文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大道寺将司、懐かしい名前です。

私は、政治思想的には、保守反動を名乗りながら、昔か大道寺将司、懐かしい名前です。私は、政治思想的には、保守反動を名乗りながら、昔から、左翼過激派の革命家たちが好きだった。『ネット右翼亡国論』にも収録したが、赤軍派の指導者で議長だった塩見孝也さんと対談したのも、その延長だった。私は、左翼過激派でも、穏健、且つ人道主義的な左翼陣営から排除されるかもしれないような左翼過激派の反社会的活動家たちに注目していた。私は、森恒夫について、「小説三島由紀夫事件」の続編として、実録小説を書こうと計画したこともある。大道寺将司も忘れられない名前だ。三田誠広も、大道寺将司と大道寺あやこをモデルに小説を書いているはずである。大道寺あやこが、「絶世の美女」(?)だったことも忘れられない。大道寺あやこも逮捕されたが、人質交換で、超法規的手続きで釈放され、重信房子らとともに世界革命運動に参加。その後は?すでに70歳近くなっているはずだが・・・。ら、左翼過激派の革命家たちが好きだった。『ネット右翼亡国論』にも収録したが、赤軍派の指導者で議長だった塩見孝也さんと対談したのも、その延長だった。私は、左翼過激派でも、穏健、且つ人道主義的な左翼陣営から排除されるかもしれないような左翼過激派の反社会的活動家たちに注目していた。私は、森恒夫について、「小説三島由紀夫事件」の続編として、実録小説を書こうと計画したこともある。大道寺将司も忘れられない名前だ。三田誠広も、大道寺将司と大道寺あやこをモデルに小説を書いているはずである。大道寺あやこが、「絶世の美女」(?)だったことも忘れられない。大道寺あやこも逮捕されたが、人質交換で、超法規的手続きで釈放され、重信房子らとともに世界革命運動に参加。その後は?すでに70歳近くなっているはずだが・・・。

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小池百合子」を批判・罵倒する人々へ、告ぐ。

「闘う君の歌を、闘わない奴等が嘲笑うだろう」(中島みゆき)という歌を知っているか。小池百合子を批判・罵倒する人々の多くは、「闘わない奴等」でしかない。

要するに、自分は何もしない、何もできない野次馬でしかない。野次馬とは、闘いの前、あるいは闘いの渦中では、何も言わず、付和雷同するだけの無責任な一般大衆。闘いが終わり、勝ち負けの結果が明らかになると、急に、居丈高に発言を始める居酒屋老人、井戸端会議のおばちゃん、テレビの前で、大ボラをふいている「ネット右翼」・・・、それが野次馬の正体である。

新聞、雑誌、週刊誌、ネット、YouTube動画などで騒いで、「小池百合子バッシング報道」に熱中しているものの多くは、その種の野次馬たちである。

私は近著『ネット右翼亡国論 ー桜井誠廣松渉佐藤優の接点 』(春吉書房)で、「情勢論、原理論、存在論」の三位一体論を主張している。つまり、無責任な匿名の一般大衆や、物知りが自慢の学者、ジャーナリストの多くは、「情勢論」や「原理論」のレベルにとどまっている人種でしかない。つまり、「生きるか死ぬか」の極限の闘いの出来ない人種である、

私は、「情勢論、原理論、存在論」の三位一体論をさらに拡大して、「勝負する実践組、不平不満組、付和雷同組」の三位一体論を主張したい。つまり、今、総選挙が終わってから、小池百合子前原誠司の大失敗を批判嘲笑している野次馬は、不平不満組から付和雷同組でしかないということだ。彼等、野次馬は、自分から、「勝つか、負けるか」の一発勝負の出来ないデクノボーでしかない。
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序論ー安倍政権は「ネット右翼政権」である。

ネット右翼亡国論』
■序文ー「ネットA」と「ネット右翼B」

 「ネツト右翼」という言葉がある。現代日本の政治や文化、思想、学問・・・を象徴する言葉の一つである。しかし、この「ネツト右翼」という言葉は、今では、「ヘイトスピーチ」や「偏狭的ナショナリズム」「民族差別」などとともに否定すべき、嫌悪すべき言葉であると見なされている。「ネツト右翼」と聞いただけで嫌悪感をもよおし、失笑する人も少なくないだろう。
 そういう場合、「ネット右翼」という言葉は、無知蒙昧な「低学歴」「低所得者層」「非エリート層」「負け組」「反社会的」というイメージとともに連想されているかもしれない。あるいは反合理主義、反実証性、陰謀論論・・・。たとえば、悪名高い「在特会」(「在日特権を許さない会」)のリーダーで、前会長の桜井誠
 安田浩一の『ネットと愛国』によれば、桜井誠は、北九州のさびれた旧炭坑町に生まれ、貧しい母子家庭で、不遇な少年時代を過ごし、高卒後上京、定職もないままに、数年間放浪したあげく、民族差別デモやヘイトスピーチを繰り返す「ネット右翼活動家」として社会的に登場してきたということになっている。安田浩一は、桜井誠を、典型的な「ネツト右翼」であり、反社会的な危険人物だと言いたいように見える。
 しかし、はたして、そうだろうか。私は、そうは思わない。私は、安田浩一の『ネットと愛国』を読んで、怒りのようなものを感じた。そこには、不遇な生い立ちの人間への冒涜があり、土着的・存在論思想への冒涜がある、と。私は、逆に、芥川賞作家の中上健次を思い出した。少なくとも、芥川賞作家になるまでの中上健次の前歴と生活環境は、桜井誠のそれとさほど変わらないように、私には思える。
 中上健次桜井誠の違いは何処にあるか。それは、ネット・メディアの存在だろう。中上健次は、1992年、ネット・メディアを知らないままで逝った。私は、中上健次が亡くなったとき、追悼の短い中上健次論を『海燕』という文芸誌に書いたが、その時は、私自身、まだ「ワープロ」を使い始めた頃で、ほぼ「手書き」だった。その後、ネット・メディア革命と言うべき情報革命が起きた。ブログやツィッタースマートフォンなどによるネットの大衆化である。このネット・メディア革命なくして、「ネツト右翼」はありえない。
 そもそも、「ネツト右翼」という言葉には、複雑で、難解な、歴史的・思想的意味が隠されている。「ネット右翼」や「ネット右翼現象」が、パソコン、あるいはネット・メディアの登場とともに出現したという歴史からもわかるように、「ネット右翼」は、新聞、テレビ、雑誌などの大手メディア中心の「一方通行的メディア」から、誰もが情報発信できる「双方向的メディア」としてのネット・メディアへの転換期、つまり一種の「文化革命」の時代に出現した社会現象である。
 そこには「大衆の叛乱」「民衆の叛乱」「読者・視聴者の叛乱」という要素が隠されている。言い換えれば、伝統的な知的リーダーとしての「学者・知識人の没落」、あるいは「新聞、テレビ、大学の地盤沈下」という要素が隠されている。この歴史的背景を忘れて、「ネット右翼」の無知蒙昧を、高見の見地から批判し、激しく罵倒しても無駄である。
 
東浩紀は、『ゲーム的リアリズムの誕生』で、このメディア革命について、こう書いている。<< ここで導入しておきたいのが、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディアという大きな分割の発想である。
この二つは筆者の造語である。「コンテンツ志向メディア」は、能動的な送信者(作者や企業)と受動的な受信者(読者や視聴者)の非対称性で特徴づけられる、一方的なメディアを指している。前世紀から存在するほとんどのマスメディア、出版、ラジオ、テレビ、映画、CDなどが、この分類に属する。このタイプのメディアでは、コンテンツは送信者の側で作り上げられ、読者や視聴者はそこに介入できない。したがって、このメディアは、ひとつの始まりがあってひとつの終わりがある。単一の時間的継起をもったコンテンツの配信に適している。物語はその典型である。
他方で、「コミュニケーション志向メディア」は、送信者と受信者のあいだに非対称性がない、いわゆる双方向的なメディアを指している。ゲーム(コンピュター・ゲームと限らない)とインターネットが例として挙げられる。このメディアにおいては、コンテンツは送信者の側で作られているだけではない。受信者、すなわちゲームユーザーやネットワーカーも、コンテンツに干渉できる。この縦イブのメディアは、つねにコンテンツの変更の可能性を残してしまうため、ひとつの始まりがあってひとつの終わりがある、単一の時間的継起をもったコンテンツの配信に適さない。すなわち、物語の配信に適さない。 >>
東浩紀の分析は鋭い。この文章に、「ネット右翼現象」の秘密が隠されていると見て間違いない。東浩紀は、「物語」や「ゲーム」を中心にメディア革命の状況を論じているが、ここでは、より普遍的な文化革命の実態究明がなされている。
東浩紀は、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」に分類しているが、これを、もっとわかりやすく言い換えると、「一方通行的メディア」と「双方向的メディア」ということができる。
つまり、双方向的メディア(ネット・メディア)の登場によって、一方通行的メディアとしてのマスコミやマスコミに依存し寄生するジャーナリスト、文化人、大学教授的知識人等の存在意義が疑われ始めているということである。そこに、ネットやネット動画などの双方向的メディアを駆使して登場してきたのが「ネット右翼」である。
ネットの書き込みは、「便所の落書き」にすぎないだとか、ネットは犯罪の温床だとか言われたことがあるが、それらのネット批判は、多くは、一方通行的メディア側の人間たちの、ネット社会の台頭への「不安」と「恐怖」、そして「嫉妬」や「悪あがき」にすぎなかった。現に、ネットの登場によって、新聞、テレビ、出版・・・などは衰退産業化しつつある。
ネット右翼」の登場も、善悪の問題ではない。それはもはや立ち戻ることのできない歴史的現実である。誤解を恐れずに言うならば、ヘーゲルが、ナポレオンのドイツ侵略を目前にして、「世界精神が歩いている」と言ったように、まさしく「ネット右翼」という「世界精神が歩いている」のである。



 私の考えでは、現代日本の思想状況を考える時、「ネツト右翼」が果たしている思想的意義は、決して小さくない。それを解明するのが本書である。
 要するに「ネツト右翼」という言葉を、多くの人たちと同様に、私も、長いこと、批判すべき、否定すべき言葉だと考えていた。だから、本書のタイトルも「ネット右翼亡国論」としたのであった。「ネツト右翼が国を滅ぼす」と。しかし、「ネツト右翼」という問題に真剣に取り組みはじめて、私の「ネツト右翼」論は大きく転換した。少なくとも、「ネツト右翼」には二つの大きな流れがあり、その一つは、肯定し、擁護すべきもののように見えてきた。
 
 佐藤優は、『知性とは何か』で、「反知性主義」が蔓延し始めていると分析して、その反知性主義が、学者や官僚、あるいは政権中枢の政治家たちにまで蔓延していることを指摘している。つまり、「反知性主義」は、低学歴、低収入・・・層に蔓延しているのではなく、高学歴、富裕層・・・にこそ蔓延している、と。私も同感である。佐藤優が「反知性主義」と呼ぶものと、私が「ネツト右翼」むと呼ぶものは、それほど異なるものではない。

 私は、安倍晋三麻生太郎等が中心になって構成している「安倍政権」を、典型的な「ネツト右翼政権」だと思っている。選挙で、どんなに支持されていようとも、私は、悪い意味で、「ネツト右翼」的な政治家たちや御用文化人たちによって支えられている政権が安倍政権だと思っている。
 たとえば、副首相で財務大臣麻生太郎は、「憲法改正ナチスに学べ」というような意味不明の、不可解な発言を、平気でおこなっている。こういう発言が、どういう社会的、政治的意味を持つかを、麻生太郎本人が自覚していないということであろう。麻生太郎は、おそらく、ナチスヒットラーに関しても、まともに勉強しているわけではなく、ネット情報をうまみにしたような、薄っぺらな知識しか持っていないということだろう。 
 安倍政権の応援団の一人である作家の百田尚樹は、沖縄の米軍基地の辺野古移設に反対する沖縄の新聞二紙について、「つぶさないかん」と、自民党の若手議員の勉強会で発言している。非公開の勉強会とはいえ、国会の周辺で、言論弾圧を公言するような「大衆作家」を、勉強会に呼ぶのが安倍政権の若手政治家たちの思想的、政治的レベルである。そもそも、百田尚樹のような二流作家が支持し、支援する安倍政権は、まともな政権とは、私には思えない。つまり。麻生太郎百田尚樹が象徴するのは、悪しき「ネツト右翼」である。
 それに対して、「在特会」の桜井誠等が象徴する「ネツト右翼」は、少し違うと私は思う。私は、安倍晋三麻生太郎、あるいは百田尚樹等が象徴する「ネツト右翼」と桜井誠等の「ネツト右翼」を区別して考える。
 私は、安倍晋三麻生太郎、あるいは百田尚樹等が象徴する「ネツト右翼」を「ネット右翼A」と呼ぶ。それに対して、桜井誠等が象徴する「ネツト右翼」を「ネット右翼B」と呼び、区別する。

 私は、そういう肯定し、擁護すべき「ネツト右翼」を、「存在論的ネツト右翼」と呼びたい。「存在論的ネツト右翼」とは、内発的、土着的、創造的な「ネツト右翼」のことである。たしかに「ネツト右翼」は、反知性主義的、反合理的、反社会的要素を内包しているかもしれない。しかし、少なくとも、我が国では、「ネツト右翼」は、地に足の着いた思想運動を象徴する言葉でもある。私が注目するのは、この「地に足の着いた思想運動」という点である。私は、「地に足の着いた思想運動」のことを、「思想の土着化」と呼ぶことにする。土着化された思想というほどの意味である。言い換えれば、「思想の存在論化」、あるいは「思想の血肉化」「思想の内在化」と言い換えることも出来る。
 
 丸山眞男は、古典的名著『日本の思想』(岩波新書)で、日本の思想は、それぞれの時代に、すぐれた思想を生み出すが、しかしそれが日本の思想風土に定着することがない、そのために日本の思想は、創造的進展がないと批判している。
 何故だろうか。何故、優れた思想が産み出されるにもかかわらず、日本の思想風土に定着し、創造的発展をしていかないのか。それは、産み出される思想の多くが、「肉体化」「存在論化」、つまり「思想の土着化」がなされないからである。いつのは時代にも、多くの新しい思想や新しい思想運動が、いわゆる「知識」や「流行」に終わっているからである。
 私は、ひところ、隆盛をきわめた「ニューアカ」とか「ポスト・モダン」という思想も、単なる流行や知識や教養のレベルにとどまり、日本の思想風土に定着しないままで終わろうとしていると思っている。
 逆に言えば、東大大学院卒や京大大学院卒のエリート学者たちやその予備群の若者たちが飛びつく「ニューアカ」とか「ポスト・モダン」という思想に比べれば、桜井誠的な「ネット右翼」は、日本の思想風土に定着しつつある、と私は思う。内容的に、どんなにその思想的レベルが低くとも、「ネツト右翼」という思想が、我が国の思想風土に深く浸透しつつあることは否定できない。
 
 繰り返すが、私は、「ネツト右翼」を、「ネット右翼A」、つまり「存在論的ネツト右翼」と、「ネット右翼B」つまり、「イデオロギー的ネツト右翼」に分けて考えたい。
 丸山眞男が批判する日本の思想は、「イデオロギー的ネツト右翼」の方であろう。「存在論的ネツト右翼」と「イデオロギー的ネツト右翼」の差異は何処にあるのか。本書のテーマの一つは、そこにある。
 吉本隆明は、『転向論』で、知識人の転向の原因は、「大衆からの孤立」であると言っている。「大衆からの孤立」とは何か。私見によれば、それは、「思想の土着化」が出来ていないということである。つまり、「思想の存在論化」「思想の内在化」が出来ていないということである。思想や学問が、知識や教養のレベルにとどまっているからである。
  《日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つあると、かんがえる。第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思考の対象
として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである。》
 《この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。このときに生まれる盲点は、理に合わぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだという認識によって示される。》 (「転向論」)
 
  吉本隆明が「大衆からの孤立」ということは、「日本的情況からの孤立」でもある。
  私は、逆に「ネツト右翼」は大衆から孤立していないと考える。大衆の「集合的無意識」を体現しているのが「ネット右翼」である。「ネツト右翼」の思想的リアリティーは、そこにある。私が、「存在論的ネツト右翼」と呼ぶのは、そういう「ネツト右翼」であり、私が「ネット右翼」を擁護したいと思うのは、そういう理由からである。
 小林秀雄は、戦時中、「国民は黙って事変に処した・・・」と言っている。何故、日本の国民は、事変や戦争に抵抗したり反対したりせずに、「黙って事変に処した」のか。「黙って事変に処した国民」とは何か。無知蒙昧な大衆ということか。私の考えでは、「思想の土着化」「思想の存在論化」「思想の内在化」が出来ている国民ということである。
 小林秀雄は、戦後、「国民は黙って事変に処した・・・」に関連して、次のような発言をしている。
《僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙つて処した。それについて今は何の後悔もしていない。僕は歴史の必然性といふものを、もつと恐ろしいものと考へている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。》(「コメディ・リテレール」)


 小林秀雄のこの「居直り発言」(?)を、どう受け止めるかは、読者の自由であろうが、少なくとも小林秀雄が、吉本隆明の言う「大衆からの孤立」はしていないことは明らかだろう。
 小林秀雄は、日本国民という大衆の「集合的無意識」とともに思考している。たから、事変が起ころうと戦争が起ころうとジタバタしないで、黙って事変に処すことが出来たということだろう。私は、現代の「存在論的ネツト右翼」(「「ネット右翼B」」)がそれにあたると考える。
 同じようなむことを、ハイデガーは、「森の農夫」を例にこういうことを言っている。森の農夫は、「森とは何か」を考えない、「森が何であるかを考えるまでもなく、身体で知っているからだ」と。都会人は、森を知らないが故に、「森とは何か」を、考えようとする、と。私見によれば、ハイデガーが言っていることは、「思想の土着化」「思想の存在論化」・・・ということである。
  たとえば、哲学者・広松渉と哲学研究者・熊野純彦のという現代日本の知性を代表する師弟関係を考えてみたい。もちろん、熊野純彦は、広松渉の弟子で、東大教授である。二人とも、有名な「哲学者」として知られている。広松渉は『マルクス主義の成立過程、』や『存在と意味』で知られ、熊野純彦ハイデガーの『存在と時間』、カントの『純粋理性批判』などの翻訳者として知られている。いずれも「東大教授」を勤めている。
 しかし、二人の間には、微妙な、且つ本質的な差異がある。つまり、広松渉は、あくまでも「革命」をめざす実践的な哲学者だったが、熊野純彦は、あくまでも研究者という立場を重視する、いわゆる「哲学研究者」だった。広松渉熊野純彦は、一見、同じような「哲学者」であるように見える。だが、二人の間に、「哲学者」と「哲学研究者」の差異があることは否定しようがない。たとえば、廣松渉は、晩年、最後の力をふりしぼって、左翼政治集会を開催し、そこに、弟子の熊野純彦(当時、北海道大学教授)の参加をも期待していた。しかし、熊野純彦は、そこに現れなかった。熊野純彦は、こう回想している。

≪同じ年「フォーラム90s」が発足し、廣松渉はそれにさきだち、準備のために奔走している。五月に大会が開催され、さまざまな傾向をもった研究者、党派の新旧の関係者が一堂に会した。その日、廣松は、私(註ー熊野純彦)の姿をさがしていたという。「クマノはきっと来てくれる」と周囲に語っていたよしである。廣松が逝ってしまってから、忽那敬三からおしえられた。大会の案内はきていたが、私は参加しなかった。(中略)率直にいって私には、廣松のこころみが、<政治>をめぐる危うげで理解が困難なアンガジュマンにしか見えなかった。にもかかわらず、忽那から後日耳にした廣松のことばが、いまでもなお、こころのどこかでわだかまっている。≫
(熊野純彦『戦後思想の一断面、哲学者廣松渉の軌跡』)
廣松渉熊野純彦の差異はどこにあるのだろうか。そして、その差異は、思想的に、何を意味しているのだろうか。私は、ここにも「思想の土着化」を生きた哲学者と、「思想の土着化」を拒絶して、あくまでも研究者の立ち位置を崩さなかった哲学研究者の差異があると考える。
 たとえば、佐藤優は、この話を紹介した後で、こう書いている。

≪しかし、客観的には負けが明らかな情況であっても、それにあえて参与するというのが廣松型政治の美学だったのである。廣松にとって左翼運動とは、結果を追求する政治運動ではなく、「虎は死しても皮を残す」という類の正義運動だったのかもしれない。廣松は、アカデミズムの中で育てた弟子の中に、正義運動においても最後まで自らと行動を共にする友が欲しかったのであろう。熊野もそのことはわかっていた。しかし、どうしても師についていくことができなかったてのである。≫

 繰り返して言うが、この差異は、私が言う「思想の土着化」、あるいは「思想の存在論化」「思想の内面化」という問題と深くかかわっている。つまり「思想家の生き方」という問題にかかわっている。この差異は、「ネット右翼A」と「ネット右翼B」の差異でもある。
私が、本書で明らかにしたいと思うのは、この「思想家の生き方」という問題である。
 私は、まず、「広松渉桜井誠」を比較して論じる。私の中では、意外かもしれないが、二人は似ている。似ているのは、「思想内容」や「思想体系」ではなく、「思想家の生き方」である。
 「ネツト右翼」の産みの親が、小林よしのりだという説がある。私は、そう思わないが、そう錯覚させるのは、それなりの理由があると思う。小林よしのりは、「マンガで政治を語る」というスタイルを確立し、若者たちに大きな影響を与えている。若者たちの政治的覚醒をもたらし、間接的に「ネツト右翼」の誕生を促したと言っていい。しかし、小林よしのりが「ネツト右翼」の産みの親というのは間違っている。桜井誠が強調するように、「ネツト右翼」は、ネットやブログ、ネット動画などを駆使して政治的主張や政治デモを、主体的に行う人種である。小林のりには、「読者の政治参加」「読者の主体的発言や行動」という問題意識はない。その意味で、小林よしのりは、「お説教文化人型」のイデオローグ、つまり「古典的知識人型」の、あるいは一方通行的メディアの時代の啓蒙主義的イデオローグにすぎない。
 後で、気づいたのであるが、広松渉桜井誠も、あるいし麻生太郎小林よしのりも、福岡県出身である。麻生太郎は東京生まれ東京育ちだろうが、麻生一族の本籍地も、麻生太郎の選挙区も、福岡県飯塚である。ちなみに、安倍晋三は、関門海峡で隔てられているとはいえ、すぐ隣の山口県下関である。北九州の対岸。
しかし、麻生太郎と同様に、安倍晋三下関で育ってはいない。 「思想の土着化」や「思想の存在論化」という見地から見れば、安倍晋三麻生太郎も根無し草であり、とても「思想の土着化」や「思想の存在論化」などはありえない。彼らが「ネツト右翼化」(「ネット右翼A」化)するのは当然である。

『ネット右翼亡国論ー桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点ー』

ネット右翼亡国論ー桜井誠廣松渉佐藤優の接点ー』

桜井誠廣松渉佐藤優の接点
私が、安田浩一の『ネットと愛国』を立ち読みして、桜井誠に興味を持ちはじめた頃は、同時に、私は、哲学者で東大教授だった廣松渉の思想遍歴にも興味を持ち始めた頃だった。私は、その頃、佐藤優との「連載対談」の予定があり、そのための資料として、佐藤優の『廣松渉論』(『共産主義を読みとく』、「いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」)を読んでいた。そして、読み進めていくうちに、「思想の存在論化」、つまり「思想の土着化(存在論化)」という問題に突き当たった。「思想や哲学は、土着化しなければホンモノではない」「思想の土着化(存在論化)とは、その思想が、その人の生き死にの問題に直結するということだ」と。
たとえば、佐藤優は、廣松渉について、こう言っている。

《なぜ、廣松を二一世紀初頭のいま、日本というこの場所で、正面から取りあげることが重要なのだろうか。筆者の考えでは、廣松が思想のもつ意味を心底理解していた哲学者だからである。廣松にとって、哲学とは「知を愛好する」ことにとどまらず、生き死にの原理となる思想であった。この点が廣松の限りなき魅力なのだ。》 (佐藤優廣松渉論』)

私も、つい最近まで、廣松渉を、「マルクス主義哲学者」や「革命家」とは言いながら、所詮は、大学人であり、研究室や書斎にこもる一介の優秀な「哲学研究者」にすぎないと思っていた。つまり「革命」の傍観者ではないが、革命運動や学生運動の「同伴者」の一人程度だと思っていた。
廣松渉は、学者や研究者としては優秀で立派だが、その生き方は、所詮、一介の「哲学研究者」であり、一度は名古屋大学教授を、大学紛争で辞職したとはいえ、ふたたび大学教授の職に舞い戻るような、つまり、やはり「東大教授」という肩書の人にすぎなかった、と。

しかし、最近、佐藤優の『廣松渉論』や、小林敏明の『廣松渉――近代の超克』『哲学者廣松渉の告白的回想録』、あるいは熊野純彦の『戦後思想の一断面―哲学者廣松渉の軌跡』などを読むにいたって、私は、自分の廣松渉認識が間違っていることを知らされた。

廣松渉は一介の秀才哲学者でも、哲学研究者でもなかった。佐藤優が言うように、廣松渉にとって第一義的なものは「革命」であり、学問研究は「革命」のための道具や手段であって、いわば二義的なものにすぎなかった。つまり、廣松渉は根っからの「実践的革命家」であった。佐藤優は、廣松渉についてこう書いている。

《廣松には、近くで接した人々の磁場を狂わせるカリスマがある。このようなカリスマは、政治活動、特に革命を志向する者には、不可欠の資質なのだ。オーガナイザーとしての能力といってもよい。》(佐藤優共産主義を読みとく』、「いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」)

佐藤優によると、廣松渉の魅力は、その精緻な哲学思想だけにあるのではなく、廣松渉という人間の生き方に深くかかわっているということになる。廣松渉は、哲学研究者や東大教授である前に、実践的な「革命家」であった、と。つまり、廣松渉は、生涯、革命家として生きたというわけである。
私は、実は、大学時代から、廣松渉の哲学論文の多くを読んでおり、かなり思想的にも学問的にも深い影響を受けていた。『世界の共同主観的構造』や『物的世界への前哨』『科学の危機と認識論』などは、大学時代から大学院時代、そして私の処女作である『小林秀雄ベルクソン』の執筆のころまで、私は、学問的には、廣松渉の書いたものを参考にしていた。『小林秀雄ベルクソン』は、「廣松哲学」の中の「パラダイム・チェンジ」という概念を、小林秀雄読解に応用したものである。
しかし、その頃、私は、廣松渉をそれほど尊敬はしていなかった。私が、その頃、尊敬し、畏怖し、目標にしていたのは、小林秀雄であり、江藤淳であり、三島由紀夫であった。あるいは吉本隆明であった。廣松渉ではなかった。何故か。
私が、求めていたのは、政治や思想というものを、単に情報や知識の暗記や受け売りとしてではなく、「生き方の根本問題」と直結した問題として、突き詰めて考えている文学者や思想家だった。だから、私は、ポスとモダン思想とともに流行した「ニューアカ」とか「浅田彰」とか「蓮実重彦」とかに興味が持てなかった。ポストモダン・ブームもニューアカ・ブームも、所詮はブームにすぎず、実態は秀才たちの知的遊びでしかないと思ったからだ。
たとえば、佐々木敦という人(早稲田大学教授)が書いた『ニッポンの思想』という本がある。日本の現代思想は、浅田彰蓮実重彦柄谷行人東浩紀宮台真司・・・等の東大や京大の教授や助教授たちに代表されると書いている。そして、「すべては一九八三年の浅田彰の『構造と力』からはじまった」というわけである。
私は、こういう思想や思想家のとらえ方に、違和感を感じる。なるほど、ジャーナリズムやアカデミズムの世界ではそうだったかもしれない。しかし、思想や文学というものは、そういうものではないのではないか。ここには、佐藤優の言う「生き死にの原理」がない。ここでは、思想は、ピンポン玉のような、つまりゲームのようなものとして把握され、消費されている。これは、思想のイミテーションであって、本来の思想ではない、と私は思う。
再び言うが、私が言う「思想の土着化」や「思想の存在論化」とは、「思想家の生き方」に深くかかわっている。「生きるか死ぬかの問題」として思想問題や政治問題を考えることができるかどうかにかかわっている。
私は、当初、廣松渉も、ポストモダンニューアカ系の思想家や大学教授たちと同類でしかないのではないかと思っていた。しかし、廣松渉は、彼らとは違っていた。廣松渉の思想や哲学は、廣松渉の「思想家としての生き方」や「生き死にの原理」と直結していた。廣松渉は、母親の影響で、高校時代に共産党に入党している。廣松渉マルクス主義哲学研究も、革命家としての生き方も、その後、一貫して、揺るぎがない。廣松渉は、生まれは山口県だが、九州福岡県の柳川で育ち、父親が早くに亡くなったために、それなりに生活の苦労を重ねながら、二浪か三浪の末に東大進学を果たし、勉学を続けている。
私は、それまでも廣松渉をよく読んでいた。私の最初の著書『小林秀雄ベルグソン』は、廣松渉の「パラダイム・チェンジ」論を重要な参考資料として使っている。つまり、私は、それまで、廣松渉を、哲学や理論の次元でのみ読んでいた。言い換えれば、廣松渉は、私にとって、知識としての思想体系を学ぶ゜という点では重要だったが、私の「生き方」の問題に直結するような、そういう最重要な思想家や哲学者ではなかった。「思想家・廣松渉」、「哲学者・廣松渉」だけに注目し、理論や思想内容だけを読んでいたからだ。
私にとっての最重要な思想家や文学者は、たとえば高校時代に読み始めた大江健三郎であり、小林秀雄であり、江藤淳・・・だった。廣松渉ではなかった。

ところが、私は、佐藤優の『廣松渉論』を読んで、はじめて、「人間・廣松渉」を読むことになった。つまり、「実践的活動家」としての廣松渉である。その時、私の廣松渉再発見、再評価が始まった。

私は、かなり以前から、廣松渉の愛読者だったから、廣松渉の生い立ちも、政治運動で高校中退とか、大検で高卒の資格を取得し、東大に進学などという経歴も、ある程度知ってはいたが、細かい家庭環境や生活状況までは知らなかった。

繰り返して言うが、廣松渉は東大教授であり、有名なマルクス主義哲学研究者だった。しかし、佐藤優によれば、廣松渉は、第一義的には「革命家」であったという。廣松渉にとって、哲学研究も東大教授という肩書きも、「革命」のための手段であり、「革命」のための道具に過ぎなかった。

≪廣松の自己意識では、第一義的には革命家なのである。「哲学や思想は、革命のための道具に過ぎない。」とりあえず、そう言い切ってしまう。しかし、そこには収まりきれない何かがある。その「何か」は、マキャペリストに徹することができない、廣松の知的誠実さではないかと筆者は考えている。
それと同時に、廣松には、「革命の成就」という「認識を導く関心」から生まれる狡さがある。それは、知識人が、衒学によって真意を読者の前から隠すような狡さではない。革命への愛に起因する狡さである。≫(同上)


なるほど、そうだったのか。廣松渉の哲学や哲学研究の「凄み」は、そこから出てきていたのか、と私は納得した。廣松渉は、哲学研究者や東大教授である前に、実践的な「革命家」だったのだ。この日本で、革命を実現すること、それが、廣松渉の最大の目的だった。

誤解を恐れずに言えば、廣松渉が「革命家」だったとすれば、桜井誠も「革命家」である、と私は思う。廣松渉を、単なる哲学研究者という学者にとどまりえず、実践的な「革命家」たらしめたものは、マルクス主義という革命思想や哲学の理論だけではない。それを知るためには、廣松渉の生い立ちや家庭環境、育った風土などが、問題になるだろう。現に、廣松渉は、母親の影響で、高校生時代に共産党に入党し、共産党員になったという。
高校時代は政治活動の延長でストに参加し、退学処分を受けている。以後、廣松渉は、変わることなく、マルクス主義者、共産主義者として成長していく。廣松渉には転向ということはありえない。




ここで、もう一度、「思想の土着化」や「思想の存在論化」について簡単に説明しておこう。「思想の土着化」とは何か。「思想の存在論化」とは何か。あるいは「思想の内在化」とは何か。それは、思想が、その人にとって、「生き死にの原理」と直結しているということである。では、「思想が、その人にとって、『生き死にの原理』と直結している」とは、どういうことか。
たとえば、思想は思想であり、その人の生活や人生とは関係ない、と考える人も少なくない。だが、そういう人は、危機的状況に追い込められると、すぐに、今まで信じてきた思想を捨てたり、別の思想に乗り換えたりする。つまりすぐに「転向」する。土着化した思想や存在論化した思想では、そういうことは滅多に起こりえない。たとえ、獄中につながれ、転向を迫られても、思想を捨てることはない。どちらかというと、極端な場合には、転向より死を選ぶ。その意味で、宗教に近い。思想が、「生き死にの原理」と直結しているとは、そういうことである。

私は、桜井誠の思考や思想も、この「思想の土着化」や「思想の存在論化」を通過して成り立っていると考える。それ故に、桜井誠の思想と行動は侮りがたい、と。

桜井誠の『在特会とは「在日特権を許さない市民の会」の略称です』という本の冒頭は、「朝鮮学校の抗議活動に対して約一二〇〇万円の賠償判決」という話から始まっている。平成二十五年十月七日、京都地裁から一二〇〇万円の賠償判決を受けたというのだ。桜井誠は、この賠償判決から逃げるのではなく、堂々と受け止め、控訴し、最終的には、全額を支払ったようだ。この話を読んで、 私は、桜井誠等の市民運動が、どれだけ世間の顰蹙をかおうとも、彼らの中では、「本気」だと思った。そして、桜井誠の「思想」は、中身はどうであれ、彼が本気で思考し、信じ、且つ主張しているのだ、と私は理解した。

桜井誠はたしかに「ネット右翼」の一人だろうが、しかし単なる平凡な「ネット右翼」ではない、と。それは、桜井誠が、政治や思想というものを、単に情報や知識の暗記や受け売りとしてではなく、「生き方の根本問題」と直結した問題として、突き詰めて考えていると思ったからだ。

何回も繰り返すが、私が言う「思想の土着化」や「思想の存在論化」とは、「思想家の生き方」に深くかかわっている。「生きるか死ぬかの問題」として思想問題や政治問題を考えることができるかどうかということである。私は、桜井誠の言動や思想内容に全面的に賛成というわけではない。しかし、私は、小市民的価値観から見れば、明らかに「」反社会的」である桜井誠の言動と立ち居振る舞いの中に、その「生きるか死ぬかの問題」を見出した。私が、桜井誠を、平凡な「ネット右翼」と区別し、あえて「存在論ネット右翼」と呼んで擁護するのは、ここに根拠がある。


安田浩一の『ネットと愛国』を読んで、私は桜井誠が嫌いにはならなかった。むしろ、桜井誠という人物を見直した。安田浩一は、桜井誠や彼がリーダーをつとめる在特会を、終始、批判的に、且つ否定的に書いていたが、しかし、私には、まったく逆な読後感を与えた。私は、桜井誠に肯定的な興味を持ったのである。私は、桜井誠を通して、「思想の土着化」や「思想の存在論化」を考えたのである。思想や理論だけではなく、桜井誠という人間への関心と興味が深まるにつれて、桜井誠廣松渉が、ダブって見えるようになってきた。
桜井誠廣松渉。それぞれ、全く違う世界の人であり、思想的に密接な関係があるとは思えなかった。しかし、私の中では、二人に「共通するもの」が見えてきたのである。それが、本書のテーマでもある「思想の土着化」、あるいは「思想の存在論化」という問題であった。

廣松渉は東大教授であり、高名なマルクス主義哲学研究者である。一方、桜井誠は、「民族差別的言動」や「ヘイトスピーチ」で知られた反社会的人物と思われている人物である。逮捕されたこともある。裁判も抱えている。誰が見ても、廣松渉桜井誠が似ているとは思わないだろう。
しかし私は、安田浩一の『ネットと愛国』を読んで、桜井誠が、世間の評価とは違うと確信した。桜井誠という男を見直し、ちゃんと向き合ってみなければならないと確信した。世間の評価などどうでもいい。私は私の直感を重視した。つまり、安田浩一の『ネットと愛国』で、桜井誠の故郷が北九州の旧炭鉱町であり、しかも母子家庭で育ったということを知り、すぐに、廣松渉を連想したのである。
安田浩一の『ネットと愛国』には、健全な、小市民的価値観はあつても、思想的問題はない。つまり、安田浩一は、世間的な、小市民的価値観にどっぷりと浸かっている。あるいは左翼小児病的価値観に染まっている。私は、そういう「健全な思想」は大事だとは思うが、しかし、なんの関心も興味もない。思想的な根本問題は、健全な思想では測りきれない。

さて、私は、ここまで、佐藤優の『廣松渉論』を参考に、廣松渉を論じ、同時に桜井誠を論じてきた。そこで、ここで、私の中で、廣松渉桜井誠を結びつける役割をした佐藤優について見ておこう。佐藤優こそ、「思想の土着化」や「思想の存在論化」を生きてきた思想家であり、作家である。
佐藤優がわれわれの前に現れたのは、偶然である。佐藤優は、それまで外交官として働いていたが、小泉純一郎政権時代に起きた「鈴木宗男事件」の余波を受け、東京地検に逮捕され、約一年間の拘置所生活を余儀なくされ、そこから保釈されて出てきから、『国家の罠』や『獄中記』などで、作家活動を開始した。
佐藤優の言論・思想活動は、逮捕事件と切り離せないが、しかし、逮捕事件に限定されるものでもない。おそらく逮捕事件がなければ、佐藤優は、言論・思想活動はあり得なかっただろうが、しかし佐藤優の思想・言論活動には、逮捕事件を超えるものがある。この、「逮捕事件を超えるもの」が、佐藤優における「思想の土着化」や「思想の存在論化」であるように見える。

廣松渉と桜井誠2

広松渉桜井誠

 広松渉桜井誠、この二人に共通点が何かあるだろうか。おそらくない。
 広松渉は東大教授であり、マルクス主義研究で、世界的にも高く評価されている「哲学者」だ。学問的業績は数え切れない。著書も、『マルクス主義の成立過程』や『マルクス主義の地平』から、『世界の共同主観的構造』『存在と意味』『広松渉著作集』まで、膨大なものである。戦前の哲学者・西田幾多郎にも比すべき、戦後日本で、最高の創造的な哲学者といっていい。
 一方、桜井誠は、得体の知れない「ネツト右翼」の一人にすぎない。悪名高い「在特会」を作り、その会長になり、民族差別的なヘイトスピーチを繰り返し、裁判沙汰にまでなっている。最近は、突然、都知事選立候補し、意外にも10万票を獲得したとかしなかったとか言われているが、いずれにしろ、世間的には、あまりまともな人物とは思われていない。
 その広松渉桜井誠を、私は、ここでまず、並べて論じたい。何故か。二人の共通点とは何か。
 実は、この「ネット右翼亡国論」を出してくれることになった出版社が、たまたま福岡県博多にあった。まだ若いときに、東京で交流のあった、私よりも遙かに若い友人が、故郷の博多に帰って出版社を始めるというのだ。そこで、頭に浮かんだのが、「桜井誠」であり、「広松渉」であり、「小林よしのり」であり、「麻生太郎」・・・であったというわけだ。いずれも福岡県に縁がある人たちだ。
  特に、私は、広松渉桜井誠に関心を持った。意外かもしれないが、二人は、似ているのだ。何が似ているのか。どこに共通点はあるのか。
それは、本書のテーマの一つでもある「「思想の土着化」という問題だ。
 さて、広松渉桜井誠の共通点とは何か。二人とも福岡県出身である。広松渉は柳川、桜井誠は北九州の中間市。私は、そのころ、広松渉に関する伝記的書物を何冊か読んでいた。
 たとえば、佐藤優広松渉論『いまこそ広松渉を読み直す「エンゲルス論」ノート』(世界書院)や小林敏明の『広松渉ー近代の超克』(講談社)、熊野純彦の『戦後思想の一断面 哲学者広松渉の軌跡』(ナカニシヤ出版)などだ。
 私は、学生時代から、広松渉の本には親しんでいる。しかし、広松渉の個人的な、つまり伝記的な側面については、伝習館高校を退学になり、大検を経て東大に入学した・・・程度の話を知っているだけで、詳しい生い立ちについてはまつたく無知だった。
 

ドストエフスキーと清水正。未亡人プリへーリャの「踏み越え」


<<未亡人プリへーリャは年金百二十ルーブリで二人の子供を育て上げた。そこにきれいごとでないことが隠されていることはほぼ間違いない。(中略)プリへーリャは夫の友人の名前はアファナーシイ・イワーノヴイッチで閣下の名と父称を逆転しただけである。プリへーリャは彼のことを「いい方」と言っている。両者に秘められたこの符号から、プリへーリャとアファナーシイの性的関係を読みとれば、『罪と罰』一編は全く新しい世界を再構築することになる。>>(清水正清水正ドストエフスキー論全集7』(『オイデイプス王』と『罪と罰』)

清水はは「踏み越え」の物語である、ラスコーリニコフだけではなく、ソーニャもカチェリーナ(マルメラードフの妻)、そしてプリへーリャ(ラスコーリニコフの母)も「踏み越え」る、と。ラスコーリニコフが老婆殺しなら、ソーニャやプリへーリャは、性的踏み越え、つまり売春である。