文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「曽野綾子『諸君!』連載原稿」の「改稿問題」について。『諸君!』連載原稿には、大江健三郎批判はどこにもなかった。大江健三郎の「罪の巨塊(巨魁)」記述が執筆動機になったという話は、たぶん嘘だろう。

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1971年に、雑誌「諸君!」に連載された「ある神話の背景」の雑誌原文、つまり「曽野綾子『諸君!』連載原稿」の全文コピーが、今、僕の手元にあるのだが、それを丁寧に読んでいくと、驚くなかれ、肝心の大江健三郎の名前が何処にも出てこないどころか、例の「罪の巨塊(巨魁)」発言にまつわる曽野綾子大江健三郎批判の記述が何処にもないことに気付くはずで、曽野綾子が『ある神話の背景』執筆の動機となったと言い張る、大江健三郎の『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(巨魁)」発言説は、かなり怪しくなってくる。曽野綾子は、本当に『沖縄ノート』を読み、『沖縄ノート』の中の大江健三郎の「罪の巨塊(巨魁)」記述に触発されて、「罪の巨塊(巨魁)」と呼ばれている赤松元隊長に、直接、会いに行き、取材を試みることを決意したのだろうか。曽野綾子の話を信じるならば、ほぼそういうことが定説になっているだろう、と思う。しかし、「曽野綾子『諸君!』連載原稿」を丁寧に読んでいくと、そこに大江健三郎の名前も、『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(巨魁)」記述も、まったく存在しない。確かに、連載の最終回の原稿の末尾に、参考文献として二番目に、「大江健三郎の『沖縄ノート』」はあげられてはいるが、少なくとも雑誌「諸君!」に12回に分けて連載された「ある神話の背景」の雑誌原文の何処にも、大江健三郎も『沖縄ノート』も、そして「罪の巨塊(巨魁)」も、ない。これはどういうことだろうか。曽野綾子は、大江健三郎の『沖縄ノート』の「罪の巨塊(巨魁)」記述を、『ある神話の背景』連載で完膚なきまでに論破したのではなかっただろうか。たとえば、「大江健三郎は現地取材をしていないが、私は現地取材も関係者本人たちへの直接取材も徹底的に試みた……」というような大江健三郎批判の文章は何処にもないが、これは後から考えた話なのだろうか。いずれにしろ、裁判にまで発展することになった大江健三郎の『沖縄ノート』の「罪の巨塊(巨魁)」記述、およびそれに対する曽野綾子の『ある神話の背景』の中の大江健三郎批判という物語は、後から思いついた話だったのだろうか。「曽野綾子『諸君!』連載原稿」にそれらの記事がないとすれば、その可能性を否定できない。確かに、一冊の本として刊行する時は、雑誌原稿を部分的に改稿したり、削除や加筆をするのは常識であり、その段階で、大江健三郎批判や「罪の巨塊(巨魁)」記述を批判する文章を追加したとしても、なんら問題ではない。しかし、少なくとも雑誌「諸君!」連載時の『ある神話の背景』のテクストには、大江健三郎批判や「罪の巨塊(巨魁)」記述を批判する文章は何処にも存在しないということは、今や、誰の目にも明らかなように、「実証的」にも明らかである、と言える。つまり、単行本化するにあたって、雑誌連載原稿にはほとんどの部分は加筆修正はないと思われるが、1873年の単行本『ある神話の背景』においては、問題の、次の二つの文章だけは、長々と新しいテクストが、追加され、それに続くテクストにも大幅な加筆修正が行われているわけだが、ここでは大江健三郎のテクストの引用の部分だけ、引用しておこう。

慶良間列島渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」(『沖縄ノート大江健三郎著)を今の時点で告発することはやさしいが、それは軍隊という組織の本質を理解しない場合にのみ可能なことなのである。(『ある神話の背景』ワツク版p280)

次は、問題の「巨きい罪の巨魂(「巨塊」の誤記)」記述の部分であるが、むろん、ここも雑誌原稿にはなく、1973年『ある神話の背景』の単行本において新しく追加・挿入されたテキストである。

大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨魂のまえで……(後略)」
このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨魂」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。
私は、赤松隊長が正しかったというわけではなく、三〇〇余人の人々が死んだ事実を軽視するものではない。しかし、三〇〇人はタダでは死なない。かりに一人の隊長が自決を命じても、その背後にある心理がなければ、人々は殺されるまで死なないことを、私は肌で感じて知っているように思う。それが人間の本性である。
(『ある神話の背景』ワック版p296)

以上、二つのテキストは、雑誌「諸君!」連載原稿にはなく、『ある神話の背景』が、1973年に、文藝春秋社から刊行される時に、追加・挿入された部分のテキストであるが、言うまでもなく、僕は、ここで、単行本刊行時に雑誌連載原稿に加筆・挿入した事実を批判しているわけではなく、ただ曽野綾子が、そのことをおくびにも出さずに、『ある神話の背景』の執筆の前後関係について、多くの人も記憶していることだろうが、次のような発言を繰り返していたことを問題にしたいだけである。

 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。

 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。

 ≪ないことを証明する困難さ≫

 これも慎みのない言い方だが、私はその赤松元隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。
(産経新聞)

決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現なさったんです。私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁」と思ったことはない。だから罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。
(「SAPIO」2007/11/28)

曽野綾子にとっては、『ある神話の背景』の執筆動機は、当初は、必ずしも大江健三郎の『沖縄ノート』の記述ではなかったであろうが、次第に、曽野綾子の説明が繰り返されるうちに、『ある神話の背景』の執筆動機の中心に、大江健三郎の『沖縄ノート』の「罪の巨塊(巨魁)」発言が、大きく浮かび上がっていき、曽野綾子の周辺も、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述に大きな関心を寄せて行ったというわけだろう。そして、あたかも、『ある神話の背景』が、大江健三郎の『沖縄ノート』を論破すべく執筆された書物だったかのような共同幻想が、保守論壇を中心に形成されていくのである。
(この稿、続く)


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