文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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曽野綾子が「諸君!」連載原稿に書き加えたもの……。

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曽野綾子が「諸君!」連載原稿に書き加えたものは、そんなに多くないが、中でも目をひくのは、前回も書いたが、大江健三郎大江健三郎の『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(巨魁)」記述と「スパイ視住民虐殺」記述に関する部分と、それに対する曽野綾子の批判の部分だが、それに追記、あるいは補強するように、「スパイ視住民虐殺」記述の次の段落(ワック版p280-p281)に、次の一文が書き加えられている。何のために? これを付け加えることによって、曽野綾子は何を言いたかったのか?またこれを追記するのに誰かの助言があったのだろうか?

軍隊が地域社会の非戦闘員を守るために存在するという発想は、きわめて戦後的なものである。軍隊は自警団とも警察とも違う。軍隊は戦うために存在する。彼らはしばしば守りもするが、それは決して、非戦闘員の保護のために守るのではない。彼らは戦力を守るだけであろう。作戦要務令綱領には次の一文が明確に記されていた。「軍の主とする所は戦闘なり、故に百事皆戦闘を以て基準とすべし」

この一節は、ほぼ雑誌原稿そのままだが、最後の赤い部分だけが、書籍として刊行される時に、新しく追記されているものだが、それに続く部分は、一段落は雑誌原稿のままだが、その次の段落からは、新しい文章による完全な書き加えが行われている。たとえば、次のような文章は、雑誌連載時の原稿にはない。

国際法によれば、戦闘は、正式な軍服を着た軍人によってのみ、行われねばならない。もし民間人が、戦闘を行った軍の陣地内にいて、万一捕虜になった場合は、これはゲリラ要因とみなされ、その場で射殺されても仕方がないことになる。戦う人間が民間人の服を着てゲリラをすることが一般化して来たのは、ベトナム戦争以来のように見える。それは戦争が、国家間のものではなくなり、国家対或る非国家的組織との間にでも行われるように゜なったからである。……(以下略)



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