文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小林よしのりと曽野綾子だけの支援で成り立つ「控訴審理由書」の思想的レベルと知的怠慢について。

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「沖縄集団自決裁判」をめぐる今度の大阪高裁での原告弁護団製作の「控訴審理由書」を読むと、原告側を、文筆言論活動を通して直接的に支援する文化人が、わずかに小林よしのり曽野綾子の二人だけであることがわかるが、それは、とりもなおさず、この裁判に賭ける原告側弁護団の知的怠慢と思想的レベルがどの程度のものであるかを象徴的にあらわしている。曽野綾子は、一審判決後、この「沖縄集団自決裁判」について、肝心な問題については、つまり「悪の巨塊」を「悪の巨魁」と誤読しているという問題については、一審判決直前までは饒舌に執拗に繰り返していたにもかかわらず、一審判決後は一言も抗弁せず、沈黙を守り通しているわけだが、そのことがまさしく「曽野綾子誤読事件」を実証的に明らかにしているわけだが、今度は、連載エッセイで、問題点を大きくずらして、次のような内容の大江健三郎批判を展開しているらしい。「控訴審理由書」からの引用である。

2 原判決後、曽野綾子が雑誌に連載中のエッセイで、この判決に触れ、『沖縄ノート』の中で、被控訴人大江が、赤松大尉の心理を推測して、しかも不確かな事実に基づいて、「かれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす」「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」「かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際に起こったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう」などと書いていることに対し、「全くつきあいもない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。」とし、「それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う。」と書いていますが、全くそのとおりである。

曽野綾子は、某雑誌の連載エッセイで、「……この判決に触れ、『沖縄ノート』の中で、被控訴人大江が、赤松大尉の心理を推測して……」と書いて、大江健三郎を居丈高に批判しているらしいが、そしてこれは大江健三郎沖縄ノート』批判の一つの紋切り型として原告側に広く知れ渡っている議論のパターンだが、作家や批評家にとって、全くつきあいもない他人の「心理を推測して……」書くことは職業的常識であって、それを人権侵害とか名誉毀損の名の下に禁止されたら文学的表現や思想表現そのものが不可能になるだろう、とも言うべきものであって、作家を自称する曽野綾子にしてからが、いったいこれまでに、他人の「心理を推測して……」書くことはなかったと言うのだろうか、と突っ込みを入れたくなるのは僕だけではあるまい。ましてや、次のように言うくだりは、曽野綾子よ、お前は本当に作家なのか、と言いたくもなるというものだが、驚くべきことに、曽野綾子は、「全くつきあいもない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、……」と大江健三郎の文学的エクリチュールを批判しているが、言うまでもなく、これは、批判になっていない。作家や批評家は、誰でも、全くつきあいもない他人の心理のひだのようなものを推測し、断定する。それが嫌なら、作家や批評家をやめて、沈黙するほかはないわけで、曽野綾子は、表現の対象となる側に立って、「全くつきあいもない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。」と断言するならば、即刻、作家稼業を辞めるべきであり、そして究極的には人間のあらゆる表現行為を禁止し、人々に沈黙を強制するべきであると思うが、まさか、そんなことまで考えているわけではないだろう。要するに、曽野綾子大江健三郎批判は、まったく根拠のない批判であって、文学的にも荒唐無稽な妄言に過ぎない。曽野綾子は、さらに、大江健三郎が、赤松隊長を、「アイヒマンだ……」と言ったと言うが、これの日本語読解も奇怪である。大江健三郎は、「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが……」と書いているのであって、むしろ、ここでは、赤松隊長は「アイヒマンのようではなかった……」という意味で表現しているのであって、曽野綾子の日本語読解の方がここでも変なのであり、これでよく作家稼業が勤まるものだとでも言うほかはない。曽野綾子は、大江健三郎の赤松隊長批判の文章を捕えて、「たまったものではない。」と言うが、こういう初歩的な日本語の読解力も持ち合わせていない作家に絡まれる大江健三郎こそ、たまったものではない、と言うべきだろう。この「アイヒマン」の問題については、ハンナ・アーレントの『イスラエルアイヒマン』論とも絡めて、もつと別に詳しく論じるつもりなので、ここではこれだけにするが、大江健三郎は、赤松隊長をアイヒマンにたとえていないし、むしろ赤松隊長をアイヒマンと比較した上で、赤松隊長はアイヒマンのようではなかった、と書いていると指摘しておくだけにする。曽野綾子やそれに追随する原告側の面々は、アイヒマンという言葉に単純に反応しているだけであって、無理かもしれないが、アイヒマンという言葉を使用するに際して、大江健三郎がどういう意味でこの言葉を使っているかを、前後関係の文脈をも考慮しつつ、もっと文章の前後をも熟読し、深く考えてみるべきであろう。さらに追記すれば、曽野綾子は、「それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う。」と書いているらしいが、この文句もおかしい。大江健三郎が、赤松隊長を「個人攻撃」してはいけないみたいな書きかただが、何故、赤松隊長の所業を取り上げ、「個人攻撃」をすることがいけないのかが、そもそも疑問である。赤松隊長は、いやしくも当時の渡嘉敷島の全権を掌握していた守備隊長ではないか。しかも赤松隊長指揮下の渡嘉敷島で、前代未聞の現に「集団自決」が起きたのであってみれば、赤松隊長が、指揮官として無傷で、つまり清廉潔白な何の責任もない指揮官という立場でいられるはずはあるまい。赤松隊長が、集団自決の命令を下したかくださなかったかどうかという問題は別としても、渡嘉敷島全島を指揮下においている指揮官としての責任は免れがたいであろう。つまり、赤松隊長が、結果責任として、集団自決に関連してその指揮官として責任の追及や道義的非難の、つまり「個人攻撃」の標的になるのを、妨げるものはなにもないのだ。それはともかくとして、赤松隊長への「個人攻撃」そのものが悪いことであるかのように言う曽野綾子の思考経路こそ怪しいのであって、そこには何らかの政治的意図でもあるのだろうというような推測と憶測を許すような、かなり奇怪で支離滅裂な思考経路なのである。さて、曽野綾子発言の問題はこれぐらいにして、次に原告側弁護団が頼りにしているらしい小林よしのりの発言を見てみよう。次は、原告側弁護団が書いた「控訴審理由書」の中の小林よしのりに関する部分であるが、それによると小林よしのりは、大江健三郎の文学は「究極の差別文学」であるという珍説を披露しているらしい。

3 また、原判決は何ら触れるところがないが、『沖縄ノート』は、「屠殺者」という差別語を用いて赤松大尉を罵っています。そして赤松大尉の内心の言葉として、「あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか」と言わせ、集団自決で死んだ渡嘉敷島の村民を、命令のままに集団自決する主体性なき「土民」と貶めています。

小林よしのり氏は、漫画「ゴーマニズム宣言」で、この点を指摘し、「『沖縄ノート』は究極の差別ブンガクであり、大江健三郎は究極の偽善者である。沖縄法廷で裁かれるべきは大江本人であろう。」としています。

差別ブンガクという表現が適切かどうかはさておき、それほどまでに『沖縄ノート』の表現は、異様であり、執拗かつ粘着的であり、憎悪をかきたてずにはおれない煽情的なものであり、悪意に満ち、人間の尊厳と誇りを内面から抉るように腐食するものであり、高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れています。それは究極の人格非難であり、個人攻撃でした。 

ここでも、原告側弁護団は、「究極の差別ブンガク」というマンガ右翼・小林よしのりの素朴、且つ単純な大江健三郎批判を、そのまま鵜呑みにして、「控訴審理由書」の論理構築の重要な柱にしているが、ギャグ漫画家に頼って裁判闘争に勝てると思うところが、この原告側弁護団(ダメ弁護士徳永某)の思想的劣化と頓珍漢ぶりを露呈している、と言わざるを得ない。原告側には、大江健三郎を論理的に、そして実証的に論破出来る、もっとマトモな文化人、思想家、学者はいないのか。ところで、原告側弁護士は、それをどう評価するかはともかくとして、いやしくもノーベル賞作家・大江健三郎を裁くという裁判で、その有罪の論拠として、ギャグ漫画家のマンガの一場面を持ち出し、「ホラ、見なさい、マンガ右翼も、こう言っていますよ」と大真面目に裁判官に訴えているわけだが、マンガが社会的にどういう位置のものかは知らないが、そういうことは別にしても、ともかくとして、正直に言って、日本語テキストもまともに解読できないマンガ家の他愛ないトンデモ発言を裁判の重要な証拠書類として提出し、「これで、裁判勝訴は間違いないだろう……」と大見得を切るダメ弁護士の振る舞いこそ、まさしく素朴な意味で、「ギャグ」であり、「マンガ」である、とでも言うほかはない。漫画家の地位がいくら向上したとはいえ、ノーベル賞作家を相手に裁判闘争を戦おうとする弁護士が、漫画家に救いと援助を哀願するとは、世も末であり、これで裁判に勝てると自信満々に確言する弁護士に、あらためて、「オヌシ、頭は大丈夫か?」と問いたくなるというものだ。さて、小林よしのりは、いかにも頭の悪い漫画家らしく、大江健三郎が使っている「屠殺者」とか「土民」という言葉を捉えて、大江健三郎は、赤松大尉(隊長)を「屠殺者」と呼んでののしっているとか、また沖縄現地住民を「土民」と呼んで差別していると言うわけだが、これもまた単語の一つ一つに条件反射的に反応しているだけで、日本語の文章の読み方としてあまりにも単純素朴であり、その日本語読解能力を疑わざるを得ない。これではまるで、「屠殺者」とか「土民」という言葉を使ったこと自体が、究極の「差別文学」を形成するかのような論理と構造になっているではないか。笑止である。大江健三郎は、正確には、こう書いている。「……あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決命令を受け入れるほどにおとなしく……」と。この文章を冷静に読み解くならば、そこから読み取れるのは、「土民」という言葉に括弧が付けられていることからも明らかなように、ここでは、この言葉は「比喩」として用いられたものであり、さらにその上、この言葉は、大江健三郎が現地住民をそう呼んだというのではなく、赤松大尉(隊長)が、現地住民を「土民」と見做して差別していたはずだ、という書き方になっているということであって、小林よしのりの言う「差別ブンガク(文学)」とは無縁である。あくまでも、赤松大尉(隊長)から見られた現地住民のイメージが、「土民」のような存在だったということである。これを、「土民」という言葉にのみ条件反射的に反応して誤読した上に、大江健三郎の『沖縄ノート』そのものを、究極の「差別ブンガク(文学)」だなどと言う小林よしのりこそ、正確なテキスト読解より、「俗受け」と「売り上げアップ」ばかりを狙うギャグ漫画家なら当然のことかもしれないが、日本語のテキストもろくに読めないドシロートだということになるだろう。それにしても、曽野綾子小林よしのりの日本人離れした日本語読解力を単純に信頼して、大江健三郎の『沖縄ノート』は、「高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れています。それは究極の人格非難であり、個人攻撃でした。」と言う弁護団の知的怠慢と思想的劣化は、まともに目も当てられないほどのヒドサである。「高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れて……」いるのは、『沖縄ノート』を書いた大江健三郎ではなく、渡嘉敷島住民を、虫けらのように次々と斬殺してケロリとしている赤松嘉次陸軍大尉やその仲間、あるいは赤松嘉次陸軍大尉その仲間に悪いことは何もない、立派な帝国軍人だった……と絶賛し賛美する小林よしのり曽野綾子、そして「集団自決」は住民の自由意志と勝手な自己責任で行われた、赤松嘉次陸軍大尉は「集団自決」とは関係ない、と主張する原告側弁護団や応援団の方ではないのか。再び言う、原告側には、もっとマトモな文化人、知識人、学者は他にいないのか。いたとしても、この弁護団の思想的レベルでは無理か。最後に外野席から聞こえてきた野次馬の発言……。「ならば、クライン孝子先生か桜井よしこ先生でも引張り出してくれば……」(笑)。 

(この稿、続く)



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