文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

誰も読んでいない『沖縄ノート』の記述。…大江健三郎を擁護する(2)。


一昨日の大阪地裁における「沖縄集団自決裁判」の模様が次第に明らかになりつつあるが、僕が、裁判報道やそれに対する識者や野次馬のコメント類から興味を覚えたのは、裁判の原因になったと思われる大江健三郎の『沖縄ノート』なる岩波新書そのものを、ほぼ全員が、ほとんど実質的には、読んだことも手に取ったこともないのではないか、と思われた点であった。裁判の原告の一人である、元帝国軍人で、当時沖縄守備隊長(座間味島)であった梅沢裕にしてからが、この本のために、名誉を傷つけられ、妻は頭を抱え、子供たちは学校へ行くのさえ嫌がったと言いながら、実は、この裁判が開始されるまで、この本を読んだことがなかった、と証言したそうだが、いかにもありそうな話だと思いながらも、やはり、僕は、あまりの馬鹿馬鹿しさに愕然とした。梅沢は、『沖縄ノート』そのものを読んだことも見たこともないのだから、他人に教えられ、吹き込まれたニセの名誉毀損の被害者意識を脳裏に刻み込み、やがてその被害者意識はいくらでも拡大し、被害妄想という空想の闇を何処までも駆け巡らせることができるわけだ。そもそも、大江健三郎が『沖縄ノート』の最終章で、あえて個人名を出さずに、しかも自決命令自体も、「沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男…」といういかにも大江健三郎らしい用意周到な断り書きを入れつつ、簡単に触れている集団自決における守備隊長の話も、梅沢裕ではなく、もう一人の原告である赤松某(故人)の方である。一昨日の法廷でも、大江健三郎と裁判官の間で、こんな遣り取りが交わされている、

裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」。
大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」

つまり、座間味島の守備隊長であった梅沢裕については、大江健三郎の『沖縄ノート』には具体的には何も書かれていないのである。したがって、今更、言うまでもなく、そもそも、梅沢裕が、大江健三郎の『沖縄ノート』で名誉を傷つけられるわけもないのであって、大江健三郎や『沖縄ノート』、そしてその出版元である岩波書店を訴えるのもお門違いなのである。告訴そのものが薮蛇である。もし訴えたければ、前回も書いたように、大江健三郎も重要な参考資料として活用したと言う「沖縄タイムス」の『鉄の暴風』や『沖縄戦史』とその執筆者を訴えればいいことである。「守備隊長が自決命令を下した…」という話は、終戦直後の早い段階に、「沖縄タイムス」が刊行した『鉄の暴風』や上地一史の『沖縄戦史』から始まっているからだ。では、何故、大江健三郎と『沖縄ノート』、そして岩波書店が裁判のターゲットに選ばれて、「沖縄タイムス」の『鉄の暴風』(太田良博著)や『沖縄戦史』(上地一史著)は選ばれなかったのか。そこに、この裁判の「いかがわしさ」があることは言うまでもないが、この裁判の火付け役であり、この裁判の支援者であり、今やこの裁判のジャンヌ・ダルク的存在に祭り上げられているのではないか(笑)、と思われる作家の曽野綾子が最近書いた産経新聞「正論」のエッセ(「集団自決と検定 それでも「命令」の実証なし」)に、その答えはある。曽野は、『或る神話の背景』(最近、『集団自決の真実』に改題)の執筆動機に触れて、こう書いている、

1945年、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。

このエッセの記述にも明らかなように、曽野は、「海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)」が、つまり渡嘉敷島の守備隊長だった赤松元隊長が、終戦から25年後の1970年、慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけが抗議団によって追い返された事件から、この問題に興味を持ち、取材を開始したと書いている。しかも、長い間、赤松嘉次大尉(当時)が住民に対して自決命令を出し、その結果、集団自決…、という話も、『沖縄ノート』を読む以前から、曽野が知っていたとがわかる。言い換えれば、ここまでは、大江健三郎とも、大江健三郎の『沖縄ノート』とも何の関係もない。曽野が、勝手にこの集団自決や赤松元隊長の話に関心を持ち、勝手に取材を開始したというだけのことである。しかし、曽野は、突然、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述の中の「罪の巨塊」という言葉に話を移していく。大江健三郎が、赤松元隊長の行為に関して、「罪の巨塊」と表現したことが、カトリック信者である曽野にはケシカラン…(笑)、というわけだ。そしてとんでもない独断的な珍説を披露する、≪「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。≫。いやはや、恐るべき論理の飛躍というか、狂信的なドグマとでも言わなければならないが、しかし、少しイカれたカトリック信者なら、そう考えるのが普通なのだろう。さて、大江健三郎が使った「罪の巨塊」だが、曽野は、この言葉を「罪の巨魁」(大悪人、極悪人)と理解しているようだが、とんでもない誤読である。大江健三郎は、≪罪の巨塊の前で、かれは…≫と書いている。「かれ」と「罪の巨塊」は同一物ではない。大江健三郎は、一昨日の法廷で、こう説明している。

「罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」「私は『罪の巨塊の前で、かれは…』と続けている。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」・・・

曽野が、意識的にやったか、無意識のうちにやったかはわからないが、曽野の誤読は、作家にあるまじき乱暴で大胆な誤読というほかはない。さらに、この曽野の誤読は単なる曽野個人の問題にとどまらず、大きな波紋を広げ、原告側の被害妄想を掻き立てることになったらしい。原告の一人、赤松(弟)は、大江健三郎に「極悪人」と書かれ、兄も自分(赤松弟)も、著しく名誉を侵害されたと陳述書に述べているらしいが、それに対して、大江健三郎は、そんな「極悪人」なんて言葉はどこにも書いていない、と反論している。

被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」。
大江氏「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」

いずれにしろ、曽野の誤読が招いた嗤えない喜劇の一例である。というよりも、そもそも、誰にそそのかされたのか知れないが、告訴する対象の「本」もろくに読まずに、曽野綾子ごとき三流作家の書いた駄本をチラッと斜め読みしただけで、敵は大江健三郎の『沖縄ノート』であると錯覚し、そのまま法廷に立つほうがおかしいのである。裁判を続けたいなら、まず、大江健三郎の『沖縄ノート』を熟読しろ、と申し上げたい。しかし、それにしても不思議なのは、曽野が、赤松元隊長の行為を擁護するために、大江健三郎と『沖縄ノート』の記述の一部をダシに使ったことである。むろん、他人の本をダシに使うことも批判することも自由だが、しかし、「集団自決問題」や「軍命令問題」の責任を、大江健三郎と『沖縄ノート』に摩り替えたことである。まるで、大江健三郎が、「軍命令説」なるものを最初に言い出し、そしてそれを広めた、それ故に大江健三郎にすべての責任がある(笑)、とでも言わんばかりに…。確かに「本」の営業戦略としては、大江健三郎や『沖縄ノート』をターゲットにすれば、目立つし、本も売れるだろうから、良い目のつけ方だったかもしれない。ちなみに、曽野は、この問題・事件を、『或る神話の背景』というタイトルで本にしたが、長い間絶版状態であったらしく、最近、『集団自決の真実』に改題して、再刊している。それにしても、作家ならば、到底考えられないことだが、大事な著書のタイトルを、何故、あっさり変更したのだろうか。タイトルなんかどうでもいいような、そんな程度の本だからだろう、と言ってしまえば、実も蓋もない話だが、要するに、曽野綾子にとって大江健三郎や『沖縄ノート』は、もともと、たいして関係のない話なのである。つまり、曽野の言う「或る神話」は大江健三郎が創作した神話でもなんでもなく、戦後の沖縄に、沖縄住民の証言などから自然発生的に生まれてきた神話であって、曽野が、「神話の脱神話化」をめざすならば、その矛先を大江健三郎大江健三郎の著書『沖縄ノート』に向けるのはお門違いであり、論点のすり替えそのものなのである。何故、曽野は、沖縄タイムスや『鉄の暴風』の著者・太田良博や、あるいは沖縄の「軍命令があった」と証言する証言者たちと向き合い、彼らと対決しようとしなかったのか。ちなみに、曽野に反論した『鉄の暴風』の著者・太田良博に対しては、「精神分裂症じゃないの…」という暴言まで吐いているらしい。ところで、曽野は、自慢の現地取材で出会った現地住民の中には、「軍命令」を主張する人たちは一人もいなかった、と言うが、「現地取材」や「現地証言」というものは、えてして、そういうものだろう。「現地取材」を繰り返せば、「歴史の真実」が解明されるなんて幻想である。取材に来た何処の馬の骨か分からない余所者に、誰が、ペラペラと「歴史の真実」を語るか。考えればすぐ分かることだろう。曽野の文学がダメなのは、そんなことも分からずに、素朴リアリズムとも呼ぶべき「現地取材中心主義」(笑)で、文学活動や言論活動を繰り返しているところにある。大江健三郎に太刀打ちできるわけがない。「大江健三郎は現地取材をせずに、間違った情報を垂れ流している」と、曽野は批判したいようだが、大江健三郎が依拠しているのも、それが真実かどうかは別として、沖縄在住の新聞記者や現地在住の研究者たちの長年にわたる執拗な「現地取材」の成果ではないか。曽野の現地取材は真実で、沖縄在住の研究者たちの現地取材は間違っている、と誰が判定するのか。現地取材をしなかった大江健三郎の『沖縄ノート』はウソだらけで、現地取材をした曽野の本は真実だらけ、なんて考えるのは、曽野の独断的な妄想以外のなにものでもない。「歴史哲学者」としてのヘーゲルは、現地取材に基づいて「アジア史」を書いたのか。あるいはツュキュディディスや司馬遷は…。素朴な現地取材至上主義こそ、「歴史の捏造」への片道切符なのである。たとえば、「集団自決に日本軍(守備隊長)の命令があった…」という歴史記述も、現地取材に基づいているにもかかわらず、そういう「歴史の捏造」の一例かも知れないのである。「世界を理性的に見る人にとってこそ、世界は理性的に見えてくるのであって、二つはたがいに作用をおよぼしあう」(ヘーゲル『歴史哲学講義』)のである。というわけで、集団自決裁判に関心を寄せている関係者たちの多くが、曽野の話を、現地取材をしているという理由から、鵜呑みにしているようだが、これ以上恥をかかないためにも、曽野の間違いだらけの駄本ではなく、大江健三郎の『沖縄ノート』をちゃんと読むことをお勧めする。大江健三郎の『沖縄ノート』は、集団自決をテーマにした本ではないし、また沖縄集団自決を2、3回取り上げているが、集団自決において、梅沢某や赤松某の「軍命令」があったということを、強調した本でもない。『沖縄ノート』で名誉毀損されたとかなんとか言って大騒ぎしている人たちは、曽野の悪質なプロパガンダに乗せられているだけだ。『沖縄ノート』を精読したら、集団自決の話がどこにも書いていないので、正確に言えば2、3箇所で触れているだけだから、おそらく失望・落胆するはずである。曽野綾子の「報道犯罪」(笑)の罪は重い、と言わなければならない。というわけで、曽野は、裁判などで、大江健三郎に張り合うのではなく、まあ、無理だろうけれども(笑)、文学者として執筆する作品の質で勝負すべきである。『誰のために愛するか』『「いい人」をやめると楽になる』『失敗という人生はない』…なんてくだらない駄本を書く暇があったら、もっと文学や歴史を真剣に勉強しろ…と申し上げたい。(続)




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