文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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ヒューマニズムとは何か?ー佐藤優論(4)

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佐藤優が、私にとって、現在、語るにあたいする唯一の思想家であるのは、佐藤優が、安直な、つまり大衆迎合的な「ヒューマニズム」の観点に立って言論活動をしていないからだ。私見によれば、現代日本のジャーナリズム、アカデミズム、文壇、論壇・・・を堕落させているのは、「ヒューマニズム」「ポスト・モダ二ズム」「科学主義」である。


たとえば「イスラム国」や「イスラム教」とテロリズムが問題になった時、「いいイスラム教(ヒューマニズム)」と「悪いイスラム教(テロリズム)」があるという議論に同調しなかったのは佐藤優だけだったように見える。


イスラム国」のテロリズムが話題になった時、「イスラム教」の専門家や研究者の多くは、テロリズムに批判的だった。テロリズムを擁護する人でも、「被害者」としての「イスラム教徒」を擁護するというヒューマニズム的立場からのテロリズム擁護論であったように見える。たとえば、中田考の思考でさえ、私には、ヒューマニズム的思考のように見える。


ヒューマニズムは、人間の過激な、原理的な思考力を拘束する。ヒューマニズム的思考は、世俗的社会と妥協する思考のように見える。サルトルが「実存主義ヒューマニズムである」といったのに対して、ハイデッガーは「実存哲学はヒューマニズムではない」と言った。私は、この言葉から、ハイデッガー存在論的思考の過激性と徹底性を感じる。さて、そもそも「ヒューマニズムとは何なのか」。


日本人の考える「ヒューマニズム」は、突き詰めて考えられたヒューマニズムではないように見える。漠然とした「人間中心主義」的なヒューマニズムと混同されている。ヒューマニズムは、即座に、アンチヒューマニズムにもテロリズムにも転化する可能性を秘めている。ヒューマニズムは、人畜無害な、安全な思想では、必ずしもない。


佐藤優は、『危機を克服する教養~知の実践講座「歴史とは何か」~』(角川書店)で、原理的な「ヒューマニズムとは何か」という議論を、務台理作という京都学派の哲学者の書いた『現代のヒューマニズム』をテキストにして展開している。佐藤優は、最初に、こう言いている。

たとえばヒューマニズムというと、それは素晴らしいものだ、ヒューマニステイックに持っていたほうがいいなど、よいものだと考えます。ところが、最近起きたアルジェリアイナメナスのガス関連施設の事件。あれを行ったのは人間です。テロリストも人間なのです。人間をどう捉えるかによって、ヒューマニズムの持つ意味がまったく変わってしまうのです。


佐藤優は、「テロリストも人間なのです」という。この言葉から、私は、佐藤優の思考力の過激性と徹底性を感じる。つまり、「善」なる行為だけではなく「悪」と言われる行為もまた「人間的」(ヒューマニズム)だと考える。ここには、いわゆる「ヒューマニズム」とは違う「ヒューマニズム(アンチ・ヒューマニズム?)」がある。



佐藤優は、務台理作の『現代のヒューマニズム』をテキストにヒューマニズムという思想の神髄を解明していく。実は、この務台理作は、私とも無関係ではない。私が学んだ慶應大哲学科は、務台理作の弟子たち(教え子)が中心の学科だった務台理作は、慶應大哲学科教授でもあったからだ。。私は、直接は知らないが、務台理作という名前は聞いたことがある。


しかし、私は、当時、「ヒューマニズム」という言葉に嫌悪感しか持っていなかったので、『現代のヒューマニズム』という岩波新書にも興味を持ったことはない。


(続く)


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