文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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戦争漫画『のらくろ』とその時代ー田河水泡と小林秀雄ー田端文士村放浪記。

dokuhebiniki2015-04-26



小林秀雄に「漫画」というエッセイがある。『考えるヒント』に収録されているから、読んだ人も多いに違いない。普段の小林秀雄からは想像も出来ないような文章だが、そこで小林秀雄は、『のらくろ』という戦前に描かれた漫画について書いている。


小林秀雄が漫画全般に詳しいのかどうか、あるいは漫画作品を日常的に愛読していたのかどうか知らない。おそらく、そんなことはなかったに違いない。では、何故、「漫画」なのか。何故、『のらくろ』なのか。


小林秀雄は、「漫画」で、こう書いている。

『何故、私がこういうことを知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。私は、弟の仕事にたいした関心を持っていなかった。洒落や冗談を飛ばしながら、楽しそうに仕事をしているのを見て、時々、うらやましい気持ちになっていたぐらいだ。』


私は、小林秀雄の「漫画」を読むまで、『のらくろ』の作者・田河水泡小林秀雄が「義兄弟」の関係にあることを、さらには、小林秀雄が文壇デビューの前後、田河水泡と同居していたなどということをまったく知らなかった。


小林秀雄には、高見沢潤子という妹がいる。この妹が結婚した相手が田河水泡だった。新婚の高見沢潤子田河水泡は、田端に新居を構える。田端は、「田端文士村」と言われるほど、多くの作家や芸術家が住んでいた場所である。小林秀雄の妹は、昭和4年、この文士村に、田河水泡、そして母親(小林秀雄の母)とともに、住み始めたのである。


その頃、小林秀雄は、以前、中原中也の恋人であった長谷川泰子を中原から奪い、同棲するが、二年後にはその同棲生活を解消し、泰子を残して家出、奈良へ出奔する。中原の恋人を奪う、同棲する、そして家出して奈良へ。小林秀雄シュトルム・ウント・ドランクの時代である。


奈良には、志賀直哉が住んでいた。小林秀雄は、志賀直哉を頼って奈良に行ったと思われる。奈良での小林秀雄は、読書三昧の日々を過ごしていた。この奈良での放浪生活を打ち切り、東京へ戻ったのが昭和4年。この時、小林秀雄は、長谷川泰子の元へは戻らなかった。母親と妹と田河水泡が住む田端の家に同居することになる。


長谷川泰子は、この時、はじめて小林秀雄との「別れ」を自覚したに違いない。それまでは、小林秀雄が、いつかまた自分のところへ戻ると確信していたからである。


この年、小林秀雄は、「様々なる意匠」で文壇へデビューする。つまり、「様々なる意匠」は田端の家で書かれたことになる。田河水泡が、一世を風靡することになる国民的漫画『のらくろ』を描き始めたのも、この家である。


要するに、近代日本の文化的大事件である「批評家小林秀雄の誕生」と「漫画『のらくろ』の誕生」が、同じ家で、ほぼ同時期に起きたのである。






(続く)
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