文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

石原慎太郎も耄碌したな?「小沢問題」の本質が何であるかがまったく分かっていない。「検察の暴走」「マスコミのリーク報道」「米国の植民地支配」…が見えないのか。小沢に「政治とカネ」問題で辞職勧告するなら、石原の「政治とカネ」、つまり「新銀行東京」や「オリンピック誘致失敗」、「水谷建設・石原親子料亭接待」…はどうなるのか。「お前が先に、さっさと、バカ息子たちを引き連れて辞職・引退しろよ!!!」(笑)と叫びたくなる、今日、この頃であった。

僕は、元来、自民党支持者である。小泉・竹中改革なるものに遭遇して、自民党支持を止めた。自民党こそ「悪しき革新政党」に堕落してしまったと判断したからだ。そしてその考えは、今も変わらない。昨年、突然、大島理森幹事長から石原ノブテル幹事長に代わったが、何故、突然、交代しなければならないのか、僕には腑に落ちなかった。それ以後、石原ノブテルという政治家の貧相な、ひきつったような顔を見るたびに、自民党に絶望せざるをえない。さて、その石原ノブテルの「親馬鹿」、石原慎太郎が、日曜日のテレビにはしご出演して、ピンとはずれの政局論を、ゴマスリ役の司会者やインタビューアーを相手に、得々と喋り続けていたが、やはり「耄碌し始めたな」と思わないわけにはいかなかった。とりわけ、パソコンや携帯を目の敵にして、最近の若者文化やネット文化を批判・罵倒する姿を見て、これは哀れな老人の「負け犬の遠吠え」にすぎないと判断せざるをえなかった。僕は、漫画にまつわる表現規制の問題にまったく無関心だが、石原が、最近の漫画やアニメの表現における近親相姦問題や、女教師が生徒と結婚する問題を取り上げて、漫画批判やアニメ批判をしていたのには唖然とした。そもそも、『オイディプス王』や『源氏物語』を持ち出すまでもなく、文学の原点は近親相姦である。それとは知らずに母親と結婚し、子供を設けるという話が『オイディプス王』であり、父親(桐壺帝)である天皇の后(義理の母親、藤壺)と不義密通の上で、子供(薫、後の冷泉帝)を設けるというのが『源氏物語』である。本居宣長は、『古事記』を正確に理解するためには、、直接『古事記』に向かわないで、まず不倫小説である『源氏物語』から読めと言っているが、その本居宣長の真意は、倫理道徳という固定観念に雁字搦めになったような読み方では、『古事記』の本質は、つまり「物のあはれ」や「やまとごころ」は読めないということであった。つまり『源氏物語』を読んで、小説や物語を読むときの読み方に習熟してから、『古事記』を読めということである。さて、僕は、倫理道徳という固定観念を振り回すしかなくなった石原の話を聞きながら、いまだに「芥川賞選考委員」の職にしがみついて、老醜を曝し続けていなければ、作家というプライドを保てなくなっている老作家の哀れな姿を想像して、ひそかに同情せざるをえないな、と思った。ちなみに石原の最近の小説やエッセイは読むに堪えないようなシロモノである。たとえば、大江健三郎の小説やエッセイと比べられるようなシロモノではない。中川一郎亡き後、派閥を引き継いだにもかかわらず、それさえも維持できず、政界引退に追い込まれ、要するに政治家として失格し、「芥川賞選考委員」としてしか生きる道はなくなった石原慎太郎だったが、当然のことではあるけどもが、文学者、作家としても失格者である。本人は気付いていないかもしれないが、「ノーベル賞作家」として世界的に活躍する大江健三郎とは雲泥の差である。それは、政治思想のイデオロギー性や政治的党派性の問題とはまったく関係ない。僕は、政治思想的には、保守反動、右翼、国家主義的な石原に近いかもしれないが、残念ながら、作家としても思想家としても大江健三郎を尊敬している。(続)


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