤少佐が島民に自決命令を出したと報じられました。
私は愕然たる思いに我を失いました。そして一体どうして、このような嘘が世間に報じ
られるのかと思いました。
たちまち我が家は、どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりま
した。実際に勤めていた職場にいずらくて仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれましたし、妻や二人の息子にも世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。
六、 以後、沖縄返還問題に絡め、集団自決の問題はマスコミの格好の標的とされました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報
じられるとは、一体どうしたことか。座間味島の人達と励まし合いながら、お国の為に戦って来たのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。どうしてそのようなことが許されるのか。
余りの屈辱と、辛さと、理不尽さに、人間不信に陥りました。孤独の中で、人生の終わ
りを感じたことすらありました。
七、しかし、昭和五七年六月二三日に「ざまみ会一同地蔵尊建立慰霊祭」が座間味村で行なわれた際に、私は昭和二○年三月二五日に私を訪ねた五人のたった一人の生き残りであった宮城初枝さんから「戦傷病者戦没者遺族援護の申請の際に、梅澤隊長の自決命令があったと記載しましたが、それは事実ではなく梅澤隊長は自決命令を出しておりません。申し訳ありません」と詫びて貰いました。
さらに昭和六二年三月二八日には自決した宮里盛秀氏の実弟座間味村の戦傷病者戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは援護申請のために梅沢隊長の自決命令があったと虚偽を記載して申請したことを、申し訳ありませんと詫びの念書を貰いました。
これで、世間もおさまってくれるだろうし、座間味の人の苦労を考えると補償が得られ
、助かり、沖縄が復興するのであるから私一人が悪者になったことも意味があったかとも思いました。
ところが私に対する事実に反する誹謗中傷はなお、やまないままでありました。
沖縄が復興し、皆が豊かになった今は私の名誉を回復したいとの思いが日々強くなりま
したが、一人ではいかんとも出来ない状態でした。
八、 しかしながら、長年の思いが実り、様々な方のご支援とご協力を得、この度ようやくこの場に立たせて頂くことが出来ました。
戦後六○年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません。理不尽なことに沈黙したまま、名誉を汚され続けた状態で人生を終えることは、正に痛恨の極みという他ないのです。
私は沖縄の復興を衷心より願っておりますが、沖縄が復興し、豊かになった今、私の名誉回復を果たし、一刻も早く心の平穏を取り戻し、日本国民と同じ心境で、今日の平和のありがたさを心から享受したいと切に願っています。
どうか私の長年の思いをご理解戴き、踏みにじられて来た私の名誉が回復出来ますよう、切にお願い申し上げます。
平成一七年一○月二八日

梅   澤     裕


■資料2

【正論】曽野綾子 集団自決と検定 それでも「命令」の実証なし

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 ■戦争責任と曖昧な現実に耐えること
 ≪大江氏の『沖縄ノート』≫
 1945年、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。
 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。
 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。
 ≪ないことを証明する困難さ≫
 これも慎みのない言い方だが、私はその赤松元隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。
 私はそれから、一人で取材を始めた。連載は文藝春秋から発行されていた『諸君!』が引き受けてくれたが、私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。
 (1)愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。その場合、矛盾した供述があっても、話の辻褄(つじつま)を合わせない。
 (2)取材者を怯(おび)えさせないため、また発言と思考の自由を確保するため、できるだけ一人ずつ会う機会をつくること。
 (3)報告書の真実を確保するため、取材の費用はすべて自費。
 今日はその結果だけを述べる。
 私は、当時実際に、赤松元隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松元隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。
 そもそも人生では、「こうであった」という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったと証明することは非常にむずかしい。しかしこの場合は、隊長から自決命令を聞いたと言った人は一人もいなかった稀(まれ)な例である。
 ≪もし手榴弾を渡されたら≫
 この私の調査は『集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』)、出版後の或る時、私は連載中も散々苛(いじ)められた沖縄に行った。私は沖縄のどのマスコミにも会うつもりはなかったが、たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松が自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松が自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。
 戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子工員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾(しゅりゅうだん)を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。
 政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。
(その あやこ=作家)