文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「君が代」誕生と「薩摩琵琶歌」の名曲「蓬莱山」

君が代」の元歌は、10世紀初め、醍醐天皇の命令で紀貫之らが編集した最古の勅撰和歌集古今和歌集』の巻七、賀歌(がのうた)の冒頭にある「読人(よみびと)しらず」の「わがきみは千代に八千代に細れ石のいはほとなりて苔のむすまで」であると言われているが(国歌大観番号343番)、その後、新撰和歌集にも、鎌倉初期の『和漢朗詠集』にも、その他数々の歌集にも載せられ、時代を経るにしたがって初句の表現に若干の変更が加えられている。『古今和歌集』では、初句は「我が君は」となっているが、『和漢朗詠集』あたりでは、「我が君は」が「君が代は」に変化している。その『和漢朗詠集』でも、古い写本は「我が君」となっているが、後世になるにしたがって版本は「君が代」の例が多くなる。この「我が君」から「君が代」への初句の書き換え=言い換えの変遷は、何を意味するだろうか。「我が君」の表現が、『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられないことや、以降の歌集においては「君が代」が圧倒的に多いこと等から、時代の変化、思想潮流の変化、歌が歌われる場所の変化などを読み取ることは容易だろう。「我が君」という特定の人物を指し示す直接的な表現が、「君が代」という、特定の人物に限定しないような、間接的な表現に置き換わったのは、この歌が、一般庶民の世界に入り込み、「君」は身近な存在としての年長者や有力者を意味するようになったということが原因だという説が有力だが、それと同時に、「君」が実は「天皇」を指すのだという説が一部の学者・思想家によって主張されるようになったからではないか、とも推測されている。たとえば続群書類従第十六輯に収められた『古今和歌集陰名作者次第』で堯智は、作者は橘清友であること、そして初句については「君か代ともいうなり」としている。つまり、堯智は、この歌を、「我が大君の天の下知しめす」と天皇賛美の歌として解説している。17世紀半ば、つまり江戸時代前期において、「君」は天皇であるとして、「天皇の御世を長かれと祝賀する歌である」という解釈が存在したことは確実であるといわなければならない。いずれにしろ、「君」の定義は一定ではない。「君が代は・・・」という表現でもっとも古いのは、鎌倉初期の『和漢朗詠集』であると言われているから、この間に起こった思想状況や社会情勢の変化が、「我が君」から「君が代」の変遷に反映していることは間違いないだろう。実は、「詠み人知らず」と書かれてはいるが、本当の作者は分かっているという説もある。続群書類従第十六輯に収められた『古今和歌集陰名作者次第』で堯智は、作者は橘清友というのもその一つであろう。身分が低いために、「詠み人知らず」ということになっているのだろう。その後、この歌がどのように歌い継がれて来たかは、必ずしも明らかではないが、武士社会や一般庶民の間でもさかんに歌われていたらしい。ところで、この歌が、日本の「国歌」になるのは、明治新政府で陸軍大将となる大山巌が、日本国歌に相応しい歌として、この歌を、「薩摩琵琶歌」の名曲「蓬莱山」のなかの一節から借用してきた事から始まると言われている。その頃、横浜の外国人居留地の警備にあたっていたイギリスの歩兵隊の軍楽隊で、若い薩摩藩土たちが軍楽を学んでいたが、イギリス軍楽隊長フェントンは、日本に国歌がないことを知って、国歌をきめて作曲をしよう提案した。薩摩の練習生たちがその話を砲兵大隊長大山巌に伝え、大山はその話に賛同し、早速野津鎮雄らと相談した上で薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中から、国歌に相応しい歌として「君が代は……」の部分をとりだしたのだと言われる。大山巌は、後に陸軍大将となる薩摩藩の武士だが、「薩摩琵琶歌」の名曲「蓬莱山」は、薩摩藩で賀歌として祝いの席でよく歌われ、幼少の頃から慣れ親しんだ歌だった。つまり、「君が代」は明治2年ごろ、明治天皇を迎える儀式用にと、薩摩藩砲兵隊長だった大山巌が、薩摩琵琶歌の一節から歌詞を選び、海軍軍楽隊教師の英国人フェントンに作曲を依頼したもの、というのが通説となっている。しかし厳密に言うと、「君が代」誕生にはもう一つのドラマがあった。実は、フェントンが作曲し、1870(明治3)年9月8日、東京の越中島で薩摩・長州・土佐三藩の兵に対する天覧調練(天皇の観兵式)で、薩摩藩の軍楽隊がこれを演奏したのが「君が代」演奏の起源だが、しかしこの曲は、不人気で1876(明治9)年の天長節(11月3日)で海軍での演奏は中止された。その後、1880(明治13)年7月、軍楽曲にふさわしい曲として、宮内省の林広守、傭い教師のドィツ人エッケルトらが編曲し直した。それが、1880(明治1)年の天長節前の10月30日にはじめて演奏され、現在の「君が代」が誕生したというわけである。さて、「薩摩琵琶歌」の名曲「蓬莱山」から転用された「君が代」の歌詞だが、「蓬莱山」の歌詞を作詞したのは、「いろは歌」の作詞でもお馴染みの「島津家中興の祖」島津忠良である。

目出度やな 君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に 不老門を立ち出でて 四方の景色を眺むるに 峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ 

君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで

命長らへて 雨塊を破らず 風枝を鳴らさじと云へば又 尭舜の御代も斯くやあらん 斯程治まる御代なれば 千草万木花咲き実り 五穀成熟して上には 金殿楼閣甍を並べ 下には民の竈を厚うし 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是とかや 君が代の 千歳の松も常盤色 変らぬ御代のためしには 天長地久と 国も豊かに治りて 弓は袋に剣は箱に蔵め置く 諌鼓苔深うし 鳥も中々驚くやうぞなかりける

これが、「薩摩琵琶歌」の名曲「蓬莱山」歌詞である。この歌詞の中の「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで」の部分が、薩摩藩士・大山巌によって採用されたわけであるが、その時、立憲君主制の近代国民国家構築を目指す大山巌等が、「君が代」の「君」を、武士や一般庶民としての「君」ではなく、「天皇」の意味に転換したことは言うまでもないだろう。したがって、小林よしのりのように、江戸時代の庶民が祝いの席などで好んで歌った俗謡としての「君が代」が、国歌「君が代」になったという解釈は間違いだとは言い切れないが、しかし厳密に言うならば正確ではない。むろん、小林よしのりのように、国歌「君が代」の「君」は、「天皇」ではない、自分とっての敬愛すべき相手だ、と解釈するのは、古歌や俗謡としての「君が代」の解釈ならともかくとして、国歌「君が代」の解釈としては間違っている。ちなみに江戸時代の遊郭では、「君が代」という隆達小唄がまでも歌われていたという。いずれにしろ、小林よしのりの「君が代」解釈は、国歌法制化のために、天皇という問題を隠蔽するための「コジツケ」のために、それまでは「『君が代』の君は天皇である」という公式見解をとっていた自民党政府が応急措置でデッチアゲた捏造理論のパクリである。それが小林よしのりの次の言葉に要約されている。

「わが君」は「天皇」という意味ではない。自分にとっての敬愛すべき相手だ。(『天皇論』P18)

(続く)





★人気ブログランキング★
に参加しています。一日一回、クリックを…よろしくお願いします。尚、引き続き「コメント」も募集しています。しかし、真摯な反対意見や反論は構いませんが、あまりにも悪質なコメント、誹謗中傷が目的のコメント、意味不明の警告文等は、アラシと判断して削除し、掲載しませんので、悪しからず。
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ