文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「君が代」の「君」とは誰のことか?


小林よしのりの『天皇論』が出てからしばらく経つが、その『天皇論』に関して、小林自身はさかんに「売れている、売れている」と、さも思想的大事件でも起こったかのように、例によって例のごとくマッチ・ポンプ的に騒いでいるが、騒いでいるのは本人だけで、論壇やジャーナリズムは、小林の『天皇論』を思想問題として取り上げる気配はなく、むしろその『天皇論』をめぐっては、真面目な思想的議論や批判や論争が、何処からも起こりそうもないというのが実情だろう。つまり論壇やジャーナリズムは、小林よしのりマッチポンプ的営業戦略の片棒を担ぐことを警戒して、完全に無視、黙殺していると言った方がいい。僕は、それが、当然の対処の仕方だと思うが、中には小谷野敦のように、小林よしのりの『天皇論』を評価した上で、小林との間で、「天皇」という名称の起源や、天皇の存在を江戸時代以前の庶民や農民等が知っていたかどうかというような瑣末な問題をめぐって論争じみた議論を展開している人もないわけではないが、それも、小谷野敦自身が認めているように、本質的な議論ではなく、どうでもいいような議論ばかりである。というわけで、こちらとしても無視・黙殺しておけばいいわけだが、しかしながら「保守・右翼」派の読者の中には、無視・黙殺するのは小林の『天皇論』に批判や反論ができないからだろう、と勘違いするものも無きにしも非ずのようなので、簡単に目に付いた点を指摘して、小林よしのりの『天皇論』の思想的レベルの低さと学問的な杜撰さを指摘しておくこともあながち無駄であるまい。断っておくが、僕は、「反天皇」「反皇室」の立場から、小林の『天皇論』批判を展開しようとしているのではない。要するに、僕は「反天皇」的な思想的立場に立ってはいない。むしろ逆である。しかしだからと言って、学問的にも、あるいは思想的にも、かなりいい加減な天皇や皇室に関する「タテマエ」の議論が横行しているが、そういう「タテマエ」の天皇論をすべて認めているわけでもない。さて、小林よしのりは、『天皇論』の中で、「君が代」の起源を論じているが、そこで、「君が代」の「君」は天皇のことではないという論理と議論を展開している。これは、言うまでもなく、「君が代」の「君」は天皇のことだから、天皇を賛美する歌である「君が代」を歌いたくないという左翼に対して、彼らに反論するために構築された論理と議論であろう。つまり「君が代」の「君」は天皇ではないのだから、要するにこの「君」は、一般庶民である「君」や「僕」のことでもあるのだから、天皇に批判的な左翼の人たちも、「君が代」を歌っていいはずであり、もともと「君が代」という歌には天皇賛美は含まれていないというわけである。小林よしのりは『天皇論』の冒頭で、こう書いている。

実は「君が代」は、古代から人々に愛唱され、江戸時代には相当広範な一般庶民が、自分の敬愛する人の長寿を祈る歌だったのであり、「君」は特に天皇に限定される意味ではなかった。わしはこの事実を全然知らなかった。(『天皇論』P9)

では、それまでの小林よしのりの「君が代」理解はどうだったのか。小林よしのりが小学生のころ、担任の教師(日教組?)は、「君が代」の意味について、「『君が代』というのは天皇の代のことたい。天皇の代が何千年も続きますようにという意味なんやぞ。」と教え、それを聞いた小林よしのりは、「なんで他人の代が何千年も続くよう祈るんやろ?」「知ったこっちゃないよ。」と受け止め、「ものすごく疑問を感じた」(『天皇論』P9)そうである。ところが、「かつて『君が代』斉唱で席を立たなかったし、歌いもしなかった!」と告白する小林よしのりが、突然、「君が代」を歌い始める。それは、小林よしのりが、「君が代」の「君」が、誰のことを意味するかを知った時である。

ただしここに大きな大きなわしの過誤があった。君が代の「君」を「天皇」限定と思い込んでいたことだ。(『天皇論』P8)

かくして小林よしのりは、「君が代」の「君」が、「天皇」に限定されたものではなく、「年長者」や「敬愛する者」をも含意することを知った時から、「君が代」という国歌を、何の抵抗もなしに歌うことができるようになったというわけである。つまり、一般庶民の愛唱歌としての「君が代」、つまり天皇なき「君が代」ならば、喜んで歌うというわけである。

今のわしは感性だけではなく、天皇についての知識を得て迷いなく国旗に敬意を払い、国歌を起立して歌う。(『天皇論』P18)

小林は、「君が代」から天皇の影を排除・追放して、「君が代」を戦後民主主義的な国民主権主義に合致させるかのように思想的に中立化し、脱神話化しているわけだが、この小林の論理と議論に何か怪しいもの、不可解なものを感じないだろうか。現在の小林よしのりは、「君が代」という国歌は歌うが、「君が代」の「君」は「天皇」のことではないという理解の上である、という。もし、そうだとすれば、小林よしのりの『天皇論』は、戦後民主主義的な「象徴天皇」を擁護しているだけだということになりはしないのか。要するに、小林よしのりの『天皇論』を有難がっている「保守・右翼」を自称する面々の尊王思想とは、所詮、天皇なき「君が代」を歌って満足している似非保守思想、似非右翼思想ということになるわけだが・・・。





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