文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「SAPIO」編集部よ、小林よしのりの「アイヌ論」は大丈夫なのか?


人気ブログ・ランキング(政治)に参加中!!! 一日一回、クリックお願いします。
■コメント欄■ コメントは、コチラへ。



小林よしのりが、「パール論争」や「沖縄論争」で追い詰められたのか、あるいは、これ以上、論争を継続していると形勢不利とみたか、そこから逃げるべく、中国による「チベット弾圧問題」を、漫画「ゴーマニズム宣言」(「SAPIO」)の、あるいは小林よしのり編集の雑誌「わしズム」次のテーマに予告したのは、ついこの間のことだったが、北京オリンピックも終わり、中国問題がすっかり色あせてしまったからだろうか、予告していたチベット問題など忘れてしまったのか、今度は、「SAPIO」連載の「ゴーマニズム宣言」の、あるいは「わしズム」のテーマは「アイヌ問題」なのだそうである。しかも中身は、日本政府のアイヌ民族に対する「同化政策」、ないしは「民族浄化政策」の美談化と正当化だという。チベット問題の漫画では、おそらく中国政府のチベット民族(国家)に対する「同化政策」と「民族浄化政策」の告発と批判が中心となるはずだったが、それが、日本のことになると、その同じ「同化政策」と「民族浄化政策」が、何の疑いもなく、「美談」になるのだから、まったくいい加減なものである。はたして、こんな分かり切ったダブル・スタンダードで、いいのか、と心配になるが、小林よしのり本人は、まったく意に介していないらしく、つまり、そもそも、「同和」とか「民族浄化」による異民族支配や統一・一体化・国民化とは何かを、まったく理解していないらしく、「さらに幕府は、女性の入墨や、死者が出たら家を焼いて他に移るといつた習俗をやめるよう推奨。耕作を教え、教育を行なって和人に同化していく政策を採った。……」「明治政府は全ての児童に学校教育を課す方針を立て、アイヌ児童もその対象となった……」「入浴の習慣がないアイヌ児童も学校で風呂に入れ、その習慣を付けさせるのは相当に大変なことだったという……」などと、むしろ逆に小林よしのりは、意気揚々と、日本政府の「同化政策」や「民族浄化政策」を美化し、擁護するのである。アイヌに対する日本語教育アイヌに対する日本式の近代的な生活の確立、徴兵令の実施……。つまりアイヌ語の禁止・抑圧、アイヌの文化や生活習慣の禁止・抑圧、アイヌの日本帝国軍人化……。しかも、驚くべきことに、小林よしのりは、「そもそもアイヌは民族なのか」と問いつつ、「ゴーマニズム宣言」(「わしズム」)で、こんなことを書いている、「『アイヌ民族』が統一政権の下に統一文化を育んでいたわけではない。」つまり、アイヌは、一民族集団として統一した民族ではなかったし、国家的形態をとったこともなかった。要するに、「一民族集団としての『アイヌ民族』というものは歴史上存在しない。」と。さらに、小林よしのりは、「アイヌ」と「和人」は、古くから「交流」し、「混交」し、「和風化」していたので、アイヌは「先住民族」とも呼べないのではないか、と言う。小林よしのりは、「『先住民族』の定義……」について、次のように書いている。

何よりも問題なのは「先住民族」の定義である。国会決議はその冒頭で、昨年9月の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に言及しており、この「国連宣言」の基準で「先住民族」と判断することになるのは明白だ。
その「国連宣言」では「ジェノサイド(集団虐殺)」や「先住民の子どもの引き離し」などに反対する集団的権利だの、「エスノサイド(民族根絶)や文化的虐殺に晒させない権利」が謳われている。
つまりそこに想定された「先住民族」とは、食糧の鯨を乱獲され餓死に追い込まれたイヌイット、一千万人口の9割近くを殺害された北米のインディアン、戦前まで「狐狩り」と称してハンティングされていたアポリジニなどである。
国連宣言はこれらの残虐行為に反省を促し、損なわれた権利の復活と補償、および法の下の平等を要求している。

北米インデアン、アボリジニイヌイットと同様に語るべきなのはアイヌではなく、チベットである。
中国はそれまで漢民族との混交がなく、しかも国として独立していたチベットに侵入し、ジェノサイドやエスノサイドを繰り広げ、今も続いている。

小林よしのりが考える「民族」「先住民族」の定義とは、「それまで漢民族との混交がなく、しかも国として独立していたチベット……」という文章から推察するに、他の民族(征服民族)との「混交」がなく、「国として独立していた……」ということが基準になっているらしいことがわかるが、こういう基準で考えるならば、たしかにアイヌが、民族なのか、あるいは先住民族なのか、と言うとかなり怪しくなるかもしれないが、しかし、そもそも、そういう定義は、小林よしのりが、「国連決議」から推測(?)したものに過ぎないわけで、たとえば、そういう基準で言えば、北米インデアン、アボリジニイヌイットは、常識的には先住民族ということにはなっているわけだが、はたして「国として独立していた……」のかどうかという点になると、北米インデアン、アボリジニイヌイットもかなり怪しくなる。むろん、それらの民族が、民族として団結し、統一国家を形成していたはずない。先住民族と言いながらも、各種族に分かれて、それぞれの集団を形成し、地域的に独立して生活していただけのはずである。もしそうなると、彼等もまた先住民族とは言いがたいということになりかねないわけで、かくして、小林よしのりが、「アイヌは民族ではない」「アイヌ先住民族ではない」という時、その前提的論理は、もろくも崩れさるはずである。いずれにしろ、小林よしのりの「先住民族論議は、植民地支配を正当化し、合理化する論理としてよく使われる「朝鮮や台湾に教育の普及や社会的インフラ整備等の『いいこともした』……」という帝国主義的自己正当化の論理の素朴な模倣・反復にすぎないわけで、要するに、小林よしのりの「アイヌ論」は、学問や思想とは無縁の居酒屋オヤジの低次元の法螺話の類に過ぎない。むろん、中国政府のチベットの占領、同化、民族浄化政策においても、教育、鉄道、社会的インフラの整備……等、「いいこともしている」のである。したがって論理的に考えれば、つまりこれは皮肉で言うのだが、小林よしのりは、日本政府のアイヌ政策を美化し擁護するならば、当然、中国政府のチベット弾圧も、チベット支配も、そしてその民族浄化政策も美化し容認すべきである。むろん、これは冗談ではない、本気で言うのである。マンガ右翼・小林よしのりの思想的レベルの低さと思想的貧弱さが露呈し、「いよいよ、マンガ右翼・小林よしのりも、年貢の納め時だな」と思わせるのが、今回の「アイヌ論」であることを、誰もが認めることだろうが、それにしても、マンガ右翼・小林よしのりごときが捲し立てる子供だましの屁理屈に押し捲られて、ろくに論理的に反論らしい反論もできずに、ひたすら逃げている昨今の日本の論壇の面々って、いったいどういう人種なのか。情けない限りである。



人気ブログ・ランキング(政治)に参加中!!! 一日一回、クリックお願いします。
■コメント欄■ コメントは、コチラへ。