文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ノーベル賞なんて知らないよ。小生の「中村修二批判」の論考が、日本国民が祝賀ムードでいる時に、不謹慎かもしれないが、久米氏の協力で見つかりましたので、敢えて、紹介します。批判は覚悟しています。自分でも、書いたことをすっかり忘れていた論考です。資料や文献に基づいて書いたもので、僕の独断や憶測によるもものではありません。


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久米秋三郎 2014/10/08 12:37
中村修二について、山崎先生が2004年4月22日に書かれた論考がネット検索でヒットしました。


中村修二は「産業スパイ」だった…のか?」→http://melma.com/backnumber_87283_849329/




山崎行太郎の『 毒蛇通信』 

2004/4/22
編集メモ。久々の配信です。昨夜、「日亜化学中村修二」裁判について書いていたところ、なん と、今日から裁判が再開とか。小生は、この問題 についてかなり詳細な中村修二批判を書いてき ました。その結果、多くの批判と嘲笑の的になり ました。「何も知らないでよく言うよ」というわけで す。しかし、データや資料なしに書いたわけで はありません。以下は、中村修二批判の第二弾 です。「さるさる日記」にも再録しています。 http://www4.diary.ne.jp/user/412147/


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中村修二は「産業スパイ」だった…のか? ==================================
中村修二「裁判闘争」と「テーミス

 私が「中村修二問題」について考える時の資料は、 主として雑誌「テーミス」である。実は、私も昨年 末にこの雑誌から原稿依頼を受け、今年の初頭に経 済コラムを書いたのだが、ちょうどその頃、相前後 してこの雑誌に掲載されたのが「青色LED特許裁判 の『真実』」という特集記事だった。私はこの記事 を読み、はじめて問題の深さと広がりを実感として 理解した。


 われわれは、これまで、この裁判について中村修 二サイドからの情報だけで物を考えてきた。しかし 裁判には相手がいる。当然、相手には相手の言い分 があろう。しかしマスコミも一般大衆も中村修二が 作った「物語」を鵜呑みにして、裁判の相手の日亜 化学という会社にはなんの興味も示さなかった。「 会社に莫大な利益をもたらすような技術開発をただ 一人で成功させた中村修二という天才的な科学技術 者」を抱えながら、その能力や成果を全く評価せず、 むしろ冷遇し続けた会社……という物語だ。


 では、実際はどうだったのか。日亜化学の経営者 や残った社員たちはこの問題をどう受け止め、どう 考えているのか。いや、そもそも中村修二の言う話 (サクセストーリー)は真実なのか。


 この問題に挑戦したのが雑誌「テーミス」であっ た。私は寡聞にして、この問題を日亜化学側から追 跡したマスコミの存在を知らない。マスコミも出版 社も、中村修二を追い掛けるだけであった。そして 中村修二の「自慢話」「ホラ話」を鵜呑みにした「 駄本」を続々と世に送り出しただけであった。


中村修二が裁判にこだわる理由  


一般的には、中村修二は、裁判そのものが当初の 目的ではなく、日亜化学に訴えられたから、仕方な く裁判を始めたと思われている。そして裁判の目的 も金銭的対価が目的ではなく、「日本の科学技術者 の地位向上……」等が裁判の目的だ、と。しかしこ れが大きな間違いである。


 そもそも中村修二日亜化学を退職し、アメリカ に渡ったのは、何故か。ここに中村修二の「裁判闘 争」の真の意味は隠されている。つまり「アメリカ 行き」と「裁判闘争」はセットだったのである。中 村修二が「産業スパイ」ではないか、という疑惑が 発生する理由である。


 中村修二は、日亜科学を退職する直前、日亜化学 のライバル会社「クリー社」やカリフォルニア大学 の関係者と接触している。  1999年10月13日。ノースカロナイナで開 かれた学会に出席した中村修二は、クリー社の幹部 と食事し、そこで20万株の「ストックオプション」 (未公開株式)の提供を受けた。中村修二は、ここで 日亜化学からクリー社への転職を決意したと思われ る。むろん、クリー社は中村修二を陣営に引き込む ことによって「日亜化学つぶし」をねらったのであ ろう。その罠にはまったのが、日亜化学の研究開発 の現場にいて、日亜化学の特許や産業機密に精通し ていた中村修二だつた、というわけである。


 中村修二はこの後、クリー社に、「クリー社に行 ったら日亜化学の特許が問題になる。」「クリーに 行ったら、特許を逃れるいい方法がある」というメ ールを送っている。つまり中村修二の方も、転職先 としてクリー社にさかんに売り込んでいたのである。


 これに対してクリー社は、「ストックオプション の他に、年俸32万ドル、ボーナス最高8万ドル、 さらに100万ドルの家を提供する」という雇用条 件を提示した。


 しかし、結果的には中村修二はクリー社を断念し、 カリフォルニア大学サンタバーバラ校に転職した。 なぜか。ここにも重大問題が隠されている。


 実は、カリフォルニア大学のデンバーグ教授から、 「クリーに行ったら、日亜に『企業機密漏洩で訴え られる』可能性は高いぞ」と忠告されたからである。


 しかし中村修二は、カリフォルニア大学に転身の 直後、クリー社の子会社「クリーライティング社」 の非常勤研究員になる。


 さらに中村修二は、デンバーグ教授の設立した 「ナイトレス」という半導体バイス開発のベンチ ャー企業のコンサルタントにもなっている。ところ が、このベンチャーはその直後クリー社に買収され ている。この買収劇で、中村修二は、10億500 0万円以上の 株式利益を得ている。

■暴露された契約書の内容  

ところが、裁判の過程でさらに大きな疑惑が暴露 された。2003年7月15日の裁判の本人尋問で 明らかになった事実である。中村修二は、クリーラ イティング社の非常勤研究員になるにあたって「2 通の契約」を結んでいたが、その牝契約内容とは?  2001年5月の契約書には、「東京地裁で日亜 化学を相手に相当の対価の訴訟を行うこと。その際、 弁護士費用はクリーライティング社がすべて負担す ること、追加報酬としてクリー社の7万株のストッ クオプションが与えられること。」とあった。


 この契約書を読めば、クリー社が中村修二に接近 した理由が一目瞭然であろう。しかも、中村修二が 研究生活を犠牲にしてまでも裁判闘争を開始せざる をえなかった理由も明らかだろう。中村修二は完璧 ににクリー社の罠の中に堕ちていたのである。


 ところがこの契約書は途中で変更されている。つ まり、2001年8月の契約書では、「訴訟の範囲 が『半導体結晶膜の成長方法』という中村修二が帰 属を主張した『404特許』に限定されてしまった ため、訴訟費用の前払いは望んでいないが追加のス トックオプシヨンは変更されていない」という内容 に変わっていた、と言う。この変更は何を意味する のか。


 何故、訴訟費用の全額負担が後退したのか。それ は、おそらく、前回も(小生のHPをご覧ください。 :http://yamazakikoutarou.gooside.com/) 説明したように、「404特許」だけでは青色発光 ダイオード製造は不可能だということにクリー社側 が気づいたからだろう。  つまり、クリー社も、中村修二の「自慢話」(サ クセスストーリー)にまんまと騙されていたのだ。≫


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