文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小林よしのり先生、沈没す。−チベットへの同化政策とアイヌへの同化政策は「次元が違う」?


 「山崎行太郎という無名の評論家と論争しても公的異議はないから無視する」と、いかにも公的人物らしい立派な台詞を吐きつつ論争から逃げたにもかかわらず、小林よしのりは、無視・黙殺すればいいのに、性懲りもなく、「佐藤優茶坊主」とか、「売れない文芸評論家」とか、様々な侮蔑発言を繰り返しつつ、小生に論争を挑んでいるようである。論争相手の名前も書けない小心の小便小僧の癖に、僕が名付けた「マンガ右翼」という言葉には深く傷ついているらしく、「マンガ右翼」という言い方は「マンガ」への差別だとヒステリックに喚いている。僕は、「漫画」も「右翼」も差別しないし、それ相応に尊敬し、評価するが、「マンガ右翼」は軽蔑し、差別してもいいと思っている。むろん、「マンガ右翼」という名称に値するのは、マンガで右翼思想や保守思想を低俗化して描いて、いい気になっている「小林よしのり」しかいない。さて、「風景は一つの認識的布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう。」と柄谷行人は『日本近代文学の起源』で書いているが、小林よしのりの政治思想漫画『ゴーマニズム宣言』やそこでの議論を読むと、それがよく当てはまることが分かる。小林よしのりは、日本政府の占領政策や植民地政策、あるいは開拓政策の主体側から、「ものを考える」習慣が身についているが故に、一般庶民もそうだが、一方的なものの見方しか出来ない。たとえば、北海道のアイヌは、今や、日本に同化し、国民化しているが故に、アイヌという民族問題など存在しない、と小林よしのりは言いたいらしい。普通の日本人の庶民感情としては、それはそれでよいかもしれない。しかし、いやしくも思想家とか言論人、ジャーナリストを名乗る以上、それだけでは困るだろう。明治維新後、蝦夷地(北海道)には多数の日本人が入植し、蝦夷地開拓に従事し、やがて北海道は完全に日本人の土地になったと言っていいかもしれないが、それが「侵略」や「植民地化」「民族浄化」と無縁だったとは思えない。北海道に移住した日本人集団に「屯田兵」という一団があったが、彼等はれっきとした軍隊であった。軍隊でありつつ開拓に従事し、やがて北海道の住民となって行ったのである。何故、軍隊が必要だったのか。言うまでもなく、異邦の土地を侵略し、略奪し、そして現地住民であったアイヌを同化し、国民化し、民族浄化を進めていく上で、暴力装置が必要だったからである。われわれは、アイヌの民族や土地が、どのようにして日本国民になり、日本の国土になっていったかの歴史を忘れている。小林よしのりが、「日本政府の同化政策は終わっている」「アイヌ問題は存在しない」というのはそのことであろう。漫画家ならそれで済むだろうが、思想家や知識人、ジャーナリストを気取ろうとするものが、それでは恥ずかしいだろう。ところで、小林よしのりは、最近、元気がない。『天皇論』も、発売当初こそ村上春樹の新作に次ぐ「二位」につけていたらしいが、あっという間に売り上げランキングから消え、返品の山を築こうとしているらしい。本というものは、売れているかのように見える時が、一番怖いのである。増刷に増刷を重ねた挙句、突然、売れ行きが止まり、返品の山が築かれ、小さい出版社なら、即倒産となるわけであるが、小林よしのりの『天皇論』の場合はどうだろうか。ところで、全力を傾注して打ち込んだはずの沖縄論や沖縄集団自決裁判では、結果的に小林よしのりが支援した原告側(旧日本軍人)が敗訴し、チベット論、アイヌ論では、論理矛盾やダブル・スタンダードを指摘され、それに対してまともな反論も反撃もできずいる。「アイヌ論」「チベット論」では、「単行本化」(『アイヌスペシャル』『チベットスペシャル』?)を予告したにもかかわらず、連載を早々に打ち切り、単行本の話はなかったことにしたいらしく、ただひたすら沈黙している。小林よしのりが、ヒット作『おぼっちゃまくん』の版権を「パチンコ」へ売却したという問題では、小林よしのりの支持者や愛読者だったはずの「ネット右翼」と言われるような人たちから、その変節と転向を激しく批判されている。彼らの批判に対しては、「純粋主義者」と罵倒し、「漫画家が金を稼ぐのが何処が悪い」「プロは売れない漫画は書かない」と居直っているが、「右翼的」「保守的」な思想漫画を描き、中国、北朝鮮、韓国等を激しく批判し続けてきた小林よしのりにしては、おかしな理屈であることは間違いない。日本の「パチンコ」産業は、北朝鮮にとっては重要な資金源とも言われていることからも明らかなように、ここでも小林よしのりの論理は破綻していると言わなければならない。さて、小林よしのりは、今のところ八方塞がりであるが、その代わりに鳴り物入りで始めたはずの『天皇論』にも、いつものように、手強い「咬ませ犬」的なスケープ・ゴート的人物が登場せず、天皇や皇統の儀礼等の説明や解説に終始しており、まったく精彩がない。それは、つまり、「アイヌ論」「チベット論」での失敗に懲りて、歴史記述や歴史解釈等の間違いや失策を恐れるあまり、『天皇論』では、「仮想敵作り」に失敗し、それ故に、作品としての深さと力を失ってしまっているということだろう。スケープ・ゴートを出す能力を失ったら、自分自身がスケープ・ゴートにならなければならないと言うが、まさしく今、小林よしのりは、あるいは「小林よしのり的なもの」は、自分自身がスケープゴートになりつつある、と言っていいのかもしれない。 小林よしのりの論理的破綻は、「アイヌ論」「チベット論」において、より鮮明になる。たとえば、小林よしのりは、チベットへの「中国の同化政策」は、民族浄化であり民族弾圧であるが故に、断固抗議すべきだと言いながら、アイヌへの「日本の同化政策」は、歴史的必然であり、素晴らしいことだったと言う。小林よしのりの論理は、明らかにダブル・スタンダードであり、論理的に破綻している。

 日本政府のアイヌ同化政策についても、わしはもうさんざん描いたじゃないか。これは時代背景を抜きには語れない。
 日本が大急ぎで近代国家に変貌しなければ植民地にされていたはずの、あの弱肉強食の帝国主義の時代に、まだ独立国家を形成する意思も力ももない少数のエスニック・グループであったアイヌが、そのままでいることは不可能だった。日本かロシアかのいずれかに同化される運命にあった。
 近代国家成立時点での「同化」は、「民族浄化」ではない。「国民化」である!
しかもアイヌは元々、日本人とは親和性が深い。まったく別人種でも別民族でもない。そして日本政府は、時代の限界は当然あったが、その中でできる限りのことをしたのだ。
(小学館『SAPIО』『ゴーマニズム宣言』2009/7/8)

ところで、中国の「同化政策」については、こう書いている。

一方中国は、帝国主義が終焉を迎えた後の時代に、「独立国家」であるチベットを軍事力で侵略し、128万人のチベット人を虐殺し、民族浄化を行っている。
拷問も民族浄化も、チベットでは今も続いているのだ。
アイヌチベットはいかなる意味でも全く次元が違う話だ。

 私の考えでは、アイヌチベットの違いは、「同化政策」が完全に成功し、すでにその「同化政策」の実態や起源すら忘れられようとしているアイヌと、今、現在、「同化政策」が国家権力(暴力)を行使して、白昼公然と進められているチベットとの違いに過ぎない。そもそも、「あの弱肉強食の帝国主義の時代に、まだ独立国家を形成する意思も力ももない少数のエスニック・グループであったアイヌが、そのままでいることは不可能だった。」(小林よしのり)としても、それを日本政府が、暴力を行使してまで、「同化政策」を断行し、「日本国民化」しなければならない理由も根拠もない。私が、小林よしのりのタブルスタンダードを、「小林よしのりへの退場勧告!!!」(『部落開放』)で指摘したことを意識しているらしく、ここで、「チベットアイヌは、次元が違う」と言って抗弁し、それを反復、強調しているわけだが、こういう粗雑な議論を、いったい何処の、誰が、受け入れるというのだろうか。もちろん、チベットアイヌは同じではない。しかし「同化政策」という点では、「次元が違う」と言って済む話ではない。チベットへの同化政策はよくないが、アイヌへの同化政策は、当時の国際情勢から考えても仕方がなかった、と言うよりも、むしろ「いいことをしてやった」と小林よしのりは言おうとしているわけだが、これは、朝鮮半島満州、台湾等で、「侵略」「植民地化」ではあったかもしれないが、橋や鉄道を作ったり、教育を普及させたり等、「いいこともした…」という議論に通じる、と思われる。小林よしのりの論理を認めるならば、そしてその論理を敷衍すれば、つまり言い方を変えるならば、朝鮮半島や台湾等への「同化政策」「国民化政策」は、敗戦によって失敗に帰したが、「沖縄」や「アイヌ」では見事に成功したということになる。むろん、私は、「沖縄」や「アイヌ」を国民化し、日本に同化し統合したことを、批判しているわけではない。小林よしのりが言うように「仕方がなかった」かもしれないが、しかし沖縄やアイヌへの「同化政策」や「国民化政策」が、「正義」であり「必然」だったと、小林よしのりのように、言うつもりはない。ところで、小林よしのりは河野本道という「文化人類学者」の「アイヌは民族ではない」という珍説に洗脳されたらしく、その珍説を論拠にして「アイヌ」問題に切り込むはずだったが、どうも、この河野本道という人が、あまり信用できない人物のようで、おそらく小林よしのりも、それにうすうす気づき始めた時点で、「アイヌスペシャル」の断念と放棄が、ほぼ決定したと思われる。「アイヌが民族であるか、ないか」という問題は、「民族」の定義しだいで、どうにでもなる問題なわけで、「民族の定義問題」を抜きには語れない。たとえば、「アイヌは民族でない」「アイヌには国家がない」と定義し、判断すれば、侵略も同化もやり放題ということになるが、それでいいのか。つまり、小林よしのりが「アイヌ論」で企図していることは、「アイヌなんて民族でも国家でもなかったんだから、大和民族に侵略され、同化され、国民化されるのは歴史的に必然だったのさ…、アイヌも、ロシアでなく、日本民族に同化させられたのだから、幸せだったじゃないか、有難く思え…」という程度の、庶民的なナショナリズムそのものだろう。






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