文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

石原慎太郎は、いつ、どのように転向したか?

現在の石原慎太郎は、初期の石原慎太郎と見比べてみると、明らかに思想的にも、人間存在としても、大幅に転向したように見えるが、それでは石原が転向したとすれば、いつ、どのように転向したというのであろうか。やはり石原が転向したのは、作家から政治家に転向し、人気取りとはいえ、『スパルタ教育』というような低俗な書を書き散らすようになったあたりからではないだろうか。今、僕は、手元に、石原が参加した座談会が掲載された新旧二つの雑誌を持っているが、たとえば新しい方の座談会で、石原は、村上龍綿矢りさを前にして、芥川賞受賞当時を振り返って、こんなことを言っている。「あの頃覚えているのは、芥川賞より先に文学界新人賞をもらって、直後に書いた作品で原稿料が入ったんですね。一枚四百円か五百円だけど、今の十倍以上の値打ちがあった。それで僕はおふくろに電気洗濯機を買ってあげた。父が亡くなって、弟は不良学生だったし、母は一人で苦労していたからね。」。すると村上龍が「いい話ですねえ」と応じ、ふたたび石原はこう言ってている、「いい話だろ(笑)。おふくろは、『この子はお父さんがしてくれるよりももっといいことをしてくれた』って喜んでいたよ」。これは、「我らが青春の芥川賞を語ろう」という三年前の「文藝春秋」(2007/3)の座談会での発言だが、この発言は、現在の「石原慎太郎」の本質を象徴的に示しているように、つまり、今や「石原慎太郎」は「マイホーム作家」「マイホーム政治家」に成り下がっているように、僕には見える。むろん、育ててくれた母親に電気洗濯機を買って上げたということ、つまり小市民的な「親孝行」を闇雲に否定しているのではない。しかし、おそらく、若き日の石原ならば、決してそういう発言をしなかっただろうし、しかもそういう発言をすることを恥と感じていただろうというまでのことだ。要するに現在の石原は、かつての虚無的、実存的な、危険な作家から大幅に後退、転向し、今では言動は過激だが、その存在本質は人畜無害な、小市民的な健全な作家に成り下がって、それに満足しているということだ。少なくとも、三島由紀夫大江健三郎等が、そういう文章を書いたり、発言したりするとは、僕には到底、考えられない。ところで、この座談会で、村上龍もこういう発言をしている。「僕も、群像新人賞をもらったときに、高校、大学とさんざん悪さをしてきたから、受賞の言葉に、『両親の銀婚式のささやかなプレゼントになればいいと思う』と書いたんです。そしたら、『文学というものは、親孝行のためにするものじゃない』と、叩かれちゃった。あの頃はまだ書くことで家族が崩壊しても仕方がないぐらいギリギリのところで書くのが文学なんだ、という人がいた時代で。僕、バカだなあと思いました」。すると石原は、「あなたの時代でも、そんなバカなことをいう奴、いたかねえ」と付言しているが、僕は、石原慎太郎村上龍はともに若くしてデビューした才能ある作家ではあるが、作家としての限界も明らかだと思わないわけにはいかない。「作家は家族を崩壊させなければ本物ではない」等というのは倒錯した論理だが、「文学や思想を極限まで問い詰めれば、家族や生活を破綻させ、破壊することになるかもしれない」という原理原則は、今でも昔でも変わりはない。作家や思想家の生き方として、文学や思想を深く追求していくあまりに、家庭や家族を犠牲にすることがしばしば起こるが、それが間違っているとは僕は思わない。かつて僕が慶応大学の学生だった頃、「三田文学会」会長であった晩年の石坂洋次郎が、同じ東北出身の「破滅型作家」の太宰治や嘉村磯太等の生き方を批判しつつ、「生活第一、文学第二…」というような能天気な自慢話を延々としたことがあって、深く絶望したものだが、石原慎太郎村上龍の話も、石坂洋次郎レベルの話だと思って間違いない。いずれにしろ、親孝行をし、家庭円満で健全な生活をし、健康に気を配り、長生きしたい人はすればいい。しかし作家や思想家としては、親孝行や親馬鹿ぶりを公言し、それを得々として自慢するようではお仕舞いである。自決し、結果的に家庭を破壊した三島由紀夫江藤淳、古くは芥川龍之介太宰治等のような文学者たちを、おそらく「バカな奴だ」ぐらいにしか考えられなくなった石原慎太郎が、健全な生活者としてはともかくとして、もはや作家としては使い物にならなくなっていることは明らかだが、それは、当然のことだろうが、石原は気づいていないかもしれないが、政治家としても使い物にならなくなっているということでもあるのだ。言い換えれば、石原慎太郎が「小沢一郎」になれなかった理由は、そこにある。さて、石原慎太郎について何か書こうと思い、石原の著作を探してみたのだが、かなりの本があるはずなのだが、処分した覚えはないのに、何処を探しても見つからない。たまたま古い「文学界」(昭和34年10月号)が見つかったので、ページをめくって覗いてみると、石原も、デビューしたばかりの大江健三郎浅利慶太等も出席している「怒れる若者たち」という有名な座談会が見つかった。そこで、石原は、「人を殺したい」と言い、芸術至上主義を批判し、政治的行動への意欲を語っているが、いったい、何を語りたかったのだろうか。この頃の石原慎太郎が、この頃も実際には親孝行をしていたのだろうが、しかし「親孝行」を公言し、それを自慢し、満足するような小市民的な作家だったとは思えない。その頃の石原は、もっと虚無的で、破壊的な、反市民的な作家だった。まだ一橋大学在学中の学生であった石原が、戦後史に大きな足跡を残すことになる「石原慎太郎ブーム」や「太陽族ブーム」なる社会現象を巻き起こすことが出来たのは、言うまでもなく「親孝行」に熱心な、「家族思い」の長身の好青年だったからではない。繰り返すが、石原の初期作品、たとえば『処刑の部屋』『完全な遊戯』等が示すように、かつて日本人が目にしたことのないような、「深く、底知れない、恐るべきニヒリズム」を体現した存在だったからである。日本人の多くが、実はその石原が体現した「底知れない虚無感」に恐怖し、嫌悪すると同時に、深く感動し、共感したのである。(続)


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