文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

赤松某は、沖縄住民を、何人、斬殺したのか?

僕が、曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)で、ちょっと問題だと思う部分はたくさんあるが、中でも、投降勧告にきた沖縄の現地住民や米軍の捕虜になった少年少女等を、赤松某が、次から次へと「スパイ視」して、斬り殺したり銃殺したり、自決させたりした住民斬殺事件に対する曽野綾子の冷酷な「まなざし」こそ、もっとも本質的な、重大な問題をはらんでいると思う。この一連の沖縄住民斬殺事件に対する曽野綾子の主張は、一貫していて、僕なりに要約してみると、戦時下という非常事態の元で引き起こされた事件であり、赤松某にも赤松隊員にも、少なくとも法的な責任はない……、赤松部隊は住民の生命財産を守る軍隊ではなく、米軍に向かっての戦闘部隊なのだから、民間人の命が、何人、犠牲になろうとも、それも仕方がなかった……というものである。曽野綾子の『ある神話の背景』という本が、あくまでも赤松某や赤松隊員の名誉回復を目指し、そして参考とする資料や証言は、徹底的に赤松某や赤松隊員側のものを優先し、沖縄の現地住民側からの資料や証言も、赤松某や赤松隊隊員に好意的で赤松某等を擁護する資料や証言のみを重視するという「意図」と「まなざし」の元に書かれたものであることから考えてみても、それは当然のことだろうが、しかし、僕には曽野綾子の必死の努力にもかかわらず、ここには腑に落ちない話が多く、曽野綾子の論理は各所で破綻しているように見える。たとえば、投降勧告をスパイ活動と見做し、斬殺したたらしいもつとも典型的なスパイ疑惑斬殺事件に、すでに米軍の支配下にあった伊江島から、「女五人、男一人」が米軍に選ばれて、渡嘉敷島の赤松隊陣地に投降勧告にやってきて、スパイと見做され、赤松某の命令で、女性達を含めて全員が斬首された事件がある。赤松隊側の『陣中日誌』の七月二日の項に、次のように書かれているらしい。

七月二日、防衛隊員大城徳安、数度にわたり、陣地より脱走中発見、敵に通ずるおそれありとして処刑す。米軍に捕えられたる伊江島の住民、米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以て陣地に侵入、前進陣地之を捕え、戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状態を暴露したる上は、日本人として自決を勧告す。女子自決を諾し、斬首を希望、自決を幇助す。

僕は、この「日本人として自決を勧告す。女子自決を諾し、斬首を希望、自決を幇助す。」という短い文章で記された「伊江島女子住民斬首自決事件」が、法律的に合法的かどうかを議論する気になれない。そもそもこの事件はあまりにも残酷であり悲惨であるように僕には感じられる。戦争とはそれほど非情で残酷なものだ、というような訳知りの議論を僕はしたくない。赤松某と赤松隊は、たとえ戦時下にあり、特攻隊員としていずれ死ぬ運命にあるとはいえ、この「伊江島女子住民斬首自決事件」を引き起こしたという時点で、やはり「越えてはならない一線を踏み越え……」ていると思わないわけにはいかない。この事件については、次のような話もある。これは、『鉄の暴風』の執筆者の一人で、「集団自決に軍命令があった」と書いたために、曽野綾子から神話の捏造という批判を浴び、その後、曽野綾子と論争を繰り返している太田良博が、わざわざ曽野綾子のために要点を書きとめた文章であるらしい。

渡嘉敷島には、既に戦闘がすんだ伊江島から、米軍によって連れてこられた住民がたくさんいたが、米軍が、その中から女五人、男一人を選んで、渡嘉敷島守備隊長・赤松嘉次大尉の陣地に、幸福勧告状を持たせてやった。軍使はふつう殺さないのが常識である。それに女はまさか殺すまい、と思って、米軍は使者にたて、男は道案内のつもりだったのだろう。ところが、彼らは、日本陣地で捕えられ、各自穴を掘らされ、斬首された。実に残虐で、不愉快な事件である。墓穴を掘らせたやり方も考えさせられる。大陸で中国捕虜を殺したやり方だ。

ここには、伊江島の住民は「軍使」であったという事実と、「墓穴を掘らせた」という事実が付け加えられているわけだが、それに対して、曽野綾子は、赤松某や赤松隊隊員の「証言」を使って、次のように反論している。

私はこの文章を、赤松隊の人々の前で読み上げたことがあった。
赤松「墓穴を掘らした……ねえ。そんなことは、ないでしょうなあ」
隊員「マッチ箱の、こんな小さなマッチ箱一ぱいの食糧で、墓穴を掘るような体力があつたかどうか。わしら、もう……」
赤松「米軍の軍使ではないですね。軍使であれば、もちろん米軍からの書類なりなんなり持って来ますしね。旗も」
非戦闘員である村民からみれば、それは立派な軍使に見えた。しかし旧軍の法務官の一人であった阪埜淳吉氏によれば、彼らは軍使ではない。国際法上の軍使というのは、白旗をかかげ、司令官が軍使として命じたと信ずるに足るもの、たとえば征服を着用していなければならない。つまり正規の戦力構成員でなければならない。ましてや敵国人(米軍からみて日本人)を軍使に使うことなど考えられないという。

 僕は、この文章を読みながら、そして書き写しながらかなり憂鬱になる。というのは、ここで曽野綾子が何を言いたいかがよくわかってしまうからだ。たしかに伊江島の男女は正式の「軍使」ではなかったのかもしれないが、しかしそうだからと言って、いかに冷徹な帝国軍人とはいえ、そんなに安易に、片っ端から斬り殺したり、あるいは女性達に自決を強要し、斬首したりはしないだろうし、それを戦後になって、正当な、合法的な行為だったと弁解したり反論したりはしないだろう、と思うからだ。赤松某は、「墓穴を掘らした……ねえ。そんなことは、ないでしょうなあ」と暢気なことを言っているが、実はこの時、赤松某は伊江島の男女に処刑命令を下しただけで、その直後には、自分は現場を離れているはずなのだ。隊員の「こんな小さなマッチ箱一ぱいの食糧で、墓穴を掘るような体力があつたかどうか。」なんて話に到っては笑止というしかない。「墓穴を掘らされた」のは伊江島から投降勧告にやってきた女性たちなのであって、女性達に、「墓穴を掘るような体力があつたかどうか。」なんて、引用している曽野綾子も含めて、何を勘違いしているんだ、と言いたくなるような発言ではなかろうか。要するに、曽野綾子は、ここで、赤松某や赤松隊隊員の証言を使って、何が何でも、赤松某や赤松隊の処刑・斬殺を、仕方がなかったのだ……、合法的だったのだ……と言いたいのである。そして肝心の「責任問題」になると、次のようにキリスト教の「神」を持ち出して逃げるのである。

 他人が要求し答えさせることのできる人間の「責任」は職業や法律の範囲にとどまるだけである。それ以上の、神の前の人間としての高度な、或いは複雑な道徳や責任は、厳密に言えば、神を認めぬ人にはどのような形で存在するのだろうか。新聞などで「赤松の責任」という言葉が使われる時、我々はいったいどちらの責任を追及する気なのか。
 赤松告発は同時に自らの内部に向けての告発でもある、という言い方を私はよく読みもし聞きもする。しかしそれは本当だろうか。本当に自分の内面の弱さと醜悪さにも目を向け、告発すべき相手に関して深い調査をし、ユダヤ教のように、告発者はもしその告発がまちがいであつた場合、自分が死刑になることさえも覚悟の上だというほどの命がけの告発ができるだろうか。

 この曽野綾子の主張は驚くべき暴論であって、言い換えれば論理のすり替えであり、問題の隠蔽工作であり、告発者たちへの恫喝というほかはないような文章である。曽野綾子キリスト教の「神」を持ち出すのは勝手だが、これは曽野綾子が心の奥で思っていればいいことであつて、今さら、キリスト教信者でもなんでもない日本国民(特に沖縄住民)に向かって、「その告発は死刑覚悟の命がけの告発なのか……」等と、大げさな身振りで、思わせぶりに言うべき言葉ではないだろう。これは、たぶん、宗教的には大多数が仏教徒である日本人には、つまりキリスト教的な「原罪意識」を持たない日本人には、法律的に告発する以外には、他人を道徳的に、人間的に、あるいは宗教的に告発する権利はない、黙って我慢しろ……と言っているようなものだからだ。しかるにカトリック信者である曽野綾子自身には、他人を、つまり赤松某や赤松隊を告発し批判する大江健三郎や沖縄の証言者達を、誤字・誤読に基づいて、堂々と告発し、批判し、さらには裁判所に告訴する権利まであるというわけだろう。なぜなら、自分だけはキリスト教的な「原罪意識」の持ち主だから……。笑止というしかない欺瞞的な論理である。曽野綾子は、曽野綾子が『ある神話の背景』で、「鉄の暴風」の執筆者・太田良博とともに、中心的に批判している沖縄住民の一人・山田義時に向かって、こんなことを言っている。

曽野「私はこれでも、罪意識の塊(かたまり)なんですよ」
 私は笑いながらテープの中で言っていた。
山田「罪意識というと、ぼくは罪を犯したかなァ」
 山田氏も笑いながら答えた。
 私はかつて山田氏と話をして憂鬱であった。しかし、その瞬間、ほとんど絶望的な明るさを、谷底から垣間見たのである。自己の内部に刃を向けるということは、それは嘘なのである。山田氏の、意識しない嘘なのである。山田氏は自分が生まれてこのかた罪を罪を犯したことがあるかも知れないなどと考えたこともない人なのである。山田氏は誠実な市民であり優しい夫であり、父であるように見えるから、氏がそう思ったとしても、それは当然のことかもしれない。ただ、そのことについて、自分は罪を犯していないという意識があるからこそ、人は他人を告発できるのだ。

 ここで曽野綾子が使っている欺瞞的な論理は、いかにもキリスト教徒らしいミエミエの騙しのレトリツクであるが、それにしても、集団自決問題や赤松告発に積極的に取り組んでいるとはいえ、沖縄の凡庸な、一市民……(市役所職員、那覇市職労)の何気ない発言の言葉尻を捕まえて、宗教や信仰の問題を持ち出し、「自分は罪を犯していないという意識があるからこそ、人は他人を告発できるのだ。」などと居直られたら、誰だってたまったものではないだろう。そもそも、ここで、曽野綾子が何気なく使ったこの原罪意識という論理は、実は、キリスト教ユダヤ教の対立・抗争の原因となった「原罪論」であり、キリスト教徒による「ユダヤ人差別」やナチスによる「ユダヤ人虐殺」へとつながるる論理でもあることを考えておく必要がある。キリスト教徒は、自分達の原罪は「イエスの死」によって贖われ、罪は清められたが、「イエスの死」の宗教的な意味を認めないユダヤ教徒の血は、原罪を背負ったまま浄化されことなく穢れたままの民族だ……というのが、ユダヤ教徒を批判する時のキリスト教徒の自己欺瞞的な宗教的論理なのである。日本人はうっかりすると無視しがちだが、これは、キリスト教徒が頻繁に使う騙しのレトリックなのであって、この騙しのレトリックの罠にはまってはならない。そもそも、豊かな風土の中に生まれた日本人には、「生まれてきたそのことが罪である……」というような「原罪意識」はない。おそらく曽野綾子の言う「原罪意識」なるもののもニセモノだろうが、それでも、「私はこれでも、罪意識の塊(かたまり)なんですよ」と言われると、ついついうっかりと仕掛けられた罠にはまり、結果的に騙されてしまうことになるだろう。というわけで、赤松某や赤松隊の沖縄住民虐殺事件を告発するには、原罪意識のない日本人には告発する資格がない……、後は法的に告発する以外にないが、しかも法的にも厳密に調査すると責任はない……とでも言いたげに曽野綾子は、こんなことも書いている。

当時の赤松隊長が、大して迷うことなく、当時死刑に値すると思った村民の行為は、それならば法的にどのような条文に当てはまるのだろうか。
陸軍刑法には、死刑に処せられるべきものとして、第二十七条の3に「軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏洩スルコト」というのがあり、第二十八条の4には利敵行為の一項目として、「隊兵ヲ解散シ又ハ其ノ連絡集合ヲ妨害スルコト」というのがある。
 伊江島の人々が投降勧告に来たのは利敵行為として第二十八条の4に相当し、彼らをもし米軍側に帰せば、陣地内を見て戦力その他を漏らすことになるから、第二十七条の3に該当すると思ったのだろうか。

 僕は、この曽野綾子の文章を読みながら、曽野綾子が、赤松某や赤松隊の行為の総てを擁護し弁護するあまりに、さらに付け加えるならば、赤松某らは、戦争末期のために軍法の学習もろくにしないままに戦場へ送り出されたために、戦場で軍法をどう適用すべきかにもほとんど無知だったと書いておきながら、必死で軍関係の法律の条文を読み漁り、なんとかして法理論的に斬殺事件の辻褄を合わせようとするその文章のレトリックに、曽野綾子は何かを勘違いしていると思わないわけにはいかなかい。この事件のように、曽野綾子の「まなざし」は、明らかに赤松某の過剰擁護、過剰防衛の「まなざし」であり、無謀な住民虐殺事件と言わざるを得ないような事件に直面し、そして厳しい現実を突きつけられると、それを直視するのではなく、すべてを法律問題にすり替え、法律的に合法かどうかを問う方向へ向けられていくのである。要するに、曽野綾子に、赤松某や赤松隊員の「人生」は見えていても、斬り殺された沖縄の伊江島の青年男女の「人生」は見えていない。曽野綾子は、赤松某の「お嬢さん」の「人生」に思いを馳せることはあっても、赤松某や赤松隊員の手によって斬り殺された沖縄の伊江島の青年男女の「人生」に思いを馳せることはない。むろん僕は、ここで、曽野綾子に「被害者」や「弱者」への視点が欠如しているというような暢気な問題を指摘したいわけではなく、もっとも根本的な人間存在の存在性の問題が、曽野綾子には見えていないと言いたいだけである。つまり、言い換えれば、曽野綾子には、「神」が見えていない。体制擁護と権力擁護のための神学としてのカトリシズムを滅茶苦茶に乱用し、沖縄の集団自決を「殉国美談」に作り変えようという自作自演と偽装工作を繰り返す曽野綾子に、ホンモノの「神」が見えているはずがないのである。




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■沖縄集団自決関連資料
沖縄タイムス http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html