文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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山崎行太郎の「月刊・文藝時評」(「月刊日本」)より。

山崎行太郎の「月刊・文藝時評」  ( 「月刊日本」10月号)  


■八月七日の丸山真男・・・。
文芸誌のコラムや書評を読んでいると思わぬ大きな拾い物をすることが ある。柄谷行人の新著の書評をした佐藤優の場合もそうだったが、今月 もまた感動的な文章を発見した。書いた人は作家の佐川光晴で、タイト ルは「八月七日の丸山真男」( 「新潮」九月号)。 佐川光晴が、丸山真男に深い関心を持っていることはよく知られている が、今回は丸山真男の原爆体験について書いている。 《敗戦間際の四十五年三月、丸山真男東京帝国大学助教授としては 異例の再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に配属 された。(中略)そして八月六日の朝礼中に、丸山は他の兵士とともに原 爆に遭遇する。しかしそのときの体験の詳細は、被爆から二十四年後の 六十九年に中国新聞の取材を受けるまで公に語られることはなかっ た。》 あの丸山真男被爆者だったという話は驚きだが、しかし最近はこの話 もよく知られており、今となってはそれほど驚くべきことでもない。佐 川が注目するのも、丸山真男被爆体験とか丸山真男被爆者だったと いうような一般的な問題ではない。 佐川は、丸山真男被爆の日の「翌日」のことにこだわっている。いか にも作家らしい目線である。病床に伏していた丸山真男が、《被爆直後 の様子を語った後で、「次の日、八月七日からは、どうなりましたか」 という記者の質問に答える。》場面だ。丸山真男はこう語っているとい う。 《救護及び死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、というあれが下った わけです。本来なら僕は、これに行くはずなんですけれども、情報班長 が「お前は留守で残っていろ」と。それで、一人留守になっちゃったの です。そのとき出ていたら、もっと悲惨な光景を見ていたわけですけれ ども、まさに火が収まった直後、翌日の朝ですから。その日一日、兵隊 が、生々しい死体を片付け、破壊の後片付けをやったところは全く知ら ないのです。僕が出たときには、少なくとも通りはきれいに清掃されて いました。(中略)あの兵隊の中からも相当放射能に当たって発病した人 がいるんじゃないでしょうか。直後ですから。》 佐川光晴は、これに対して、《『卑怯だぞ!』という罵りが思わず口を つきかけるが、それはやはり謹まねばならないだろう。》と書いた後、 こんなコメントを書き付けている。 《しかし、やはり、このインタビューで最も強い印象を残すのは、部隊 の全兵士が出動した兵舎でひとり留守番をする丸山の姿である。上官が なぜ丸山ひとりに留守を命じたのかはわからない。ただ、かれがそれに 素直に従ったのも事実である。》 《投下の翌日にひとり兵舎で留守番をしていたことまでは語らなかった だろう。それは思いかけず口走るか、小説として書く以外に言いあらわ しようもない事柄だからだ。》 《八月七日の丸山真男に、私は限りない愛惜の念を抱いている。本人は どこまで意識していたかどうかわからないが、この一日がなければ、そ の後の丸山はなかったとさえ、思っている。いつか、この日の丸山に焦 点を当てた作品を書いてみたい。》 付け加えることは何もない。私は、「新しい問題」を抉り出してくる 佐川光晴という作家の才能に、あらためて注目したいと思う。そして同 時に、保守派からは蛇蝎のごとく嫌われている丸山真男にも・・・。ま さに、佐川が言うように、「八月七日の丸山真男」という「この一日が なければ、その後の丸山はなかった」かもしれない。丸山真男もまた、 昨今の凡庸な保守思想家たちが考えるほど、それほど単純な学者・思想 家ではなかったのだ。
■「闘う保守」の気概がない。  ところで、私は、昨今の論壇の停滞と混迷の原因は、論壇における文 学的な思考の不在ではないか、と何回も書き、且つ嘆いてきた。しかし また。同時に文壇にさえ文学的思考は消滅しつつあることもたびたび書 いてきた。  それを象徴するような対談が「諸君!」九月号に載っている。タイト ルは「今こそ『あの戦争』と『戦後』の超克を」で、出席者は遠藤浩 一、富岡幸一郎福田逸の三人。企画自体は最近では珍しい、なかなか 新鮮な企画である。しかし、企画自体はおもしろいのだが、その座談会 の中身は、期待しつつ読んでみたが、満足できるものではなかった。  昭和17年7月に行われた小林秀雄河上徹太郎等の「近代の超克」 座談会から戦後の三島由紀夫福田恒存の問題、あるいはポスト小泉問 題としての安部晋三論まで、話題は多岐にわたっているが、文学者や芸 術家らしい本質的、原理的な問題提起はない。すでにどこかの論壇雑誌 や新聞などで繰り返されてきたような一般的な議論や分析ばかりで、具 体的な視点がない。端的に言えば、現代の思想状況や政治状況に対する 焦燥感と怒りが、言いかえれば論者自身の世界や秩序や時代への根源的 な違和感が感受できないのである。たとえば、彼等が揃って高く評価し ている三島由紀夫福田恒存ならば、こういう場合、一般的な情勢論や 状況分析を反復することはあるまい。もっと具体的に、生々しく語るだ ろう。
■「つくる会分裂騒動」こそ「今、ここ」での緊急の思想問題だ。
たとえばこんな発言がある。 《遠藤(浩一)  そして、タコツボのなかで必ず権力闘争が起こる。演 劇界のみならず。 福田(逸)  そう、比喩でもなんでもなくね。孤独に耐えられない弱さ が裏返しになって、ささいなことをネタにして、権力闘争になっている としか思えないですね。 》  私は、この会話にはかなり失望し落胆した。実は、この二人は、とも に「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長か理事だったはずである。 その二人が、「今、ここで」、こんな発言をするとは私には信じられな い。要するに、二人は、明らかに「つくる会分裂騒動」を念頭に入れつ つ、権力闘争や派閥抗争を嫌悪し回避する論理を展開している。という ことは、「つくる会分裂騒動」を愚劣な権力闘争、ないしは無意味な内 輪喧嘩としか見ていないということだろう。  ところで、私見によれば、今、論壇の中心的なテーマの一つは、間違 いなく、「つくる会分裂騒動」である。この問題こそがもっとも現代的 な、且つ本質的な思想問題であり、政治問題だと私は思っている。もっ と具体的に言えば、西尾幹ニ藤岡信勝が、「今、ここで・・・」提起 している問題は、愚劣な権力闘争や内輪喧嘩に回収されるべきものでは ない。  西尾や藤岡が対立し、対決している相手は、怪文書をばらまいたり、 個人の思想経歴を暴露して論敵を抹殺しようとする八木秀次新田均の ような陰謀家たちだけではなく、実は権力に迎合し、その奴隷や走狗と なることを恥じない「御用文化人」や「御用メディア」も含まれる。た しかに、権力に迎合し、如何にして甘い汁を吸うかしか考えていない、 いわゆるサラリーマン崩れの「世の健全な常識家たち」には、西尾や藤 岡等の言論闘争や思想闘争の意味は理解できないかもしれない。しか し、文学や芸術にかかわる人間がそれを理解できないとは、奇怪であ る。
「小泉靖国参拝」は「英霊への冒涜」だ。  
ところで、この座談会で一箇所だけ私が感動したのは、遠藤浩一と福 田逸の「小泉靖国参拝」をめぐる次のようなやり取りだった。
《福田   彼は、靖国参拝は「こころの問題」だとよく言います が、首相になった一年目の゛八月十三日゛前だおし参拝から、こりゃだ めだと思いました(笑)。参る、祀るとは「型」の問題です。 八月十五日、あるいは春秋の例大祭など、そのけじめの日に行くことが 大事であって、彼が本当に「こころの問題」と考えているならば、宗教 を超えた靖国という存在に対して、きっちりと型を守ったことでしょ う。   
 遠藤   小泉さんにとっては「こころの問題」などではなく、 靖国参拝も政略上の要請によるものです。・・・・・・個人的には、小 泉さんに靖国のこころを語ってほしくありませんね。   
 福田   最後の最後の゛死に体゛になった任期満了の年の八月 十五日に、行っていただきたくないと思います。》   
この議論はかなり本質的な問題を提起している。「小泉靖国参拝」 を批判すると、小泉一派や小泉擁護派からは、必ず「中国や」韓国の言 いなりになれと言うのか」という反論が返ってくるが、この二人の発言 は、その反論そのものの欺瞞性と陰謀を暴きだす議論になっている。  要するに、「小泉靖国参拝」批判は、小泉一派が主張するするよう な、中国や韓国の批判に屈するか屈しないかというような問題ではな い。むしろ、靖国参拝問題を、中国や韓国の外交問題に論点を擦り替 え、「反中国」「反韓国」というカードを売り物にしつつ、政権維持の ダシに使って政治利用しているのは小泉純一郎自身であり、彼の取り巻 きたちである。  たとえば私も「小泉靖国参拝」に批判的だが、私が「小泉靖国参拝」 に反対するのは、福田や遠藤が、あるいは木村三浩が「週刊朝日」で言 うように、それが、「心にもない政略的な不謹慎な参拝」であり、それ は結果的には「英霊への冒涜」でしかないからだ。
永山則夫が「罪と罰」わ読み終えた日 これは文芸誌ではなく、「ふぉとん」3号(辻章編集発行)という同人雑 誌(?)に掲載されたものだが、永山則夫ドストエフスキー読書体験を めぐって考察した井口時男の「少年殺人者考(一)」にも強い衝撃を受け た。 永山則夫は、ピストルで数人を射殺した「連続射殺魔」で、その後、未 成年時の犯罪であるにもかかわらず死刑判決を受け、数年前にすでに処 刑されている。一方で、永山は、中卒だったにもかかわらず、獄中で哲 学書や文学書を読みふけり、みずからも小説を書き続けた「作家」でも ある。 このエッセイは、奇しくも、《永山則夫が東京拘置所でドストエフス キーの『罪と罰』を読み終えたのは一九七〇年の八月七日だった。》と いう文章で始まっている。「八月七日」に丸山真男永山則夫も決定的 な体験をしたのだろう。もっと詳しく紹介したいのだが紙数が尽きた・ ・・。

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