文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

経済学者には経済がわからない…という逆説


 ここで、もう一度、現在の日本経済が陥っている「平成不況」の病根とその起源について述べておこう。実はそこにこそフリードマンやルーカスの存在が暗い大きな影を落としているからだ。日本では、バブルの前後から、無根拠ないかがわしい経済学的な風説が日本の経済ジャーナリズムを覆っていた。それは、現在も続いているといっていいかもしれない。


その風説とは、これまで日本では、大幅な財政支出がたびたび行われてきたが、その効果はなかった…。公共投資などによる財政支出という無駄使いが財政赤字をもたらしているだけだ…。つまり「財政出動などで、政府支出を増やしてもわが国の経済は活性化しないし、景気回復にもつながらない…」というものだ。


これを要約すれば「ケインズ義経済政策(総需要拡大による有効需要の回復、景気回復…)」の無効宣言にほかならない。このケインズ主義無効宣言の理論的な、心理的な根拠になっていたのがフリードマンであり、ルーカスであったことは言うまでもない。日本では、こういう風説は、経済学者、エコノミスト、官僚、政治家、そして一般市民の経済談義にまで蔓延している。


最近では、そういう風説に批判を加える専門家や一般市民も少しずつではあるが増えてきたが、小泉改革の失敗が明瞭になるまでは、そういう批判は学界やジャーナリズムでも封印され抑圧されてきた。場合によっては社会的に抹殺されない危険性すらあった(冤罪で逮捕され、早大教授辞職に追い込まれた植草一秀の場合を想起せよ…。)。


私の見るところ、その批判を早くからはじめ、「ケインズ主義」という視点から一貫して主張してきたのは、前にも述べたように丹羽春樹だけである。丹羽氏は、「バブル」もバブル以後の「平成不況」も、ともにこの「反ケインズ主義」的な風説の影響だと理論的に分析し、指摘している。丹羽氏以外の経済学者たちは、ケインズ主義と反ケインズ主義の間を右往左往しているだけだ。


経済学者には経済がわからない。では、一般市民までを、「公共投資は止めよ…」「土建屋国家はゴメンだ…」、つまり「反財政出動」「緊縮予算」「小さな政府」という経済思想に洗脳した、この反ケインズ主義的な風説の「論拠」はどこにあったのか。言い換えれば、なぜ、フリードマンやルーカスが、経済思想の主流になったのか。



それは、冷戦とその終結が関係する。冷戦時代は、マルクス主義ケインズ主義が、共産主義対資本主義というイデオロギー対立と言う構造の下に対立していた。そこでは、ケインズ主義と反ケインズ主義の対立が顕著になることは少なかった。しかし対立がなかったわけではない。ハイエクシュンペーターという自由主義者たちはケインズ的な経済政策に常に批判的であった。


ハイエクシュンペーター自由主義を受け継ぐのがフリードマンやルーカスである。資本主義内部の対立が顕在化するのは、共産主義と資本主義の対立抗争という冷戦にほぼ決着がついたころからである。それまでは、マルクス主義共産主義という「共通の敵」の前に、「共闘」を強いられていたのである。


冷戦後、自由主義の勝利、資本主義の勝利に酔うハイエクフリードマン、ルーカスのような「新自由主義」者たちは、冷戦勝利をもたらしたものは、自由主義を本質とする「資本主義的な市場原理システム」であるという確信を持つに至った、というわけである。彼等は、ケインズ主義に残る「マルクス主義的な要素」を批判して、「ケインズ主義無効宣言」へと突進する。かつてケインズ理論理論武装していた日本の経済学者たちも、次第に反ケインズ主義に転向し、ケインズ主義的な「総需要政策」の無効を宣言するようになったのである。


しかし、はたして、マルクスケインズの哲学を、彼等は理解していただろうか。むしろ理論的に後退しているのはハイエクフリードマンらの方ではないのか。現在の日本経済の停滞と混乱が、それを証明しているはずである。それをいまだに理解できないとすれば、やはり経済学者には経済がわからない、と言うべきだろう。


柄谷行人は、言語学者には言語が理解できない、心理学者には心理が理解できない、と言っている。何故か。それは、彼等専門家には専門的知識はあるが、哲学的レベルでの言語や心理に関する議論や思考が欠如しているということである。むろん、日本の経済学者の多くは経済というものを哲学的次元で考えたことはないだろう。