文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優連続対談(「人を殺す思想こそ本物だ」)。

先日、「月刊日本」7月号に掲載予定の佐藤優氏との何回目かの連続対談を行った。テーマは、「ヒューマニズムテロリズム」。この問題について、佐藤優氏が、以前から、かなり突っ込んだ本質的、原理的思考を展開しており、私もほぼ同意見だったからである。以下に、私が、その日、話したこと、話したかったことを簡単にメモしておく。さて同じ日、対談修了後、ネットに精通した「月刊日本」編集部の若者の指導で、このブログにも、ブックマークとフェイスブックツイッターとの連携網を確立した。最下段にあるブックマーク・・・にご協力下さい。

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1)佐藤優さんは、京都学派の哲学者・務台理作や田邊元、あるいは革マル派の指導者で哲学者の黒田寛一、あるいは「あさま山荘銃撃事件」などを論じながら、「ヒューマニズムテロリズム」の問題について、原理的な次元で、かなり深い本質的な議論を展開しています。実は、私も、若い学生時代から、同じようなことを考えていました。しかし、あまり堂々と表に出して話せるようなことではないので、書いたり、話したりしたことはありません。佐藤優さんが、商業ジャーナリズムの世界で、そういう、テロリズム擁護論ともととれるような議論を堂々と展開しているのを見て、驚き、そしてまた同時に共感し、感動しました。


2)世代論はあまり好きではありませんが、私は団塊の世代全共闘世代の人間ですので、「三島由紀夫事件」から「連合赤軍事件」「あさま山荘銃撃事件」「イスラエル・ロッド空港乱射事件」、さらには中核・革マルの「内ゲバ事件」などを同時代的に経験しています。当時は、一連のテロ事件に、左翼も右翼も、一般市民社会は言うまでもなく、全面的に批判的、否定的でした。しかし、その種の市民主義的な健全な「テロ批判」に、私は違和感がありました。たとえば高橋和巳の『暗殺の哲学』や埴谷雄高の『内ゲバ批判』などがよく読まれていましたが、私には不満でした。高橋和巳はダメだと思いました。大江健三郎のテロ小説『セブンテイーン』や三島由紀夫の『憂国』などの方が面白くて共感しました。私は、後に『小説三島由紀夫事件』を書きましたが、それは一種の「テロリズム擁護論」です。


3)さて、佐藤優さんは、務台理作の『現代のヒューマニズム』について書いています。務台理作は、ヒューマニズムを、人間中心主義ととらえ、人間の尊厳を抑圧したり、妨害する体制や権力に抵抗する権利があると、ある意味では、素朴にヒューマニズムを擁護しています。むろん、そういう務台理作の論理を突き詰めると、革命的暴力や革命的テロリズムの擁護、肯定にもつながるはずです。要するにヒューマニズムを突き詰めるとテロリズムや暴力にもつながる。しかし、務台理作がそこまで徹底的に考えていたか疑わしい。おそらくそこに、佐藤優の「務台理作批判」がある。私も賛成します。佐藤優さんは、ヒューマニズムを徹底化し、それを実践したのが北朝鮮の「チュチェ思想」だとも、皮肉を込めて言っています。なるほどと思います。


4)務台理作は、晩年は、慶應大学で哲学教授として教えていたらしいです。私が教わった「松本正夫」のような教授たちは、務台理作の弟子だったようです。しかし、私は、務台理作ヒューマニズム論を、そのタイトルを見ただけで嫌悪し、読みませんでした。最近、佐藤優さんが書いたものに刺激されて、初めて読みました。やはりつまらなかった。しかし、何故、つまらないのか、について考える材料にはなりました。


5)京都学派と小林秀雄について話してみたいと思います。私は、哲学を専攻しながら、佐藤優さんとちがって、あまり京都学派の哲学者たちに興味がありませんでした。何故かというと、小林秀雄がいたからです。小林秀雄は京都学派の哲学者たちに批判的でした。小林秀雄は、京都学派の哲学者たちは、「文章が書けていない」と批判している。文章が書けていないということは、「深く物事を考えていない」ことにつながる。


6)佐藤優さんは、あまり小林秀雄を読んでいないようですが、不思議なことに、私には、佐藤優という思想家は小林秀雄と同じように感じる。特に佐藤優さんに『神学の思考』を読むと、「あ、ここに小林秀雄がいる」と感じる。それは、佐藤優小林秀雄に共通する「深さ」と「徹底性」と「原理性」・・・です。言い換えれば、「徹底的に突き詰めて考えるということ」です。小林秀雄の『考えるヒント3』(文春文庫)を読むと、戦前も戦後も、思想的に一貫していることがわかる。


7)京都学派の哲学者たちは、田辺元がそうであったように、多かれ少なかれ、「転向」している。「大東亜共栄圏の哲学(世界史の哲学)」や「学徒出陣の哲学(散華の哲学)」を、戦後も、一貫して主張し続けている哲学者が何人いるだろうか。反対に、小林秀雄は、「俺は馬鹿だから反省しない。利巧な奴は反省してみるがいい」と言いつつ、反省も転向もしなかった。


8)佐藤優さんには神学的思考があり、小林秀雄には文学的思考がある。それらは、「哲学的思考」より深く、かつ徹底している。哲学者たちは、理論的思考、つまりイデオロギー的思考から抜け出せない。神学的思考や文学的思考は、存在論的思考である。「存在の深淵」を凝視する思考である。柄谷行人は、「日本では、哲学は文芸評論家が担ってきた」「文芸評論家こそ、西欧的な意味では、哲学者だった」と言っている。その通りだと思う。



9)佐藤優さんによると、カール・バルトは、神学から哲学を切り離した、ということらしい。哲学では、神学的な問題を徹底追及できない、と。哲学が終わったところから神学的思考は始まるというわけだ。


10)佐藤優の「内ゲバ論」や「テロリズム論」には、死や暴力の匂いはあまりしない。何故なのか。それは、佐藤優テロリズム論や内ゲバ論は、テロや内ゲバを、哲学的次元ではなく、神学的次元、あるいは文学的次元で、言い換えれば存在論的な「存在に深淵」のレベルで論じているからだろう。佐藤優は、テロリズムが共感を呼ぶとすれば、それは、共感を呼ぶテロリズムには「自己犠牲」と「利他性」の精神があるからではないか、と言っている。ロシア革命前夜のテロリスト群像を描いたロープシン(サビンコフ)の「蒼い馬」が美しいのは、そうだろう。



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