文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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佐藤優と田辺元(5)。ー佐藤優さんとの対談。


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昨日は、都内某所で、佐藤優さんと対談した。「反知性主義」に関する対談だったが、詳しくは、「月刊日本」9月号に掲載されるはずである。佐藤優さんは、相変わらずアグレッシブであった。佐藤優さんの言葉で印象的だったのは、現在の政治にまったく興味をなくしているという言葉だった。実は、私も、同じだ。安倍政権の「反知性主義」的な体質には危機感を持っているが、しかし、安倍政権の動向に一喜一憂しているわけではない。さて、佐藤優は、『知性とは何か』で、田辺元について書いている。もちろん、田辺元を全面的に擁護しているわけではないが、佐藤優は、反知性主義を克服する方法の一つとして、田辺元を読むことを勧めている。


田辺元ー「歴史的現実」


《田辺は、
〈具体的にいへば歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を越える事である。自ら進んで自由に死ぬ事によつて死を超克する事の外に、死を越える道は考へられない。〉(田辺元『歴史的現実』)
と強調した。学徒出陣や特攻隊員は『歴史的現実』を読んで、自らの死によって悠久の大義に生きることを納得したという。一九四五年三月、田辺は京都帝大を退官し、七月に群馬県北軽井沢に転居する。
その後、この地をほぼ動かずに、半ば隠遁したような生活を行っていた。この生活には、戦時協力に対する自己批判としての意味があったのだろう。》

佐藤優『知性とは何か』)

佐藤優が、田辺元の何に注目しているかが分かるだろう。すでに述べたように、田辺元は、ここで、「実存的決断」とも言うべき「存在論的判断」をしている。しかも、田辺元は、講義内容の出版を許している。佐藤優が注目するのは、歴史的現実から逃げるのでも、隠蔽するのでもなく、積極的に歴史的現実に加担し、間違っていたか間違っていなかったという結果論的判断は別にして、責任を果たしているというところだろう。むろん、田辺元の学生たちに向けての発言には、いろいろな評価があるだろう。酷い奴だと思う人もいるかもしれない。学生には「死の覚悟」を要求しておきながら、自分は、早々と大学を辞職し、軽井沢に隠棲する。軽井沢は、外交官や外国人が沢山住んでおり 、東京大空襲のような空襲の恐れがない。これは、ある意味では、極めて卑怯な生き方である。しかし、田辺元は、それを隠してはいない。これを、たとえば、東大法学部憲法学教授・宮沢俊義と比較すれば、どうなるだろうか?宮沢俊義は戦時中は天皇主義者であり、明治憲法の擁護者であったが、戦後は平和憲法の守護者であった。何故?何故、そんなことが可能なのか?戦前も表舞台におり、戦後も表舞台にいた。都合よく時代の変化に対応し、つまり、転向しているのだ。佐藤優が、宮沢俊義ではなく、田辺元に注目するのは、たぶん田辺元の思想的一貫性である。

(続く)





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