文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ノーベル賞受賞の祝賀ムードに水をさしたいわけではないが、日本的文化システム批判を繰り返す中村修二の無邪気な「アメリカニズム礼賛論」と「新自由主義礼賛論」について。

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中村修二批判」と「新自由主義批判」は、徹底的にやっておくべきだ。「ノーベル賞」受賞以後の中村の発言は、祝賀ムードで興奮気味とはいえ、明らかに常軌を逸している。マスコミは、それを肯定的にとらえ、無批判に絶賛しているようだが、もっと勉強しろと言いたい。


ノーベル賞」という名前に幻惑される必要はない。批判するべきは、たとえノーベル賞受賞者であろうとなかろうと、批判すべきである。中村修二は、日本的システムを批判し、日本文化を愚弄している。その中村の日本文化批判には、「新自由主義的なもの」が濃く反映していると思われる。


中村のノベル賞受賞の対象は、「青色発光ダイオードの実用化」であるらしいが、その「青色発光ダイオードの実用化」が実現できたのは、アメリカにおいてではなく、四国の小さな会社においてである。


つまり、日本的文化、日本的システムの中から生まれたものである。中村は、日本の会社を見限り、日本文化や日本の教育制度を見限って渡米したようだが、渡米後に、中村は、アメリカ的システムの中で、何を研究し、どういう成果を上げたのか。知りたい。


少なくともノーベル賞に値する研究は成し遂げていないはずである。日亜化学という「四国の小さな会社」抜きには、中村修二の「ノーベル賞受賞」はありえなかったはずである。その過激な日本文化批判は、あまりにも単純素朴であるが故に分かりやすいが、内容は錯誤と矛盾だらけであることを知るべきだろう。



僕の「中村修二批判」を、今だからこそ、まとめておく。10年ぐらい前に、「産経新聞」「月刊自由」「メルマガ」などに発表したものである。「江古田哲学研究会」会員である久米秋三郎氏が、探し出してくれたものである。



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■「青色発光ダイオード裁判」について・・・・・・・「発明物語」に踊ったマスコミ・・・・・・。(「産経新聞」文化欄 2005・2・8)
2005/02/22 23:11(山崎行太郎)




青色発光ダイオード裁判・「和解決着」の意味するもの。
(「産経新聞」文化欄 2005・2・8)



 日亜化学と、元社員の中村修二カリフォルニア大(サンタバーバラ校)教授との間で戦われていた「青色発光ダイオード」裁判が、「8億4000万円和解」という予想外の結果で終わった。一審(東京地裁)の「200億円判決」や、一審判決後のテレヒや出版界での「中村修二フィーバー」から考えれば、この裁判闘争は日亜化学側の見事な逆転勝利と言っていいだろう。中村教授自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけているぐらいだから、この裁判が中村教授側の全面敗北であったことに間違いはない。


では、なぜ、こういう結果になってしまったのか。なぜ、中村サイドは、高裁はもちろん、最高裁まで争おうとしなかったのか。実は、私は、この和解決着は当然の結果だったと思う。マスコミでは、裁判官が社会防衛的な意味から会社の経営的立場を考慮して無難な線で決着をつけたという批判的な解説が主流のようだが、私の考えは少し違う。


私の考えでは、この裁判には「特許問題」や「発明の対価問題」は別として、隠された問題点が二つあった。その一つは、「世紀の発明」と言われる青色発光ダイオードの開発を実質的には「誰が」やったかという問題、もう一つは、中村氏が理系の「文化ヒーロー」として繰り返してきた過激な日本の教育制度


私は、「大学入試を全廃しろ」「社員は会社の奴隷ではない」とか言うような、中村氏の粗雑な文化論や教育論にはかなり早くから疑問を感じていた。そこで、「中村発言」や「中村フィーバー」の原点である「青色発光ダイオード開発成功物語」そのものを、日亜化学側が一審判決後に公開した新しい詳細な内部データを元に検証してみたくなった。その結果わかったことは、「青色発光ダイオード開発は日亜化学の若い研究者たちの共同研究の成果」であって、「会社の反対を押し切って自分一人で開発した」という中村氏の「単独成功物語」にはかなり無理があるという事実であった。おそらく裁判官も弁護士も、私と同じように日亜化学側が公開した内部データを元に、青色発光ダイオード開発の本当の物語を知ったはずである。「青色発光ダイオード開発における中村氏の役割は、中村氏が大言壮語するほどでのものではない」。これが、一審判決直後は意気軒昂であった中村派の弁護士が、屈辱的とも言っていい和解案をあっさりと受け入れざるをえなかった背景であろう。


ころで、「青色発光ダイオード開発」には三つの「ブレイク・スルー」(「ツーフロー方式」「p型化アニール」「ダブルへテロ構造」)が必要だったが、中村氏は科学研究者としては、第一段階の「ツーフロー方式」(いわゆる「404特許」)以外では、さほど重要な役割を演じていない。実は中村氏の役割は、社内的には、国内外を飛び回って「青色発光ダイオード開発物語」を宣伝する広告塔的な色彩が強かった。その結果、中村氏の唯我独尊的な独特のキャラの影響もあって、社外や国外では「青色発光ダイオードを一人で開発した男」という「スター科学者」の虚像が一人歩きすることになったのである。しかし、実質的な研究開発の多くは彼の部下たち(妹尾、岩佐氏など)の手によってなされたのであった。ところが日本のマスコミの多くは、未だに中村氏の「青色発光ダイオードは自分独りの力で開発した」という「自作自演」的な自慢話を一方的に信じ込み、「日亜化学側の言い分」を黙殺した上で、中村応援のキャンペーンを繰り返している。マスコミこそ不勉強である。


いずれにしろ、この高裁での和解決着は、中村修二氏の「世紀の発明」物語の根拠の怪しさとともに、中村氏がテレビや書籍で大言壮語、悲憤慷慨した稚拙な「日本的システム批判」や「教育制度批判」も、口から出任せの空理空論だったことを間接的に立証したと、私は思う。中村氏は、高裁判決後の記者会見で、「これから研究生活に戻りたい」と発言している。大いに結構である。ついでに言わせてもらうならば、専門外の幼稚な教育論や文化論はほどほどに慎むべきであろう。いずれにしろ、中村氏の本来の専門分野での活躍を祈りたい。しかし無理だろうと私は思う。中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、私は思わないからだ。「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。

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中村修二は「産業スパイ」だった…のか?
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(山崎行太郎)
http://blog.livedoor.jp/yamazakikoutarou/archives/14881867.html



中村修二「裁判闘争」と「テーミス

 私が「中村修二問題」について考える時の資料は、 主として雑誌「テーミス」である。実は、私も昨年 末にこの雑誌から原稿依頼を受け、今年の初頭に経 済コラムを書いたのだが、ちょうどその頃、相前後 してこの雑誌に掲載されたのが「青色LED特許裁判 の『真実』」という特集記事だった。私はこの記事 を読み、はじめて問題の深さと広がりを実感として 理解した。


 われわれは、これまで、この裁判について中村修 二サイドからの情報だけで物を考えてきた。しかし 裁判には相手がいる。当然、相手には相手の言い分 があろう。しかしマスコミも一般大衆も中村修二が 作った「物語」を鵜呑みにして、裁判の相手の日亜 化学という会社にはなんの興味も示さなかった。「 会社に莫大な利益をもたらすような技術開発をただ 一人で成功させた中村修二という天才的な科学技術 者」を抱えながら、その能力や成果を全く評価せず、 むしろ冷遇し続けた会社……という物語だ。


 では、実際はどうだったのか。日亜化学の経営者 や残った社員たちはこの問題をどう受け止め、どう 考えているのか。いや、そもそも中村修二の言う話 (サクセストーリー)は真実なのか。


 この問題に挑戦したのが雑誌「テーミス」であっ た。私は寡聞にして、この問題を日亜化学側から追 跡したマスコミの存在を知らない。マスコミも出版 社も、中村修二を追い掛けるだけであった。そして 中村修二の「自慢話」「ホラ話」を鵜呑みにした「 駄本」を続々と世に送り出しただけであった。


中村修二が裁判にこだわる理由  


一般的には、中村修二は、裁判そのものが当初の 目的ではなく、日亜化学に訴えられたから、仕方な く裁判を始めたと思われている。そして裁判の目的 も金銭的対価が目的ではなく、「日本の科学技術者 の地位向上……」等が裁判の目的だ、と。しかしこ れが大きな間違いである。


 そもそも中村修二日亜化学を退職し、アメリカ に渡ったのは、何故か。ここに中村修二の「裁判闘 争」の真の意味は隠されている。つまり「アメリカ 行き」と「裁判闘争」はセットだったのである。中 村修二が「産業スパイ」ではないか、という疑惑が 発生する理由である。


 中村修二は、日亜科学を退職する直前、日亜化学 のライバル会社「クリー社」やカリフォルニア大学 の関係者と接触している。  1999年10月13日。ノースカロナイナで開 かれた学会に出席した中村修二は、クリー社の幹部 と食事し、そこで20万株の「ストックオプション」 (未公開株式)の提供を受けた。中村修二は、ここで 日亜化学からクリー社への転職を決意したと思われ る。むろん、クリー社は中村修二を陣営に引き込む ことによって「日亜化学つぶし」をねらったのであ ろう。その罠にはまったのが、日亜化学の研究開発 の現場にいて、日亜化学の特許や産業機密に精通し ていた中村修二だつた、というわけである。


 中村修二はこの後、クリー社に、「クリー社に行 ったら日亜化学の特許が問題になる。」「クリーに 行ったら、特許を逃れるいい方法がある」というメ ールを送っている。つまり中村修二の方も、転職先 としてクリー社にさかんに売り込んでいたのである。


 これに対してクリー社は、「ストックオプション の他に、年俸32万ドル、ボーナス最高8万ドル、 さらに100万ドルの家を提供する」という雇用条 件を提示した。


 しかし、結果的には中村修二はクリー社を断念し、 カリフォルニア大学サンタバーバラ校に転職した。 なぜか。ここにも重大問題が隠されている。


 実は、カリフォルニア大学のデンバーグ教授から、 「クリーに行ったら、日亜に『企業機密漏洩で訴え られる』可能性は高いぞ」と忠告されたからである。


 しかし中村修二は、カリフォルニア大学に転身の 直後、クリー社の子会社「クリーライティング社」 の非常勤研究員になる。


 さらに中村修二は、デンバーグ教授の設立した 「ナイトレス」という半導体バイス開発のベンチ ャー企業のコンサルタントにもなっている。ところ が、このベンチャーはその直後クリー社に買収され ている。この買収劇で、中村修二は、10億500 0万円以上の 株式利益を得ている。



■暴露された契約書の内容  

ところが、裁判の過程でさらに大きな疑惑が暴露 された。2003年7月15日の裁判の本人尋問で 明らかになった事実である。中村修二は、クリーラ イティング社の非常勤研究員になるにあたって「2 通の契約」を結んでいたが、その牝契約内容とは?  2001年5月の契約書には、「東京地裁で日亜 化学を相手に相当の対価の訴訟を行うこと。その際、 弁護士費用はクリーライティング社がすべて負担す ること、追加報酬としてクリー社の7万株のストッ クオプションが与えられること。」とあった。


 この契約書を読めば、クリー社が中村修二に接近 した理由が一目瞭然であろう。しかも、中村修二が 研究生活を犠牲にしてまでも裁判闘争を開始せざる をえなかった理由も明らかだろう。中村修二は完璧 ににクリー社の罠の中に堕ちていたのである。


 ところがこの契約書は途中で変更されている。つ まり、2001年8月の契約書では、「訴訟の範囲 が『半導体結晶膜の成長方法』という中村修二が帰 属を主張した『404特許』に限定されてしまった ため、訴訟費用の前払いは望んでいないが追加のス トックオプシヨンは変更されていない」という内容 に変わっていた、と言う。この変更は何を意味する のか。


 何故、訴訟費用の全額負担が後退したのか。それ は、おそらく、前回も(小生のHPをご覧ください。 :http://yamazakikoutarou.gooside.com/) 説明したように、「404特許」だけでは青色発光 ダイオード製造は不可能だということにクリー社側 が気づいたからだろう。  つまり、クリー社も、中村修二の「自慢話」(サ クセスストーリー)にまんまと騙されていたのだ。≫




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■参考資料。(久米秋三郎氏のコメントより。久米さん。貴重な資料の発掘と情報提供、ありがとうございます。)

■ 久米秋三郎 2014/10/09 14:02


「日経Tech on」という「技術者を応援する情報サイト」に、『中村裁判 青色LED訴訟の「真実」。 問われる相当対価「604億円」の根拠』というスペシャルレポートが掲載されていました。長いレポートなので、わずかな抜粋に留めました。

この抜粋の後に、「月刊テーミスWEBサイト」の『青色LED 200億円対価判決は非常識だ。中村氏が起こした裁判の背景には日亜化学の「新技術」に対する米国の苛立ちがあった』という記事があります。

どちらも2004年上旬の記事のようです。山崎行太郎先生の論考の裏付けにもなっていると思います。「発明発見の現場」や「中村裁判 青色LED訴訟」の実態をリアルに伝える良質な記事だと思いました。現代の研究開発というものが「個人プレイ」ではなく「チームプレイ」だということもよくわかります。「日経Tech on」のレポートの締めくくりは、「先の若手研究者たちが言葉を失うのも無理はないだろう。」というものですが、中村修二と一緒に研究開発に明け暮れた若手研究者たち、まるで存在しなかったかのように忘れ去られた若手研究者たちの功績が、この記事に明記してあります。

以下、「日経Tech on」の 『中村裁判 青色LED訴訟の「真実」。 問われる相当対価「604億円」の根拠』http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200406_1.htmlからの抜粋。

■■■■■(抜粋ここから)
青色LED訴訟の「真実」 問われる相当対価「604億円」の根拠

高輝度青色発光ダイオード(LED)や青紫色レーザダイオード(青色LD)などの製造方法をめぐる特許訴訟。沈黙を破った日亜化学工業の主張をきっかけに,本誌は独自に検証を開始した。その結果,原告である中村修二氏の主張とは反する「事実」を得た。東京地裁は中村氏の主張をほぼ全面的に受け入れ,巨額の相当対価の支払いを日亜化学工業に命じている。この判決の根拠となった「404特許」の効力と,中村氏の貢献の度合いについて,日亜化学工業の主張との対立点を改めて検証する。(近岡 裕)

・・・

■2人の研究者が発見したp型化

 ところが,三つの要素技術の中で当時最も難しいと考えられていたのは,GaN単結晶のp型化だった。赤崎氏のグループが電子線照射によるp型化を発表していたが,他の研究者が追試しても簡単には再現できない状況にあったからだ。この難易度の高いp型化を日亜化学工業で実現したのは,中村氏ではなく,妹尾氏と岩佐氏である。

 入社2年目の1991年,妹尾氏は研究目標としてp型化を掲げる。「自発的なもので,中村氏に命じられたものではない」(同氏)*4。走査型電子顕微鏡を使って電子線を照射したり,化学処理したりするがすべて失敗する。そしてある時,「電子ビーム蒸着装置」の電子銃を使うことを思い付いて実行すると,強力な電子線で割れた,MgをドープしたGaN単結晶のサンプルがp型化を示していた。

 その後,妹尾氏は再現性の実験を繰り返す。確証を得たら中村氏に知らせるつもりだった。ところが,3日ほどたった時に中村氏に見つかり,黙っていたことを怒られたという。2人はこの実験を基に専用の電子線照射装置を外注し,1991年11月に受領した。

・・・

■量産技術には無関係

 InGaN単結晶の作製に関しては,向井氏が中心となって岩佐氏と長浜氏の3人が遂行した。中村氏は岩佐氏と長浜氏に実験の指示を出していた。

 1992年1月から青色LEDの開発に着手した向井氏は,引き継ぎのために数カ月かけて中村氏からMOCVD装置の運転の仕方を学ぶ。その途中の同年2月ころ,中村氏は偶然1枚だけInGaN単結晶を作製する。ところが再現性がなく,なぜできたのか分からないまま何カ月も過ぎた。「この間に中村氏はMOCVD装置を使わなくなった」(向井氏)。向井氏は試行錯誤するうちに,最適な条件を見つけ出し,かなり安定してInGaN単結晶を作れるようになったのが同年7月ころである。

 ところが,当時のInGaN単結晶はInの含有量が少なく青紫色に光っていた*5。可視光ではない紫外線の波長を持つため暗い。そのため,不純物をドープすることで波長を青色領域へシフトする,教科書にも載っている「不純物準位による波長シフト」を試みた。ここで長浜氏が「中村氏の指示の下」,亜鉛(Zn)とケイ素(Si)をドープしたInGaN単結晶を作製し,当時の発光層を試作する。

 こうして向井氏と岩佐氏,長浜氏の3人はInGaN単結晶を発光層とし,その下の面をn型窒化アルミニウムガリウム(AlGaN),上の面をp型AlGaNで挟んだ「ダブルへテロ」構造の高輝度青色LEDを試作する。この試作を「中村氏は行っていない」(向井氏)。

 製品として高輝度に光るためには,電極にも工夫が必要となる。日亜化学工業は,ニッケル金(NiAu)を材料に選び,透けて見えるほどごく薄くした電極を発明し,「透明電極」と名付けた。透明だから光を遮ることがない分,明るくなる。NiAuには低電圧化の効果もあった。これに取り組んだのは,妹尾氏や先の山田孝夫氏,山田元量氏だった。

 その後,歩留まりの低いツーフローMOCVD装置を改良し,後にツーフロー方式をやめたMOCVD装置を使って結晶を作るパイロットライン(少数生産ライン)の確立に主に貢献したのが向井氏で,電極を形成したり,保護膜を付けたりといったデバイス工程の主な貢献者が妹尾氏だったという。

 日亜化学工業には「研究記録」が残っている。「月報」や「週報」,装置の使用記録などだ(図5)。それらによれば,中村氏がMOCVD装置で実験した記録があるのは「1992年2月まで」。月報や週報は「1992年5月まで」。中村氏は1993年までは実験の指示を出していたが,それ以降は自分で実験せず,他の研究者たちの成果を論文にまとめて外部に発表するようになった。論文はすべてファーストオーサーで,特許の発明者にも必ず名前を入れた。マスコミの取材や講演の依頼も同氏が対応した。「受賞時の賞金も同氏が1人で受け取った」(日亜化学工業)。

 研究記録に基づく日亜化学工業の研究者たちの証言をまとめると「中村氏は青色LDの発明者ではないばかりか,厳密には青色LEDの発明者とも言えない。しかも量産工程にも全く貢献していない」―ことになる。

 にもかかわらず,東京地裁が判断した中村氏の貢献度は「50%」。先の若手研究者たちが言葉を失うのも無理はないだろう。

■■■■■(抜粋ここまで)

以下は次の記事の全文です。「月刊テーミスWEBサイト」の『青色LED 200億円対価判決は非常識だ。中村氏が起こした裁判の背景には日亜化学の「新技術」に対する米国の苛立ちがあった』→http://www.e-themis.net/feature/read_0403.php



■■■■■(ここから)
http://www.e-themis.net/feature/read_0403.php
「青色LED 200億円対価判決は非常識だ 」
「中村氏が起こした裁判の背景には日亜化学の「新技術」に対する米国の苛立ちがあった 」

■司法の国際的評価が下がった
 「これが日本のバカタレ判決」
 本物の辛口評論家・日垣隆氏が著した『裁判官に気をつけろ!』の帯に書かれているキャッチコピーである。
 本の内容は、主に刑事裁判の「奇妙なる判決」を扱ったものだ。
 1月30日、東京地裁の三村量一裁判長は、青色発光ダイオード(青色LED)の特許裁判で、前代未聞の判決を出して世の中を騒がせている。
 「被告は原告に200億円を支払え」
 裁判は元日亜化学社員の中村修二米カリフォルニア大学教授が、古巣の日亜化学を相手に、自分の発明した青色LEDの製造に関する「404特許」(後述)の本人への帰属と、相当の対価を求めて起こしていた。
 特許権の帰属は、’02年9月の中間判決で「日亜化学にある」とされた。今回はその最終判決だ。日亜化学はもちろん、即日抗告した。
 しかし、この第一審判決は、「日本のバカタレ判決」として、世界の笑い者になろうとしている。
 詳しい判決内容は報道されている通りだが、「相当の対価」は、「特許独占による日亜化学の利益」を算定し(1千208億円)、次に「開発に際しての会社(日亜化学)と発明者(中村氏)の貢献度」の比率を出し(50?、50?)、日亜化学の利益に乗じて出した(604億円)。
 このような理由で中村氏が請求していた200億円全額を認めた。中村氏は、
残り400億円余についても、今後追加請求する意向を明らかにした。
 マスコミの論調も各社で分かれた。
同じ社でも部によって異なった評価の記事が掲載される混乱ぶりだった。朝日新聞のケースで検証してみよう。
 「天声人語」では、「会社勤めの技術者・研究者には夢を与え、企業社会には、反省を促す痛撃になった」(2月1日付)と評価した。
 かと思うと、「時時刻刻」(1月31日付)では、企業経営者の「驚きと批判の声」を紹介。2月6日付の夕刊では「『先進国』米でも驚き 青色発光ダイオード発明者『200億円』」との見出しで、「雇用契約で従業員の権利を制限しており、『あり得ない巨額』との見方が一般的なためだ」と報じた。
 コラム「経済気象台」(2月3日付)では、判決の問題点にまで言及していた。「……会社もこのお陰で急成長し、465億円もの申告所得の優良会社になったのだから、相応の報酬が支払われるのは当然だろう」としながらも、次の三つの問題点を指摘した。
 ?相当の対価認定の前提として、特許権の切れる2010年までの推定利益を1千208億円とし、これに対する貢献度を50?として算出した。しかし将来、これを上回る発明が生まれる可能性がゼロではない。そうなれば推定計算はゼロになる。製造設備も無価値となりうるリスクをはらんでいる。だから、このような不確定な推定値は、対価の算定にあたっての一つの参考資料以上のものではない。
 ?会社側が中村氏に支払った2万円の報償金は極端である。
 ?だが、これほど極端な判決を下す日本の司法制度に対しては、国際評価が下がるという懸念もある。最終的にはもう少し妥当な線に落ち着くとしても、衝撃は大き過ぎ、国としても損失だと思われる――。
 だが、朝日新聞社も、それ以外の新聞社などの記事も含めて、最も重要なことに言及した記事は、残念ながらほとんど見ることが出来なかった。

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■「404特許」に振り回される
 それはいうまでもない。中村氏の貢献度を50?と判断する元になった「404特許」(具体的には、MOCVD=有機金属気相成長=装置を改良し、二つの方向から原料ガスを流して結晶を成長させるツーフロー方式MOCVD)の位置づけが妥当だったのかという一点だ。「404特許」が、青色LED、LDの開発
・商品化に決定的な特許であるなら、
貢献度50?と判定されても仕方がない。だが、ここを検証する努力をしないで、200億円を高い安いといってみてもはじまらないのである。
 裁判では、この「404特許」の位置づけが、完全におかしかったのだ。
 判決では「被告現方式(半導体結晶膜成長方法)は本件特許発明(404特許)の構成要件をすべて充足し、その技術的範囲に属するものと判断する」と評価した。
 それに対して、日亜化学側は、こう主張していた。
 ?「404特許」は、代替技術がいくらでも存在しているので、この特許権を独占していることによって得られる売上げの割合はゼロである。
 ?このように「404特許」は競合他社に対する優位性はなく、代替技術が存在しているのだから、実施料率(ロイヤルティ)は限りなくゼロに近い。また日亜化学は、特許が登録された’97年4月18日以前に「404特許」とは別の技術思想に基づく窒素化合物の半導体結晶膜成長方法(被告現方式)に完全に切り換えられており、これにより高輝度青色LED及びレーザーダイオード(LD)の全製品を製造している。良質なGaN(ガリウム窒素)結晶膜を成長させる際、「404特許」が果たす役割は、「被告現方式」が果たす役割に比して著しく小さく、100分の1にも満たない。

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■米国の調査機関がマークして
 実際、中村氏が発明したという「ツーフロー方式MOCVD」装置は、技術突破でもなんでもなかった。
 当時、「ツーフロー」の技術自体は、MOCVDを含むCVD(気相成長装置)分野の公開特許公報に記載されており、業界では公知とされる技術だ。
 また、中村氏の「ツーフロー方式」は、未だ不完全な部分が多く、高品質な結晶を作るまでには、その他のノウハウ部分の改良が必要だった。
 そしてさらにいえば、名古屋大学では、「ツーフロー方式」以前に、それと同じ程度の結晶性のものが出来ていたのである。
 中村氏自身、裁判に提出した「原告準備書」(’03年1月29日付)で、こう述べているのである。
 「ただしMOCVDで製造したGaN結晶は『せいぜい他所でやっている結晶とどっこいどっこいの結晶』であって、404特許のツーフロー方式MOCVDが、1990年に出来た時には、まだ青色LEDが開発できるとは想像も出来なかったのである」
 ところが、中村氏のツーフロー方式は独り歩きしてしまった。ツーフロー方式だから優れた結晶ができ、発光ダイオード(LED)が可能になったという発表は、結果として世の中を煙に巻くことになった。この方式を真似てLEDを造ろうとする後続の業者は、徒労を重ねてものにならず、競合者の出現は、早いところで3年、遅いところでは8年もかかってしまうのである。
 今回の裁判長はじめ、現在もツーフロー方式がLED発明の急所と思いこんでいる人もいるが、そうではないと気づいた人も多数いるようになった。
 それがなぜ、「貢献度50?」なのか。ここが第一審判決の信頼性を検証する最大のポイントである。さらになぜ他社が必要としない特許に対して「独占の利益」なるものが発生するのか。
 ある技術評論家は、こう推測する。
 「日亜化学が新しい方法で開発に成功した『pn接合型窒化ガリウム系LED』と、それに続く窒化物レーザー発振などは、米国当局の調査機関の注目するところとなった。実際、調査担当者が来日して聞き取り調査をした。その後、米国では政府系の資金による研究プロジェクトやコンソーシアムが多数設立された。しかし、日亜化学があげた成果のレベルにはなかなか追いつけなかった。日亜化学は、米国のそういう機関には一切参加していなかった。米国政府関係者は、日亜化学の独走を苛立って眺めていたようだ」
 そういう状況の中で、中村氏が米国でのライバル会社である米クリー社の支援を受けて、日亜化学東京地裁に訴えるのである。「少年の夢のため」などといった話ではなく、米国は国家の威信をかけて「20世紀最後の発明」に最大の関心を払っていたのである。
 日亜化学の関係者が語る。
 「青色LED、LDの開発・商品化にはざっと200以上の特許がある。中村氏の『404特許』はそのうちのほんの一つに過ぎない。それどころか、日亜化学では使っていない。日亜化学では新しい技術を開発して使用しているのだが、企業秘密なので今のところ表沙汰にはしていない」
 日本で初めてトランジスタラジオを開発したソニー創業者の井深大氏は生前、こういっていた。
 「研究者が発明にかけるウェートは1、使えるか使えないか見分けるのに10、
実用化には100のウェートが必要だ」
 中村氏がなぜ50なのか。

(2004年3月号掲載)
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