文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

宮城晴美の新装版『母の残したもの』を読むーー卑劣な裏切り者・梅澤裕の正体。





昨夜、帰宅すると、出版社「高文研」の編集者真鍋氏から、宮城晴美著の新装版『母の遺したもの』が届いていた。真鍋氏には面識はないが、僕が、このブログで、「沖縄集団自決裁判」批判として書き続けている「曽野綾子批判」を読み、僕に興味を持ってくれたらしいのだ。『母の遺したもの』は、近日中に書店の店頭にも並ぶことになるだろうから、興味のある人は、新聞や論壇誌等に氾濫している断片的なガセネタ情報を寄せ集めた「フィクション」を妄信するのではなく、是非とも、この本を手にとって自分の目で読み、自分の頭で考え、そして事の真相とは何かを判断してもらいたい。というわけで、今、いちばん読みたいと思っていた本が手に入ったので、これからこの『母の遺したもの』を読み進めながら、「沖縄集団自決裁判」について考えていくことにしたい。この本『母の残したもの』は、実は、今回の「沖縄集団自決裁判」において、「軍命令はなかった……」論の根拠となる資料の一つとして重要な存在意義を有する書物で、この「沖縄集団自決裁判」の行方にも決定的な意味を持っているわけで、是非とも手にとって読みたい本だったわけだが、その中でもとりわけこの本の中で興味深いのは、新装版用に加筆された、「なぜ≪新版≫を出したのか」というかなり長い「後書き」であろう。本書で、宮城晴美は、僕も断片的にはすでに知っていることではあるが、いわゆる「沖縄集団自決裁判」の真相や、裁判の裏事情とも言うべき「梅澤裕」という旧帝国軍人の戦後における卑劣な行動と人間性を暴き出すと共に、裁判に向かっての梅澤裕等の様々な言動や策謀等を、次々と暴きだしている。たとえば……。宮城初枝・宮城晴美母子は、本書によると、1980年、梅澤裕元隊長と手紙のやり取りをした挙句に、12月中旬に、那覇市で直接に会い、面談している。その翌日には三人で座間味島も慰霊をかねて訪問している。この那覇での面談の席で、宮城初枝は、集団自決者たちへの「遺族年金」手続きの際、関係者に言われるままに、「梅澤隊長が『玉砕命令』をくだした……」という「嘘の証言」をしたことを梅澤に謝罪し、その発言・証言を撤回し、「部隊長は玉砕命令はくだしていません……」と証言したそうである。それを聞いた梅澤裕は、「本当ですか……」と何回も念を押した上で、それを確認すると男泣きに泣き、感激に咽んだそうである。ここから、梅澤裕の「名誉回復」へ向かっての陰謀と策謀の行動が始まるわけだが、同時に座間味島における「集団自決論争」も始まったと言っていいかもしれない。言い換えれば、ここから、次々と繰り返される「梅澤裕の裏切りと仕返し」による宮城母子の苦悩が始まったとも言えるわけで、この『母の遺したもの』という書物は、座間味島住民の集団自決における帝国軍人・梅澤裕の無実を証明する書物と言うよりは、皮肉なことに、梅澤裕という卑劣な帝国軍人の生き様を、批判的に暴露するという役割を担っている書物だ。

母と梅澤氏はその後、文通するようになった。時折、地元の特産品を、つきあいのある元元兵隊達動揺、関西在住の梅澤氏にも送るようになった。ところが、梅澤氏が戦後二度目の座間味島を訪問した1982(昭和57)年、事態は大きく変わった。梅澤氏は知人から「宮城初枝さんは、座間味島の集団自決゛を隊長命令として本を出している」と、1968年発行の『悲劇の座間味島』の存在を知らされ、さらに「戦争の調査で座間味島を訪ねる人は必ず初枝さんから話を聞くし、時々テレビにも出ている」と聞き、大きなショックを受けるのである。/(中略)梅澤氏は、母が親切に自分に品物を送ってくるのは、後ろめたいことがあったからだと、後述する自らの「手記」で結論づけ、゛えん罪゛をはらすための積極的な動きを見せはじめた。

 梅澤裕がとった行動の第一は、1985(昭和60)年7月30日、地元の「神戸新聞」に、「座間味村の『集団自決』は」「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだもの」と証言し、「事あるごとに、私が命令を下したように言われつらかった」と、集団自決における無罪を主張したことだという。さらに、梅澤は、「梅澤隊長命令説」を記した『沖縄県史』に抗議、県史を編集した県立沖縄資料編集所に「手記」を送り、訂正を要求。『沖縄県史』側が「梅澤手記」を「資料編集所紀要」に参考資料として掲載すると、その直後、「神戸新聞」と「東京新聞」に「部隊長の『玉砕命令』はなかった」「『沖縄県史』が訂正した」という記事が掲載される。また、住民に「忠魂碑前に集まれ」と伝令した助役・宮里盛秀の実弟で、当時は座間味島にはいなかった宮村幸延に、「集団自決は梅澤部隊長ではなく、兄の宮里盛秀の命令であった」という「念書」を、「自分自身、当時は島にいなかったし、知らないことなので押印できない」と断ったにもかかわらず、何回も自宅を訪問し執拗に強要したあげく、「決して迷惑はかけないから」と言いつつ、酒を大量に飲ませ、酔っ払っているところで、無理矢理書かせる。するとそれから二十日後には、またもや「神戸新聞」と「東京新聞」に、「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」「遺族補償を得るため゛隊長命゛に」という記事が乱舞する。しかも、「神戸新聞」と「東京新聞」は、元助役の実弟が、「親書を梅澤さんに寄せた……」とまで書いたらしい。まったく「ヤラセ記事」とでも言うしかないが、いずれにしろ、梅澤の一連の動きが、何が目的かよくわからないが、かなり「謀略的意図」の下に行われ、そうした怪しい行動を続ける梅澤の背後に、「支援グループ」らしいものが存在していることは明らかだろう。梅澤の、その後の行動が傑作である。

梅澤氏はやがて第三者を介し暴力的ともいえる行動をとるようになつた。『鉄の暴風』を発行した沖縄タイムス社の本社、東京支社の前で、また『沖縄県史』を発行した沖縄資料編集所へ宣伝カーで乗りつけスピーカーを使った抗議行動に出たのである。母は自分の証言で梅澤氏に迷惑をかけたという思いから「真相」を告白したものの、予想外の展開に精神的に追いつめられていつた。次第に食事ものどを通らないと訴えるようになる。

 それにしても責任感も倫理観も、そして人間としての羞恥心もまったく持ち合わせていないらしい、図々しくて暢気な旧帝国軍人である。すでに書いたように、保守論壇の面々は、本書の中の「宮城初枝の手記」の一部の文章を引用し、その文章の一部を拡大解釈した上で、「沖縄集団自決」において「軍命令はなかった……」論へと強引に導いていこうとしているわけだが、本書を正確に読んでいくと、保守論壇で定説化している宮城初枝証言を元にした「軍命令はなかつた……」論の根拠が、間違いなく次々と崩れていくことになるはずである。本書を読むと、座間味島で、梅澤隊長による集団自決の「軍命令はなかった……」、厳密に言い換えれば、少なくとも、「自分は梅澤隊長の口から集団自決の『軍命令』を聞いていない……」という主張と立場を取った住民は、宮城初枝ただ一人のようだが、この宮城初枝の証言を有力な法的根拠に「軍命令はなかった……」と主張し、非公開が前提の個人的な手紙や、署名捺印を渋る当時の助役の弟に無理矢理書かせ、署名捺印させた「詫び状」などを武器に、冤罪を晴らすと言う立場から裁判へと突き進んだのが、梅澤裕であり、梅澤の支援グループのようである。さて、宮城晴美の母、宮城初枝(旧姓宮村)は、当時、「女子青年団長」だったと伝えられていたが、本書によると「女子青年団長」ではなく、女子青年団のリーダー格ではあったろうが、団長ではなく団員の一人だったようだ。僕は、これまでも書きたいと思いながら、ちょっと遠慮していたテーマがあったのだが、それは、実は、しばしば登場する「女子青年団長」という存在の意味であり、さらに詳しく言えば、女子青年団座間味島渡嘉敷島を占領・占拠し、実質的には軍政を敷いて、島と住民を支配下に置いていた日本兵たちとの人間関係であった。僕は、この「人間関係」を抜きにこの問題の真相は語れないだろうと、密かに思ってきたが、資料や文献や証言等が手元にないので、敢えて言及することを避けてきた。ところで、僕は、数年前、講談社発行の『日録20世紀』にコラム「日記による歴史の証言者」を連載していたが、その時、コラムの材料として「ひめゆり部隊」等に象徴される沖縄戦の体験記をかなりたくさん読んでいるが、その時の僕の印象では、反戦平和主義的な体験記と並んで、「女子学生」と「日本兵」との親密な信頼関係を土台に過剰に「美談」化された戦争美談が多く、いずれも、ちょっと不自然なものを感じ、コラムには取り上げなかったのだが、今回の「沖縄集団自決裁判」においても、今回は「女子学生」ではなく「女子青年団長」だが、ほぽ同じような意味の言葉が重要な鍵を握る言葉として頻出してきているので、少し考えてみたいと思う。持って回ったような言い方を避けて、誤解を覚悟の上で、敢えて単刀直入に言わせてもらうならば、座間味島にしても渡嘉敷島にしても、「女子青年団長」と当時の島の最高指揮官であった「守備隊長」との間に、「男女関係」まではなくても、ほぼそれに匹敵するような「親密」な「人間関係」と「信頼関係」があり、その人間的な信頼関係が、問題を複雑にしているはずだということだ。宮城晴美は、沖縄住民と梅澤隊長との間に立って、翻弄され、右往左往する母・宮城初枝の苦悩を強調しているわけだが、そしてその主要な原因として、

「半年間、生活を共にし、最後の一ヶ月たらず生死を共にするなかで、母の中に強い『戦友』意識が生まれたのは、ごく自然のなりゆきだったのではないでしょうか……」

と、女子青年団員と日本兵との間に築かれた強固な絆とも言うべき「戦友意識」の存在を指摘しているわけだが、この「戦友意識」こそは、僕が言う「人間的信頼関係」と無縁ではなかろう。当時、宮城初枝は24歳で、役場職員であり、梅澤守備隊長もまだ28歳であった。むろん、それは宮城初枝や梅澤裕隊長だけのことではなく、司令部から「風紀の乱れ」を指摘され、「風紀粛清」の命令さえ出されていることからもわかるように、島の女子青年たちと二十歳前後の兵隊さんたちの間に、何もなかったと言う方がおかしいだろう。宮城初枝が、戦後になっても、手紙などを通じて梅澤元隊長やその他の元兵隊さんたちと交流を続け、やがてその手紙の文面までが梅澤裕元守備隊長によって裁判資料として法廷に提出されてしまうわけだが、また1980年、梅澤と那覇で再会した折には、直接本人に向かって、わざわざ、「部隊長は『玉砕命令』は下しませんでした……」というような、不用意な発言(言質)までをしているわけだが、これらの宮城初枝の、一見不可解とも思われるような奇妙な言動の根拠は、おそらく、人間的信頼関係を土台に強い絆で結ばれた「戦友意識」意外には考えられないだろう。ちなみに、梅澤裕が宮城母子と共に、戦後はじめて座間味島を訪問した折、それは秘密だったにもかかわらず、梅澤隊長来訪を聞きつけたのか、翌日、島を離れる時には、「戦時下で軍と行動を共にした当時の女子青年数人が、港まで見送りにきていた。」という。要するに、座間味島渡嘉敷島の多くの「女子青年団」が、軍属として徴用され、軍と行動を共にしていたらしいから、彼女たちはむしろ軍の側の人間なのであって、彼女たちを単なる沖縄住民と考えるのは間違っているのだ。言うまでもなく、「沖縄集団自決」における「軍命令」の存否を最終的に証言できるのは、保守論壇の面々は宮城初枝証言ですべては決着するかのように錯覚しているようだが、また宮城初枝証言も重要な証言の一つではあろうが、集団自決の現場にいたわけでもなく、また梅澤隊長と終始行動を共にしていたわけでもない宮城初枝ではないことは自明なことだろう。宮城初枝が証言できるのは、宮城初枝が直接的に見たり、聞いたりした範囲に限定されるのは当然だろう。しかも、宮城初枝を含む村長以下の部落のリーダー格の五人が集団自決の相談に行った時の、

「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、私たちの申し出を断ったのです。」(『母の遺したもの』)

という宮城初枝証言ですら、梅澤隊長等によって、

「私は五人に、毅然として答えました。一、決して自決するではない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。二、弾薬、爆薬は渡せない。……」(梅澤裕『意見陳述書』)

と美しい言葉に言い換えられ、都合よく脚色されているのである。つまり宮城初枝証言で「沖縄集団自決裁判」のすべてが決着するわけではなく、宮城初枝証言はその一部でしかなく、宮城初枝の感知しないところで、梅澤隊長等による集団自決の「軍命令」が下された可能性はゼロではないと言う論理も、充分に成立可能なのである。(続)



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資料1(過去エントリー)

■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2