文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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曽野綾子と沖縄集団自決事件(2)


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亀山郁夫新訳のドストエフスキー罪と罰』が近いうちに出るらしいということは聞いていたが、それがいつなのかは、つまり今年中なのか、来年なのか、あるいは再来年なのか、正確には、よく分からなかったわけだが、先日、立ち寄った本屋で、偶然に亀山新訳の『罪と罰』第一巻を見つけたときは、ちょっと興奮した。第一巻だけとはいえ、こんなに早く出るとは思っていなかったのだ。清水正日大芸術学部教授の話では、『罪と罰』のタイトルは、厳密に字義通りに翻訳すれば、『犯罪と刑罰』とすべきなのだが、ドストエフスキーを、明治時代に最初に、英語版から翻訳した内田魯庵の「名誤訳」以来、『罪と罰』のタイトルが定着し、『罪と罰』というタイトルは一度も変更されることなく、つまり「正しい翻訳」がされることもなく、現在まで続いているらしい。というわけで、亀山新訳の『罪と罰』のタイトルが、どうなるのかも、楽しみにしていたのだが、『罪と罰』のままだったので、安心すると同時に、亀山郁夫なら何かとんでもないことをやってしまいそうな期待があったので、ちょっとがっかりした。ともあれ、内田魯庵訳に続いて、初めてロシア語から翻訳をした中村白葉訳、小林秀雄等に決定的な影響を与えた米川正夫訳、最近の原卓也訳、江川卓訳、工藤精一郎訳、小沼文彦訳、池田健太郎訳等の『罪と罰』に続いて、亀山新訳が新たに『罪と罰』翻訳の歴史に追加されたわけで、言わば、『罪と罰』の新しい歴史が始まることになる。僕が、学生時代に読んだのは、主に米川正夫訳と池田健太郎訳であったが、不思議なもので、一度読んだ翻訳の語彙や文体は、一種の定番として、自分の身体の中に、皮膚感覚的に残っているらしくて、それより別の新訳などに出会うと、かなり激しい抵抗を感じる。僕の場合、現在、最も簡単に手に入り易い江川卓訳(岩波文庫)や工藤精一郎訳(新潮文庫)の『罪と罰』がそうで、どうしても、すらすらと読み続けることが出来ない。今回の亀山新訳の『罪と罰』はどうだろうか、僕の皮膚感覚に合うのだろうか、と考えながら読んでいるところだが、やはり次の場面、「女中」のナスターシャとの重要な会話などに、池田健太郎訳もそうだったが、ちょっと違うのではないか、と若干の抵抗を感じる。

「……前は子どもの家庭教師に行っているって言ったけど、いまはどうして何もしないのさ?」
「しているさ……」ラスコーリニコフは、気が重そうにそっけなく答えた。
「何をしているのさ?」
「仕事さ……」
「なんの仕事よ?」
「考えごとだよ」しばらく黙ったあと、彼はまじめな調子で答えた。
ナスターシャはぷっと吹きだしてしまった。

この場面の「考えごとだよ」というラスコーリニコフの返事の言葉に、僕は若干の違和感と言うか、ちょっと違うんじゃないか、ちょっと軽すぎるんじゃないか、それでは肝心の意味が伝わらないじゃないのか、と思うのだ。僕は、ここを、「考えごと」ではなく、「考えるという仕事……」という意味とニュアンスで理解しているので、「考えごとさ……」では、「考えるという仕事……」の意味とニュアンスが伝わらないように思うのだ。『罪と罰』というタイトルの持つ宗教的な意味が、『犯罪と刑罰』では伝わらないように、それ故に、『犯罪と刑罰』というタイトルが字義通りには正しい翻訳であるにもかかわらず、内田魯庵以来、『罪と罰』を翻訳する者たちが、誤訳であると知りつつも、『罪と罰』という「誤訳」に依存しなければならない理由も、ここに、あるのだ。特に、マルメラードフの独白の場面は、わかり易く、明解であるが、さらに例のマルメラードフの「私が豚でないと断言できますか?」という意味深なセリフが、亀山郁夫の新訳では正確に訳されているところを見ると、「豚であると断言できますか?」と訳している工藤精一郎訳(新潮文庫)は典型的な誤訳ということは明らかで、しかもこの部分は、小説全体の理解の上からも、どうでもいい誤訳ではないわけで、文藝出版の老舗で、校正にウルサイと評判の新潮社が、小説全体の読解にも影響する、こんな決定的な誤訳をそのまま放置して知らんぷりしているのが不思議である。ところで、今日、僕が、このブログで書こうとしているのはドストエフスキーのことではなく、昨年末以来、僕がしつこく追及している「曽野綾子と沖縄集団自決事件」のことなのだが、実は、「曽野綾子と沖縄集団自決事件」に僕が興味を持ち始めた本当の理由は、「沖縄集団自決」をテーマにした『ある神話の背景』における曽野綾子の「欺瞞性」や「偽善性」、あるいはテキストの「誤読」や「誤字」を告発し、曽野綾子や『ある神話の背景』を理論的に、あるいは道徳的に批判することにあるのではない。驚くかもしれないが、僕が、曽野綾子の『ある神話の背景』を夜も眠らずに夢中になって読みふけったのは、そこに、ドストエフスキーの小説にも似た「極限の問題」があったからなのだ。僕は、「遠来の客たち」以来の曽野綾子の小説にほとんど興味がなく、じっくりと腰をすえて読むことが出来ない。正確に言えば、小説としてまったく評価していないがゆえに、興味もないし、読むことも出来ないのである。しかし、この『ある神話の背景』だけは別である。僕は、この『ある神話の背景』という作品を、曽野綾子の最高の文学作品として高く評価するが故に、熟読、再読、三読……することが出来るのだと思う。つまり、この作品の中には、ドストエフスキーの『罪と罰』にも匹敵する「殺人哲学」なるものが描かれており、それを「肯定」する曽野綾子の「文学魂」のようなものに、僕は引かれるのだ。つまり、いかなる理由や根拠があるにせよ、平凡な民間人を平然と殺し、それに対して、何の罪悪感も、良心の呵責も感じない人間としての「赤松嘉次陸軍大尉」を、その「戦中日誌」という資料に基づいて、馬鹿正直に描き、擁護し、賛美しているという点で、僕は、文学的き関心を持つのだ。それ故に、僕が、曽野綾子を激しく批判するのは、道徳的、倫理的理由からでもなく、あるいは人間的な理由からでもない。僕にも厳密にはわからないが、もっと複雑な、微妙な心理的な理由から、僕は曽野綾子を批判する。たとえば、僕は、曽野綾子が、肝心な場面で、キリスト教の「神」を持ち出してくることに、強烈な違和感と抵抗感を持つ。こんなところに、キリスト教の「神」などを、たとえ曽野綾子カトリックの熱心な信者であろうが、なかろうが、持ち出してくることは、ルール違反だろうと思う。たとえば、『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)において追加・加筆された「新版まえがき」にあるのだが、イスラエルの「マサダの集団自決」と「沖縄渡嘉敷島の集団自決」を比較して、「沖縄渡嘉敷島の集団自決」も「マサダの集団自決」のように、民族的「美談」にするべきだというような書き方に、僕は、キリスト教の信者かどうかを度外視しても、強烈な違和感を持つ。そもそも、イスラエルの「マサダの集団自決」と「沖縄渡嘉敷島の集団自決」とでは、隊長(指揮官)が生き残っているかどうか、という点からも明らかなように、この二つの「集団自決」事件は、決定的に異なる種類の事件であって、比較するのも不自然であって、「沖縄渡嘉敷島の集団自決」の事件としての本質は、隊長(指揮官、兵士)が生き残って、敵軍たる米軍に投降しているにもかかわらず、住民には投降も捕虜も許さず、それ故に住民が、多数、死んでいるという厳然たる事実にある。もし、隊長(指揮官)である「赤松嘉次陸軍大尉」が、渡嘉敷島の全権を握る指揮官としての責任を感じて自決するなり、特攻攻撃によって戦死するなりしていたら、この事件そのものが、事件としては、ありえなかったかもしれない。ともあれ、ドストエフスキーの『罪と罰』においても、キリスト教の「神」が、重要なテーマになっているが、しかし、ドストエフスキーは「神」を、曽野綾子のように、「殺人哲学」の擁護として使ってはいない。ドストエフスキーは、キリスト教の「神」そのものを問い詰めている。ドストエフスキーは熱烈な信仰者であるが故に、無神論者となり、無神論者であるが故に、「神」を激しく求めていた。「『神』が存在しないとすれば、すべてが許されている……」、「真理がキリストの側にないとしても、私はキリストとともにいたい……」と言ったドストエフスキーには「神」が見えていたはずであるが、曽野綾子には「神」が見えていただろうか。僕が、曽野綾子を批判するのは、曽野綾子が持ち出すキリスト教の「神」を、ドストエフスキーと同様に、厳しく問い詰めるためであるのかもしれない。(続く)




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★「麻生太郎総理邸見学ツアー」で三人が逮捕……事件の映像と記者会見。
http://jp.youtube.com/watch?v=V6X0rVVUMY8&NR=1