文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

曽野綾子氏の「格差社会」肯定論に異議あり。

一昨日(2/20)の産経新聞の連載コラム「透明な歳月の光」で、曽野綾子が、「現代日本の格差」を「受け止める強さを養いたい」と題して、「格差を肯定する」かのような議論を展開している。例によって、社民党の福島党首や共産党の志位委員長の「小泉改革批判」を、小泉改革擁護の視点から反批判したものだ。「世の中はそんなに甘いものではない」「人間社会に格差なんてあたりまえではないか」という類の議論である。これは曽野がよく使うレトリツクである。いわゆる理想論ではなく、曽野が好きな現実論という奴である。曽野曰く、「どの程度をもって地域格差というのかわからないが、私はもともと完全に平等な社会などあるわけがないと思っている」と。格差や差別を批判し、格差や差別のない社会を目指すなどと言うことは、非現実的な空想であり理想であるというわけだ。そして理想より現実(笑)直視せよ、というわけだ。サブタイトルに「受け止める強さを養いたい」という言葉があることからも解かるように、これは、一種の精神論、ないしは根性論である。むろん、僕は原則論としては曽野説に反対ではない。人間社会に格差や差別があるのは当然だし、格差や差別なき社会を作らなければならない、という理想論こそ人間性の現実に反する、と言っていい。しかし、今、問題になっている「格差社会論」は必ずしも曽野が考えるような個人主義的な倫理や道徳のレベルの話ではない。福島党首や志位委員長が問題にしているのは個人の倫理の問題ではなく、国家や社会レベルの問題だろう。曽野は、社民党共産党の「理想論」を「現実論」で批判しているつもりのようだが、それは見当違いである。「差別や格差を甘受せよ」という曽野の「現実論」こそ個人主義的な空想論である。つまり、今、問題なのは、あえて「勝ち組」と「負け組」を分ける格差社会を理想として、その方向へ強引に突進していこうとする「小泉改革」の空想的な「理想主義」である。単に、人間社会には格差や差別があるかないか、あるいは格差や差別をなくすべきか、それとも放置すべきかと言うようなレベルの問題ではない。精神論や根性論の好きな曽野にはそれがわかつていない。いや、わかっている。ただ、わかからない振りをしているだけだ。つまり「小泉改革」を間接的に、あるいは暗黙のうちに擁護するために知らない振りをしているだけである。そこで、曽野は、小泉改革を擁護するために、例によって外国の例を出してくる。曰く、「アメリカにも中国にも北朝鮮にもイギリスにも、階級的格差が日本とは比べものにならないほどの差別を生んでいる。」と。なるほど、それはそうだろう。では、曽野は、日本社会も、「アメリカにも中国にも北朝鮮にもイギリスにも」あるような階級的格差と差別のある社会へと向かうべきだと言いたいのか。日本にはまだまだ格差や差別が足りない、とでも言いたいのか。曽野の議論を分析するとそういうことになるだろう。また曽野は、こんなことも書いている、「私は世界の120ヶ国ほどを見たが、素人の印象で、日本ほど個人においても社会においても格差のない国は世界にないと感じているから、これを問題としたら、他の国はどうなるのだ、と言いたくなる。」と。これも曽野がよく使う奇怪な議論である。「日本人よ、120ヶ国の外国を見よ。あなたたちは差別なき社会に住んでいるのだから、この程度の格差と差別は甘受せよ」と言うことだろうか。しかしそれにしても、なぜ、120ヶ国もの外国の例を参考にしなければならないのか。日本社会が、「格差なき社会」へ向かって、世界の先頭を走ってはいけないのか。なぜ、外国の悪い例を模倣しなければならないのか。いずれにしろ、作家や文学者にあるまじき大雑把な観念論である。これは現実論でもリアリズムでもない。ただ単に現政権の「改革」を擁護しようとしているだけだ。「小泉改革」は、「格差なき日本社会」を否定して、「格差ある社会」へと「構造改革」しようとしている。曽野は、個人主義的な倫理主義で、その小泉改革という空想的な「理想主義」を擁護しようとしているだけだ。曽野は、今では「社会評論家」「お説教文化人」として知られているが、元々は作家だった。しかし、今、曽野を作家として見る人は皆無だろう。つまり、曽野が作家として駄目なのは、「誰にでもわかるような…」、こういう大雑把な観念論に満足し、思考停止しているからである。たとえば、曽野は、「何故、日本社会は格差なき社会を実現したのか」、「何故、日本は世界第二の経済大国になり、文化的な先進国に上り詰めたのか」という問題等については、何も考えようとしない。安っぽい人生論を繰り返すだけだ。むしろ、権力の顔色ばかり伺って、目前の現実を直視していないのは曽野綾子の方であると言うべきだろう。