文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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『ネット右翼亡国論ー桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点ー』

ネット右翼亡国論ー桜井誠廣松渉佐藤優の接点ー』

桜井誠廣松渉佐藤優の接点
私が、安田浩一の『ネットと愛国』を立ち読みして、桜井誠に興味を持ちはじめた頃は、同時に、私は、哲学者で東大教授だった廣松渉の思想遍歴にも興味を持ち始めた頃だった。私は、その頃、佐藤優との「連載対談」の予定があり、そのための資料として、佐藤優の『廣松渉論』(『共産主義を読みとく』、「いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」)を読んでいた。そして、読み進めていくうちに、「思想の存在論化」、つまり「思想の土着化(存在論化)」という問題に突き当たった。「思想や哲学は、土着化しなければホンモノではない」「思想の土着化(存在論化)とは、その思想が、その人の生き死にの問題に直結するということだ」と。
たとえば、佐藤優は、廣松渉について、こう言っている。

《なぜ、廣松を二一世紀初頭のいま、日本というこの場所で、正面から取りあげることが重要なのだろうか。筆者の考えでは、廣松が思想のもつ意味を心底理解していた哲学者だからである。廣松にとって、哲学とは「知を愛好する」ことにとどまらず、生き死にの原理となる思想であった。この点が廣松の限りなき魅力なのだ。》 (佐藤優廣松渉論』)

私も、つい最近まで、廣松渉を、「マルクス主義哲学者」や「革命家」とは言いながら、所詮は、大学人であり、研究室や書斎にこもる一介の優秀な「哲学研究者」にすぎないと思っていた。つまり「革命」の傍観者ではないが、革命運動や学生運動の「同伴者」の一人程度だと思っていた。
廣松渉は、学者や研究者としては優秀で立派だが、その生き方は、所詮、一介の「哲学研究者」であり、一度は名古屋大学教授を、大学紛争で辞職したとはいえ、ふたたび大学教授の職に舞い戻るような、つまり、やはり「東大教授」という肩書の人にすぎなかった、と。

しかし、最近、佐藤優の『廣松渉論』や、小林敏明の『廣松渉――近代の超克』『哲学者廣松渉の告白的回想録』、あるいは熊野純彦の『戦後思想の一断面―哲学者廣松渉の軌跡』などを読むにいたって、私は、自分の廣松渉認識が間違っていることを知らされた。

廣松渉は一介の秀才哲学者でも、哲学研究者でもなかった。佐藤優が言うように、廣松渉にとって第一義的なものは「革命」であり、学問研究は「革命」のための道具や手段であって、いわば二義的なものにすぎなかった。つまり、廣松渉は根っからの「実践的革命家」であった。佐藤優は、廣松渉についてこう書いている。

《廣松には、近くで接した人々の磁場を狂わせるカリスマがある。このようなカリスマは、政治活動、特に革命を志向する者には、不可欠の資質なのだ。オーガナイザーとしての能力といってもよい。》(佐藤優共産主義を読みとく』、「いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」)

佐藤優によると、廣松渉の魅力は、その精緻な哲学思想だけにあるのではなく、廣松渉という人間の生き方に深くかかわっているということになる。廣松渉は、哲学研究者や東大教授である前に、実践的な「革命家」であった、と。つまり、廣松渉は、生涯、革命家として生きたというわけである。
私は、実は、大学時代から、廣松渉の哲学論文の多くを読んでおり、かなり思想的にも学問的にも深い影響を受けていた。『世界の共同主観的構造』や『物的世界への前哨』『科学の危機と認識論』などは、大学時代から大学院時代、そして私の処女作である『小林秀雄ベルクソン』の執筆のころまで、私は、学問的には、廣松渉の書いたものを参考にしていた。『小林秀雄ベルクソン』は、「廣松哲学」の中の「パラダイム・チェンジ」という概念を、小林秀雄読解に応用したものである。
しかし、その頃、私は、廣松渉をそれほど尊敬はしていなかった。私が、その頃、尊敬し、畏怖し、目標にしていたのは、小林秀雄であり、江藤淳であり、三島由紀夫であった。あるいは吉本隆明であった。廣松渉ではなかった。何故か。
私が、求めていたのは、政治や思想というものを、単に情報や知識の暗記や受け売りとしてではなく、「生き方の根本問題」と直結した問題として、突き詰めて考えている文学者や思想家だった。だから、私は、ポスとモダン思想とともに流行した「ニューアカ」とか「浅田彰」とか「蓮実重彦」とかに興味が持てなかった。ポストモダン・ブームもニューアカ・ブームも、所詮はブームにすぎず、実態は秀才たちの知的遊びでしかないと思ったからだ。
たとえば、佐々木敦という人(早稲田大学教授)が書いた『ニッポンの思想』という本がある。日本の現代思想は、浅田彰蓮実重彦柄谷行人東浩紀宮台真司・・・等の東大や京大の教授や助教授たちに代表されると書いている。そして、「すべては一九八三年の浅田彰の『構造と力』からはじまった」というわけである。
私は、こういう思想や思想家のとらえ方に、違和感を感じる。なるほど、ジャーナリズムやアカデミズムの世界ではそうだったかもしれない。しかし、思想や文学というものは、そういうものではないのではないか。ここには、佐藤優の言う「生き死にの原理」がない。ここでは、思想は、ピンポン玉のような、つまりゲームのようなものとして把握され、消費されている。これは、思想のイミテーションであって、本来の思想ではない、と私は思う。
再び言うが、私が言う「思想の土着化」や「思想の存在論化」とは、「思想家の生き方」に深くかかわっている。「生きるか死ぬかの問題」として思想問題や政治問題を考えることができるかどうかにかかわっている。
私は、当初、廣松渉も、ポストモダンニューアカ系の思想家や大学教授たちと同類でしかないのではないかと思っていた。しかし、廣松渉は、彼らとは違っていた。廣松渉の思想や哲学は、廣松渉の「思想家としての生き方」や「生き死にの原理」と直結していた。廣松渉は、母親の影響で、高校時代に共産党に入党している。廣松渉マルクス主義哲学研究も、革命家としての生き方も、その後、一貫して、揺るぎがない。廣松渉は、生まれは山口県だが、九州福岡県の柳川で育ち、父親が早くに亡くなったために、それなりに生活の苦労を重ねながら、二浪か三浪の末に東大進学を果たし、勉学を続けている。
私は、それまでも廣松渉をよく読んでいた。私の最初の著書『小林秀雄ベルグソン』は、廣松渉の「パラダイム・チェンジ」論を重要な参考資料として使っている。つまり、私は、それまで、廣松渉を、哲学や理論の次元でのみ読んでいた。言い換えれば、廣松渉は、私にとって、知識としての思想体系を学ぶ゜という点では重要だったが、私の「生き方」の問題に直結するような、そういう最重要な思想家や哲学者ではなかった。「思想家・廣松渉」、「哲学者・廣松渉」だけに注目し、理論や思想内容だけを読んでいたからだ。
私にとっての最重要な思想家や文学者は、たとえば高校時代に読み始めた大江健三郎であり、小林秀雄であり、江藤淳・・・だった。廣松渉ではなかった。

ところが、私は、佐藤優の『廣松渉論』を読んで、はじめて、「人間・廣松渉」を読むことになった。つまり、「実践的活動家」としての廣松渉である。その時、私の廣松渉再発見、再評価が始まった。

私は、かなり以前から、廣松渉の愛読者だったから、廣松渉の生い立ちも、政治運動で高校中退とか、大検で高卒の資格を取得し、東大に進学などという経歴も、ある程度知ってはいたが、細かい家庭環境や生活状況までは知らなかった。

繰り返して言うが、廣松渉は東大教授であり、有名なマルクス主義哲学研究者だった。しかし、佐藤優によれば、廣松渉は、第一義的には「革命家」であったという。廣松渉にとって、哲学研究も東大教授という肩書きも、「革命」のための手段であり、「革命」のための道具に過ぎなかった。

≪廣松の自己意識では、第一義的には革命家なのである。「哲学や思想は、革命のための道具に過ぎない。」とりあえず、そう言い切ってしまう。しかし、そこには収まりきれない何かがある。その「何か」は、マキャペリストに徹することができない、廣松の知的誠実さではないかと筆者は考えている。
それと同時に、廣松には、「革命の成就」という「認識を導く関心」から生まれる狡さがある。それは、知識人が、衒学によって真意を読者の前から隠すような狡さではない。革命への愛に起因する狡さである。≫(同上)


なるほど、そうだったのか。廣松渉の哲学や哲学研究の「凄み」は、そこから出てきていたのか、と私は納得した。廣松渉は、哲学研究者や東大教授である前に、実践的な「革命家」だったのだ。この日本で、革命を実現すること、それが、廣松渉の最大の目的だった。

誤解を恐れずに言えば、廣松渉が「革命家」だったとすれば、桜井誠も「革命家」である、と私は思う。廣松渉を、単なる哲学研究者という学者にとどまりえず、実践的な「革命家」たらしめたものは、マルクス主義という革命思想や哲学の理論だけではない。それを知るためには、廣松渉の生い立ちや家庭環境、育った風土などが、問題になるだろう。現に、廣松渉は、母親の影響で、高校生時代に共産党に入党し、共産党員になったという。
高校時代は政治活動の延長でストに参加し、退学処分を受けている。以後、廣松渉は、変わることなく、マルクス主義者、共産主義者として成長していく。廣松渉には転向ということはありえない。




ここで、もう一度、「思想の土着化」や「思想の存在論化」について簡単に説明しておこう。「思想の土着化」とは何か。「思想の存在論化」とは何か。あるいは「思想の内在化」とは何か。それは、思想が、その人にとって、「生き死にの原理」と直結しているということである。では、「思想が、その人にとって、『生き死にの原理』と直結している」とは、どういうことか。
たとえば、思想は思想であり、その人の生活や人生とは関係ない、と考える人も少なくない。だが、そういう人は、危機的状況に追い込められると、すぐに、今まで信じてきた思想を捨てたり、別の思想に乗り換えたりする。つまりすぐに「転向」する。土着化した思想や存在論化した思想では、そういうことは滅多に起こりえない。たとえ、獄中につながれ、転向を迫られても、思想を捨てることはない。どちらかというと、極端な場合には、転向より死を選ぶ。その意味で、宗教に近い。思想が、「生き死にの原理」と直結しているとは、そういうことである。

私は、桜井誠の思考や思想も、この「思想の土着化」や「思想の存在論化」を通過して成り立っていると考える。それ故に、桜井誠の思想と行動は侮りがたい、と。

桜井誠の『在特会とは「在日特権を許さない市民の会」の略称です』という本の冒頭は、「朝鮮学校の抗議活動に対して約一二〇〇万円の賠償判決」という話から始まっている。平成二十五年十月七日、京都地裁から一二〇〇万円の賠償判決を受けたというのだ。桜井誠は、この賠償判決から逃げるのではなく、堂々と受け止め、控訴し、最終的には、全額を支払ったようだ。この話を読んで、 私は、桜井誠等の市民運動が、どれだけ世間の顰蹙をかおうとも、彼らの中では、「本気」だと思った。そして、桜井誠の「思想」は、中身はどうであれ、彼が本気で思考し、信じ、且つ主張しているのだ、と私は理解した。

桜井誠はたしかに「ネット右翼」の一人だろうが、しかし単なる平凡な「ネット右翼」ではない、と。それは、桜井誠が、政治や思想というものを、単に情報や知識の暗記や受け売りとしてではなく、「生き方の根本問題」と直結した問題として、突き詰めて考えていると思ったからだ。

何回も繰り返すが、私が言う「思想の土着化」や「思想の存在論化」とは、「思想家の生き方」に深くかかわっている。「生きるか死ぬかの問題」として思想問題や政治問題を考えることができるかどうかということである。私は、桜井誠の言動や思想内容に全面的に賛成というわけではない。しかし、私は、小市民的価値観から見れば、明らかに「」反社会的」である桜井誠の言動と立ち居振る舞いの中に、その「生きるか死ぬかの問題」を見出した。私が、桜井誠を、平凡な「ネット右翼」と区別し、あえて「存在論ネット右翼」と呼んで擁護するのは、ここに根拠がある。


安田浩一の『ネットと愛国』を読んで、私は桜井誠が嫌いにはならなかった。むしろ、桜井誠という人物を見直した。安田浩一は、桜井誠や彼がリーダーをつとめる在特会を、終始、批判的に、且つ否定的に書いていたが、しかし、私には、まったく逆な読後感を与えた。私は、桜井誠に肯定的な興味を持ったのである。私は、桜井誠を通して、「思想の土着化」や「思想の存在論化」を考えたのである。思想や理論だけではなく、桜井誠という人間への関心と興味が深まるにつれて、桜井誠廣松渉が、ダブって見えるようになってきた。
桜井誠廣松渉。それぞれ、全く違う世界の人であり、思想的に密接な関係があるとは思えなかった。しかし、私の中では、二人に「共通するもの」が見えてきたのである。それが、本書のテーマでもある「思想の土着化」、あるいは「思想の存在論化」という問題であった。

廣松渉は東大教授であり、高名なマルクス主義哲学研究者である。一方、桜井誠は、「民族差別的言動」や「ヘイトスピーチ」で知られた反社会的人物と思われている人物である。逮捕されたこともある。裁判も抱えている。誰が見ても、廣松渉桜井誠が似ているとは思わないだろう。
しかし私は、安田浩一の『ネットと愛国』を読んで、桜井誠が、世間の評価とは違うと確信した。桜井誠という男を見直し、ちゃんと向き合ってみなければならないと確信した。世間の評価などどうでもいい。私は私の直感を重視した。つまり、安田浩一の『ネットと愛国』で、桜井誠の故郷が北九州の旧炭鉱町であり、しかも母子家庭で育ったということを知り、すぐに、廣松渉を連想したのである。
安田浩一の『ネットと愛国』には、健全な、小市民的価値観はあつても、思想的問題はない。つまり、安田浩一は、世間的な、小市民的価値観にどっぷりと浸かっている。あるいは左翼小児病的価値観に染まっている。私は、そういう「健全な思想」は大事だとは思うが、しかし、なんの関心も興味もない。思想的な根本問題は、健全な思想では測りきれない。

さて、私は、ここまで、佐藤優の『廣松渉論』を参考に、廣松渉を論じ、同時に桜井誠を論じてきた。そこで、ここで、私の中で、廣松渉桜井誠を結びつける役割をした佐藤優について見ておこう。佐藤優こそ、「思想の土着化」や「思想の存在論化」を生きてきた思想家であり、作家である。
佐藤優がわれわれの前に現れたのは、偶然である。佐藤優は、それまで外交官として働いていたが、小泉純一郎政権時代に起きた「鈴木宗男事件」の余波を受け、東京地検に逮捕され、約一年間の拘置所生活を余儀なくされ、そこから保釈されて出てきから、『国家の罠』や『獄中記』などで、作家活動を開始した。
佐藤優の言論・思想活動は、逮捕事件と切り離せないが、しかし、逮捕事件に限定されるものでもない。おそらく逮捕事件がなければ、佐藤優は、言論・思想活動はあり得なかっただろうが、しかし佐藤優の思想・言論活動には、逮捕事件を超えるものがある。この、「逮捕事件を超えるもの」が、佐藤優における「思想の土着化」や「思想の存在論化」であるように見える。