文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■芥川賞の政治学と新国民像の構築。


にほんブログ村 政治ブログへ■コメント欄■



芥川賞政治学と新国民像の構築

今回の芥川賞が、チベット問題や食品問題等、何かと問題の多い、波乱含みの北京オリンピックの開幕にピタリとタイミングを合わせるかのように、「大学受験、天安門事件との関わり、日本人残留孤児の長女との結婚、日本への移住、日本における中国人社会での生活などが真正面から描かれている」(黒井千次芥川賞選評」)、日本在住の中国人女性で、留学生出身の作家ヤン・イ−の作品『時が滲む朝』に決定したという情報に接した時は、芥川賞という文学賞の、その、あまりにも露骨な政治性と時局便乗ぶりに反発を感じたのだが、不思議なもので、時間が経つにしたがって、また別の感想も持つようになったので、今月は、それらのことにについて書いてみよう。
そもそも芥川賞という文学賞は、設立の当初から、つまり第一回受賞者石川達三の作品が、当時の国策であった「海外移民」をテ−マにした政治的な社会小説であったことや、戦時中には、中国大陸に一兵士として従軍していた火野葦平芥川賞が与えられたように、あるいは、戦後、沖縄返還、本土復帰に際して、沖縄の作家たちに芥川賞が次々と与えられた例等が示すように、きわめて政治的で、時局便乗的な文学賞だったのであり、要するに芥川賞という文学賞は、何か大きな政治的イベントが行われる時は、皮肉な言い方をすれば、その政治的テ−マの方に流されるのが芥川賞本来の姿なのであり、今更、そのことを理由に今回の芥川賞の「いかがわしさ」を批判してみても始まらない、と思うのだが、芥川賞選考委員で芥川賞受賞作家である村上龍のように、未だにそのことを、充分、自覚出来ない作家も少なくないようだ。村上龍は、「選評」で、迂闊にも、こんなことを言っている。
《おそらくわたしの杞憂に過ぎないのだろうが、『時が滲む朝』の受賞によって、たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く「小さな物語」よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている。》
私は、必ずしも、政治的な「大きな物語」よりも個人的な「小さな物語」を……という村上龍の小説論的な言い分に反対ではないが、しかし、それを、芥川賞に期待するのはお門違いではないのかと言いたいだけだし、あるいは、芥川賞の文学イベントとしての成功の秘密は、個人的な「小さな物語」よりも政治的な「大きな物語」を、芥川賞設立の当初から、一貫して重視してきたところにあるのではないのか、と言いたいだけである。そもそも村上龍芥川賞受賞作『限りなく透明に近いブルー』にしてからが、米軍基地やドラッグ、ファックといような政治的、時局的な「大きな物語」的要素を高く評価されたから芥川賞受賞にいたったのではないのか。
したがって、今回の、中国人青年の天安門事件体験や日本留学体験を素材にした、在日中国人であるヤン・イ−の『時が滲む朝』の芥川賞受賞の政治的な意味は、私は皮肉を込めて言うのだが、決して小さくないと考える。それは、留学や出稼ぎ、あるいは不法入国や国際結婚等によって流入してきた大量の中国人の「日本国民化」問題、言い換えれば、在日中国人をも含めた多民族国家的な、日本という国家の「新国民イメージ」問題という、現代日本がこれから不可避的に向きあわざる得ない政治問題や社会現象を、国民文学的に先取りしていると言えるからである。その意味で、結果的には、今回の芥川賞は、単なる文学賞の枠を越えて、かつての朝鮮、台湾、満洲などを巻き込んだ大東亜共栄圏的な「日本文学」イメージをも連想させるのである。

■日本語・日本文学の中の「中国人作家誕生」という事件

ヤン・イ−は、前回の芥川賞でも、「文学界」新人賞を受賞したテビュ−作「ワンちゃん」で芥川賞の有力候補になっており、今回は二回目ということで、きわめて順当な芥川賞受賞と言っていいのだが、初めての日本語・日本文学の中の「中国人作家誕生」という、前代未聞の珍事に、われわれ日本人の方が、その新事態を上手く飲み込めずに、どちらかというと慌てているというのが実情のようだ。というわけで、今回の芥川賞においては、受賞作の問題は当然のこと面白いテ−マだろうが、それ以上に選考委員たちの「選評」を読むのが面白いテ−マなのだが、中でも、石原慎太郎村上龍という二人の、かなり政治的、時局的な作風の作家が、公平中立な原則論的な文学論の見地から、受賞に反対したらしいことが、その選評から読みとれて興味深い。反対に、政治や時局とは無縁そうな、川上弘美山田詠美等が、政治的な中国人作家誕生という事件に、さほどの抵抗感をもたず、むしろ文学的な意味において積極的に授賞に賛成したらしいことがわかる。むろん、これらの差異は、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとかいう問題ではないだろうが、やはり、ここには、それぞれ
の作家の文学に対する姿勢や、それぞれの作家の文学的資質の問題とともに、かなり重大な問題が含まれているように見える。
たとえば、選考会には欠席したという石原慎太郎は、書面回答での選評で、こう書いている。

《『時が滲む朝』は中国における自由化合理化希求の学生運動に参加し、天安門で挫折を強いられる学生たちの群像を描いているが、彼等の人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書きこみが乏しく、単なる風俗小説の枠を出ていない。文章はこなれて来てはいても、書き手がただ中国人だというだけでは文学的評価には繋がるまい。》

石原慎太郎の選評は原則論的な文学論としては正しいかもしれないが、実践的、具体的な小説創作の現場における文学論、小説論としては、あまり意味があるとは思えない。「政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書きこみが乏しく、単なる風俗小説の枠を出ていない。」とか、「文章はこなれて来てはいても、書き手がただ中国人だというだけでは文学的評価には繋がるまい。」という批判は、ステレオタイプな議論の典型であり、まともな批判らしい批判になっていない。今回の芥川賞の政治的な意味は、良かれあしかれ、今、まさに単一民族神話に安住する日本社会の根幹を揺るがしかねない脅威の存在である「在日中国人」が、日本のもっとも権威ある、代表的な文学賞である芥川賞という聖域に闖入し、あっさり受賞したところにある。もっとも政治意識旺盛のはずの石原慎太郎に、そういう危機意識が欠如していると言わなければならないとはまことに皮肉である。


■『時が滲む朝』をどう読むか?
石原慎太郎村上龍の「選評」での発言にみられるように、政治的情報に精通し、政治的感覚が鋭いと思っている作家に限って、政治的情勢論や政治的イデオロギーに振り回されて、当面する事態の肝心の政治的本質を見誤る例が少なくない。たとえば、中国問題等、かなり刺激的で、微妙な問題が介在するとなると、途端に頑なになり、文学作品ですら硬直した政治的な尺度でしか読めなくなってしまうというように。それに対し、政治や情勢論に無関心で、政治的テ−マを語ることを苦手にしていそうに見える作家に限って政治的事件の本質を深くえぐり出すものである。あるいは、徹底的な商業主義路線の、一見、時局に迎合しているように見える「いかがわしい」文学的な態度こそ、新しい政治的な変動の本質を、結果的に見れば、正解にとらえているものである。ちなみに、繰り返しになるが、芥川賞という文学賞の歴史が証明していると言っていいが、その意味で、私は、今回の芥川賞「選評」を読みながら、川上弘美高樹のぶ子山田詠美等の「女流作家」たちの素朴で凡庸な発言に興味を持った。川上弘美は、次のように書いている。
《「時が滲む朝」、見知らぬ人たちなのに、この小説に出てくる人たちを、どんどん好きになってしまった。それは、あるようでいて、実際にはめったにないことです。受賞をとても嬉しく思います。》
この素朴な批評的発言の意味するものは、その単純明解な言葉とは裏腹に、かなり複雑で難解である。川上弘美は、チベット問題を初めとする中国問題や北京オリンピック開催資格問題などに、芥川賞作品『時が滲む朝』が掲載されいるのと同じ「文藝春秋」九月号の、「北京五輪日中大論争」で、中国人学者を相手に、「チベット弾圧、人権侵害、不気味な軍事力拡大−−この国に五輪開催資格はあるのか?」「中国共産党政府には五輪を開催する資格はないと考えるに至りました。」等と、大まじめに、あまりにも政治主義的で、稚拙な論争を挑んでいる桜井よしこ等のように、それほど深い関心は持っていないかもしれないが、逆に、それ故に、つまり近視眼的な政治問題やイデオロギー等に曇らされない眼で、問題の本質を正確に掴んでいる可能性が高い。当然の事だが、私は、桜井よしこより川上弘美が政治的に鈍感で無知だとは微塵も思わない。
高城のぶ子は、さらに具体的に、こう書いている。
《「時が滲む朝」は天安門事件の時代に青春を過ごした中国人男性の、その後の二十年を描いた個人史である。この間、日本はゆるやかに下降し、劣化し、行き詰まった。同じ二十年がかくも違うものかと思った。久しぶりに人生という言葉を文学の中に見出だし、高揚した。》《当たり前のことだが新鮮である。人間が生きている。前回の候補作と全く違う素材で、前回より締まった日本語で書ききった力は信頼できる。何より書きたいことを持っている。書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。根本の熱がなければ、文学的教養もテクニックも空回りする。》
高城のぶ子も、川上弘美同様に、『時が滲む朝』という文学作品に対して、政治的な読みを排して、テキストそのものに直に向き合っていることがわかる。高城のぶ子が、『時が滲む朝』を読んで「高揚した」「人間が生きている」というのは正直な印象批評であって、これ以上に厳密な読解は不可能だろう。つまり、『時が滲む朝』は、尾崎豊の「アイラブユ−」を、作品創造の重要なモチベーションの一つにするなど、読者に迎合するかのような、かなり通俗的で、文学的欠陥も目につくが、それゆえに、山田詠美は「直木賞向き」と評価するのだろうが、にもかかわらず、『時が滲む朝』は、政治的な色メガネをとって読むならば、圧倒的に面白い、感動的な小説なのだ。
さらに高城のぶ子は、政治絡みの次のような重大な発言も行っている。
《中国の経済はいまや否応なく日本に大波をもたらしているが、経済だけではなく、文学においても、閉ざされた行動範囲の中で内向し鬱屈する小説や、妄想に逃げた作品は、生活実感と問題意識を搭載した中国の重戦車の越境に、どう立ち向かえるのか。今回の受賞が日本文学に突き付けているものは大きい。》
高城のぶ子の、この主張に全面的に賛成するわけではないが、少なくとも、中国への批判と罵倒にばかり夢中になって、日本の現状への自己批判を忘れて、ただひたすら傲慢・不遜な態度をとり続けるしか能のない桜井よしこ等よりは、高城のぶ子の方が、はるかに信頼出来る、と私は考える。