文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

マスコミの「美談」は真実を隠す役割をする。「川崎事件」の被害者もいつの間にか「美談化」され、「美しい少年」として偶像化され、その悲惨な現実と境遇という問題が忘れられようとしている。つまり、被害者の少年は、「立派な不良少年」であり、少年の家族は、ある意味で「崩壊家族」であった。母親は、「母親失格」であり、「母親業」をネグレクトしていた。加害者の少年たち(三人のうちの二人)にしても、単なる不良少年ではなかった。フィリピン人の母親を持つ混血児であった。彼等は、「ハーフ軍団」と呼ばれていた。それらは日本社会の将来

dokuhebiniki2015-03-11



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東北地方を襲った大地震津波の場合も似たようなものだろう。大地震の直後は、政治家や芸能人が多数押し掛けて行き、我れ先にと、「美談作り」に忙しかった。皮肉な言い方をすれば、現実を忘れているかのように、人気取りのパフォーマンスに忙しかった。


そして四年後の今、またマスコミは、突然、忘れていたものを思い出したかのように、「美談化」に忙しい。「美談」のオンパレードである。誤解を恐れずに言えば、その偽善性に「ウンザリ」する。現場では、復興は進んでいるのか?仮設住宅住まいは終わったのか?


マスコミも「美談化」などやめて、復興の遅れの責任追及をするべきではないのか。政治家たちも、見え見えのパフォーマンスをやめて、黙って復興事業に専念せよ。むしろ、今こそ政治家たちの軽薄な復興パフォーマンスを批判すべきではないのか?パフォーマンスより復興事業が先だろう。


「3・11」。確かに大地震津波原発事故・・・の衝撃は大きかった。誰もが、「3・11」の衝撃を声高に語った。しかし、時とともに、その衝撃も忘れられようとしているのが現実だろう。「3・11」の記憶も褪せていく。マスコミや政治家たちは、東北の「美談化」に忙しいが、言い換えれば、人気取りのパフォーマンスに忙しいが、「美談」も「パフォーマンス」も、百害あって一利なし。美談もパフォーマンスも、メッキも禿げていくのも仕方がない。


美談や美談化も必要だろう。歌や踊りも必要だろう。政治家のパフォーマンスも必要だろう。しかし、その美談と美談化、そしてパフォーマンスが、大事な何かを隠す役割を果たしていることも確かだ。現実=現場を忘れてはならない。


マルクスが、ヘーゲル的な観念論の「唯物論的転倒」というのはそのことではないのか?
(続く)


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