文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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『諸君!』連載原稿には大江批判はどこにもなかった。

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前回の続きであるが、曽野綾子の『ある神話の背景』が連載されたのは「文藝春秋」のオピニオン雑誌『諸君!』の1971/10から1972/9までの12回だが、その連載原稿には、驚くべきことだが、大江健三郎の名前も、大江健三郎批判もどこにもないし、さらに、後に裁判沙汰になるきっかけとなったらしい「罪の巨塊(巨魁)」に対する曽野綾子の批判的言説も、少なくとも『諸君!』連載時点での雑誌掲載原稿には一言もない。おそらく、書籍として出版する時に、わざわざ追加・加筆されたのだろうが、追加・加筆に至るまでの経過に、どういう背景事情があったかを探ることは、かなり興味深いことである、と僕は推察する。たぶん、そこに、今回の裁判騒動につながる何かが、あったと見て間違いないだろう。たとえば、「赤松、及び赤松部隊復権運動」の試みを、単に『陣中日誌』を元にした『ある神話の背景』の歴史記述にとどめておいては不充分であり、物足りないと考える人々の存在があり、それらの人々と曽野綾子の間で、『ある神話の背景』雑誌原稿を綿密に読み合わせた上で、『沖縄ノート』で「沖縄集団自決」に、簡単にではあるが、かなり深く言及している大江健三郎という文壇的、あるいは論壇的、社会的権威を仮想敵として攻撃目標に設定し、そこに焦点を当てることによって、さらに「赤松、及び赤松部隊復権運動」をクローズアップさせるという陰謀と謀略が、密かに練られたのではないか。曽野綾子の追加・加筆は、物書きによくある単なる偶然の思いつき、ないしは作品の構成上の修正ではなく、そこには、大きな政治戦略上の意図があったと見て、ほぼ間違いないわけで、その後、曽野綾子が繰り返し繰り返し語ることになる『ある神話の背景』の執筆動機の一つが、大江健三郎の『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊」発言だったという物語も、そういう政治謀略的背景なしには考えられないだろう。僕も繰り返して言うが、『ある神話の背景』の雑誌原稿には、大江健三郎大江健三郎の『沖縄ノート』にまつわる話は、参考文献の中に大江健三郎と『沖縄ノート』という名前が残るだけで、本文のどこにもないのである。この時点では、大江健三郎の『沖縄ノート』を、曽野綾子がそれほど深く読み込んでいなかった可能性すら否定できない。というのは、『沖縄ノート』の中の「集団自決」、ないしは赤松隊長、及び赤松部隊に関する記述は、決して多いわけではなく、むしろ全体から見れば微々たるものであって、それを見逃したとしても不思議はないほどである。しかし、1972/9、連載完結から1973年、単行本『ある神話の背景』の刊行までに、曽野綾子、あるいは曽野綾子の周辺にいた人物達の心理、ないしは、深層心理の中で、何かが変化したことは確実である。では、何が変化し、何が変化しなかったのだろうか。僕は、曽野綾子の『ある神話の背景』の『諸君!』連載原稿を、今回の裁判沙汰以後に精読・再読したわけだが、その時、僕が奇妙に感じたものは、『ある神話の背景』の文体と論理から立ち上る曽野綾子の激しい憎悪と怒りの対象が、「沖縄現地住民」、ないしは「古波蔵村長」、「山田義時」……というような特定の人物達に向けられているという事実と、その時の曽野綾子の激しい憎悪と怒りの対象のなかに「大江健三郎」はいない、という事実だった。つまり、曽野綾子の激しい憎悪と怒りの矛先が「沖縄現地住民」、ないしは「古波蔵村長」、「山田義時」……とともに、「大江健三郎」にも向けられるようになったのは単行本刊行前後からであろうが、その前後に、曽野綾子の心境に大きな変化が生じたであろうことはほぼ間違いない。僕は、その心境の変化が如何なるものであったかに大いに興味がある。むろん、あくまでも文学的興味だが……。ところで、曽野綾子が繰り返し語った『ある神話の背景』の執筆動機や執筆過程とは、次のようなものだった。これは、司法制度審議会議事録に掲載された曽野綾子の発言である。

 過日ちょっと触れましたが、私は過去に書きました数冊のノンフィクションの中から、一つの作品を例に引いて、その作業の困難さをお話ししたいと思います。

 ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。この話は、終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件です。当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていました。

 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。

 当時の資料を列挙しますと、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦「太陽」(浦崎純著)

 などがあります。これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

 私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。  当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。

 第二に、資料です。

 先に述べました資料のうち、1〜3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。

 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

 過日この席で、私のお隣に座っておられる郄木委員が、小声で私に、仮に私が陪審員になっても、与えられた裁判所の資料を信じないのか、と聞いてくださいましたので、私は「もちろんですとも」とお答えしたのです。しかしすぐ後で、私はその答えの軽率さが恥ずかしくなり、「科学的な結果は別ですよ。DNAの判定結果なんかは当然」と慌てて補足いたしました。

 このような調査は、まずすべてのものを疑うという姿勢から発します。裁判所は権威ある機関だから、疑念から省くなどということはあり得ません。それから、資金、時間、体力、事実を調べ上げていく独特の技術が要ります。空想や嘘ばかり書いているように思われている小説家ですが、実は長い年月その訓練を積んでいるからできるのです。もっとも今の私はもうまっぴらごめんという感じですが。

今なら、つまり曽野綾子の「諸君!」連載原稿と書籍原稿を比較した上でなら、曽野綾子のこの「司法制度審議会」での話が、かなり怪しい話だということが分かるかもしれないが、当時は、曽野綾子の論敵以外は、曽野綾子の発言を疑う人はほぼ皆無だった。要するに曽野綾子が、ここで話していることの中には、かなり大きな嘘があることが、今では分かっている。たとえば、曽野綾子は、赤松隊長や赤松部隊の隊員達とは、一人ひとり、別々にあったと言うが、実際は、赤松隊の隊員たちと合同で会っているだけではなく、赤松部隊の隊員たちと、グループで、かなり親密な情報交換を繰り返している。曽野綾子は、「本土では赤松隊員に個別に会いました。」「グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。」と言うが、これは真っ赤な嘘である。たとえば、1970年9月17日、大阪千日前の「ホテルちくば」での、一部の赤松部隊隊員たちの沖縄訪問報告会を兼ねた赤松部隊の「会合」に、オブザーバーとして、中西昭雄朝日新聞記者とともに参加していたことを、曽野綾子自身が、『ある神話の背景』の中で書いている。そしてそこで、問題の赤松部隊の戦時中の記録『陣中日誌』を手渡されている。さらに名古屋でも、赤松隊長や赤松部隊の面々と旅館で「打ち合わせ」をしている。以下は、その時の写真である。1971年6月22日「青い海」という雑誌に掲載されたものである。会合が持たれ、曽野綾子が赤松隊長の隣の席で、深刻な顔で書類を見ているのは、この写真の説明によると「つい先頃」ということだから、1971年6月22日の直前ということだろう。このことから、曽野綾子が、『ある神話の背景』の「諸君!」連載開始以前の取材中に、少なくとも二回は、赤松隊長及び赤松部隊隊員と、一人ひとりとではなく、集団で会っていたことは間違いない。つまり、これは、「本土では赤松隊員に個別に会いました。」という曽野綾子の話が、偽装された物語である事を実証的に証明しているといえるだろう。大江健三郎の話は、言うまでもない。


(この稿、続く)




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