文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

沖縄独立論とは何か。

小林よしのりが、小生や、あるいは小生と佐藤優氏の沖縄問題をめぐる対談を批判するつもりで、「わしズム」(5/16、春号)で問題提起しているのが「沖縄独立論」だが、小林よしのりは「沖縄独立論は沖縄市民の間には存在しない、それは一部の沖縄極左マスコミが煽り、一部インテリが居酒屋で語るだけの与太話にすぎない……」という趣旨のことを言って、いわゆる「沖縄独立論」を「居酒屋独立論」と嘲笑し、そしてその論調に同調するかのような言論を沖縄マスコミで展開する小生(山崎行太郎)や佐藤優氏等を、名指しはしていないが、わざわざ「月刊日本」に掲載された顔写真をマンガの中にそのまま引用して、いったい誰を相手に批判しているかが分かるようにした上で、密かに小生等(山崎行太郎)を、揶揄・罵倒しているが、小林よしのりが、こういう「卑怯な書き方」をするのは、あるいはこういう「卑怯な書き方」でしか小生等を批判できないのは、小林よしのりが、この沖縄問題自体に、自信が無くなったからであり、要するにこの問題から逃げているからにすぎない。「居酒屋独立論」という言葉は、元沖縄大学学長の新崎盛暉氏が、日本政府の財政援助に依存しつつ、沖縄独立を語る一部の沖縄インテリの「甘え」を批判した言葉だが、これは、沖縄独立論なるものが決して荒唐無稽な空理空論だということを言ったのではない。小林よしのりの発言とは逆に、沖縄問題が、異民族問題と民族独立の問題を内包し、且つ、その延長上に沖縄独立という問題を内包していることは、それに賛成するか賛成しないかは別としても、自明である。アメリカの日本問題研究者・チャルマーズ・ジョンソンの「沖縄論」でも見たように、沖縄に米軍基地が集中し、未だに沖縄が実質的には米軍に占領されている状態を放置し、すべての余計な問題をカネで解決すればそれでよいと考えているのは、日本政府が、沖縄と沖縄住民を、意識的か無意識的かはともかくとして、正式の日本国民としてではなく、一種の国内異民族として差別し、蔑視しているからである、という解釈も、決して荒唐無稽なものではない。われわれ「日本国民」が、沖縄住民を「同胞」として見ているならば、沖縄だけで老人や子供たちをも巻き込んだ本土決戦が行われ、また戦後は長く沖縄が米軍と米国の支配下に置かれたままに放置され、そして「沖縄返還」後も在日米軍の大半が沖縄に居座り続けているという現実を直視し、反省すべきであるが、ところが現実はまったく逆に、沖縄マスコミは「全体主義」だとか、沖縄は「閉鎖的」だとか、あるいは沖縄県民は基地問題でゴネればカネが出ることを知って、要するにゼニカネを欲しがっているだけだろう……という、いわゆる曽野綾子小林よしのり渡部昇一の「沖縄蔑視」の言説とまなざしが、東京のマスコミを中心に、幅を利かすのは、その具体的実例であると言ってもよいだろうと思う。さて、「沖縄独立論」の方だが、これは小林よしのりが批判・罵倒するように、決して「居酒屋独立論」というような、荒唐無稽な空想の産物ではなく、きわめてリアルな、政治的、思想的、そして民族的な問題なのである。現に、日本政府は、先日の新聞情報によると、洞爺湖サミットを前に、アイヌという日本列島の先住民族の民族問題を取り上げようとしているわけで、つまり、アイヌ民族は、いわゆる現日本人としての大和民族とは異なる異民族であり、しかも彼等アイヌ民族は日本列島の「先住民族」だったという事実を、法的にも、そして法的手続きや対策の上でも、国会決議として認めようとしているのである。われわれは、アイヌ民族の存在は知っているが、それが具体的な政治問題や思想問題に直結するとは、おそらく感じていないはずで、今頃、何故、アイヌ問題を日本政府が取り上げるのか、不思議に思う人が少なくないだろうと思う。われわれ「日本国民」は、決して「単一民族」なのではなく、少なくとも「アイヌ民族」という異民族を内包し、いわゆるアイヌ民族という異民族の「日本国民化」という「民族浄化」を継続的に試みてきたと言う歴史を持っている。もし、今、話題のチベット問題だが、「異民族」故に、つまりチベット民族は歴史も文化も宗教も「漢民族」とは異なるという思想的根拠に基づいて、つまり「民族独立論」に基づいてチベットは「独立」すべきだという「チベット独立論」を主張するならば、その論理を論理的に推し進めていくと、現実性はほぼゼロに近いとはいえ、少なくとも論理的には「アイヌ独立論」もまた成立しないわけではないのである。われわれは、軽々しく「民族独立論」を語るが、ことは、そんなに簡単な問題ではない。そもそも、ほぼあらゆる国家が「単一民族国家」ではないのである。ところで、アイヌ民族の「民族浄化」が、われわれ日本国民の内部では、ほぼ完了しているが故に(?)、「アイヌ民族独立」という問題が、一時、太田竜等、左翼過激派の一部が組織した「アイヌ独立運動」としての道庁爆破事件等が話題になった事もあるが、それ以外に話題にもならないのとはまったく反対に、「沖縄独立論」は、「居酒屋独立論」として揶揄され批判されようとも、厳然として存在する政治的、思想的主張の一つであり、はるかに現実性と具体性のある政治・思想問題として存在している。ところが小林よしのりは、こう書いている。

沖縄の極左マスコミには、時々「琉球独立」を主張する学者や識者の意見が掲載される。これは復帰後から「居酒屋独立論」と言われていた。本土の知識人には馬鹿な奴がいて、「沖縄の心ある人には、独立論を唱える人もいる」などと書いていたりする。そしてこの「居酒屋独立論」を心配して、沖縄の新聞で偽善的なコビを売る論文を書く者もいる。極左の運動家に騙されているだけに過ぎないのだがね。猫撫で声で沖縄マスコミに擦り寄る、偽善的な本土の知識人が、益々、沖縄の全体主義を強固にしていく。(「わしズム」2008/5/16、25ページ)

小林よしのりは、沖縄独立論が空理空論であり、沖縄住民の間にまったく存在しないと勝手に空想するが故に、誤解だらけの「居酒屋独立論」という言葉を、得意げに振り回し、沖縄県民よ、独立したければ独立してみよ……とでも言うかのように、居直って、居丈高に「沖縄マスコミは全体主義だ……」というような言説をふりまわすことが出来るのである。だが、沖縄独立論とは、それほど荒唐無稽な空理空論だろうか。小林よしのりが知らないだけではないのか。そもそも「居酒屋独立論」とは何か。その言葉を最初に使ったのが元沖縄大学学長の新崎盛暉であることを、小林よしのりは知っているのか。また、新崎盛暉なる人物が、どういう人物だったかを、知っているのか。おそらく、誰かから聞きかじった正体不明の怪しい噂話を真に受けて、それこそ居酒屋あたりで仕入れてきた与太話を信じ込み、「復帰後から『居酒屋独立論』と言われていた。」と、自信満々に書くのである。「居酒屋独立論」という言葉が流行ったのは、1990年代であり、それを言い出したのは、「反戦地主」運動のリーダーとしても知られる、要するにゴリゴリの沖縄左翼活動家である新崎盛暉なのであって、新崎盛暉は、小林よしのりの解釈と受け止め方とはまつたく逆に、余りにも左翼側で「沖縄独立論」 が安易に語られ、論じられることを、強く戒める意味を込めて「居酒屋独立論」と言ったのであって、つまり沖縄独立という問題を「居酒屋」的レベルの話で終わらせるのではなく、もっと真剣に、実践活動を通じでやっていこうという意図をのもとにこの言葉を使ったのであって、「沖縄独立運動」全体を、嘲笑し、罵倒したわけではない。「居酒屋……」とは、無論、比喩的表現だが、最初の発言者の政治思想を持ち出すまでもなく、小林よしのりの理解した意味とはまつたく違っている。さて、小林よしのりは……。 (続く)
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小泉純一郎の狂態パフォーマンス。これが日本の今時の政治家の実態だ(笑)。
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