マルクスとケインズは「何を」見たのか?
マルクスとケインズは「何を」見たのか?それは不均衡であり非対象性であり等価
交換である。小林秀雄は、芸術家は最初に虚無を所有する必要があると言ったが、
小林秀雄の言う「虚無」こそが、マルクスやケインズが見たものである。言い換え
れば、「虚無よりの創造」が必要なのは、芸術家ばかりではない。科学者も宗教家
も、そして経済学者も同じだろう。
つまり既存の理論や方法論が無効であり、なんの役に立たない世界、それがマル
クスやケインズが見た経済学的な虚無である。それが、不均衡であり非対象性で
あり不等価交換の「虚無」である。マルクスもケインズもその経済学的な虚無の
発見に驚愕し、そしてその「見神体験」を軸に「経済学批判」を展開して行くの
である。そしてそれが結果的に「マルクス経済学」「ケインズ経済学」として体系
化されていくのである。
マルクスはマルクス主義者ではなかった、と言う言い方がある。これはデカルト
はデカルト主義者ではなかったという言い方と同じである。しかしこの微妙な差
異は決して単純ではない。言い換えれば、多くの経済学者や経済ジャーナリスト
は、マルクス主義者やケインズ主義者ではありえても、あるいはハイエク主義者
やフリードマン主義者でありえても、マルクスやケインズ、あるいはハイエクや
フリードマンではありえない。何故か。それは、「虚無よりの創造」という「野
生の思考」(レヴィ・ストロース)と無縁だからである。
マルクスはマルクス主義を信奉し、その理論を学習して、その理論の普及に努め
た人ではない。マルクスは「虚無」を凝視し、そこから理論的な思考を実践した
のである。マルクス主義という理論を通して現実を見たのではない。マルクスの
言う「唯物論思考」とはそういう理論なき思考実践のことである。言い換えれば
マルクスの経済学とはそういう思考過程そのもののことである。マルクスは、ル
ーゲへの手紙の中で、《ここに真理がある。ここに膝まずけと私は言いはしない。
私はただそれを示すだけだ…》と言っている。
マルクスの「資本論」は一つの理論体系として成立しているのではなく、資本主
義経済という奇妙な経済現象とは何かを問い続ける思考過程の書である。マルク
ス経済学という理論体系を構築していくのは、実はマルクスではなくエンゲルス
であり、のちのマルクス主義者たちである。キリスト教を体系化したのがイエス・
キリストではなく、ペテロやパウロであるように。
むろん、同じことがケインズやハイエクやフリードマンにも言えるだろう。しか
し、わわれわに理解できないのはこの、「マルクスとマルクス主義とは異なる」
という差異である。わわれわれは、マルクスをマルクス主義という理論からしか
考えることができない。最初に戻れば、マルクスが見たもの、あるいはマルクス
が驚いたものは、「商品」という物であった。したがってマルクスは「資本論」
を商品の分析から始めるのである。しかし、多くのマルクス主義者たちは、そこ
を飛ばして読み始める。何故か。
マルクス主義者たちは「商品という虚無」を見ようとせずに、マルクス主義とい
う「理論」を見ようとしているからだ。それは、マルクスやマルクス主義を批判
する者たちも同様である。
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