文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「マスコミ亡国論」と「川崎事件」と「曽野綾子」。

dokuhebiniki2015-03-10


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昔、10年前か20年前か忘れたが、西部邁に「マスコミ亡国論」(1990)という本があった。しかし、その頃は、まだマスコミ的言説が、ネット的言説にとって代わられようなどとは想像もしていなかったように見える。つまり西部的「マスコミ亡国論」は、まだ亡国論とは言え、言葉だけの観念論的亡国論であって、「のどかなもの」だったと言える。しかし、今は違う。


今、マスコミ亡国論と言えば、新聞社が倒産するとか、新聞記者が首切りされる、とかいうように、きわめて「唯物論的」である。すでに出版社などは、典型的な「構造的斜陽産業」であることはよく知られている。テレビ業界や新聞業界も、出版業の後を追っているはずである。


たとえば広告料。今更、言うまでもなく、当然のことだが、テレビや新聞、雑誌の広告料が激減傾向にあるのに対してい、ネット業界の広告料は激増している。これは、マスコミの質が低下した、とかいうような問題ではない。いわば構造的な問題である。


よくいわれることだが、マスコミは「一方通行的」であり、ネットは「双方向的」である。「双方向的」とは何か。誰でも情報の伝達や送信に参加できるということだ。従来のマスコミは、マスコミ関係者だけが情報の発信や送信に参加できた。多くの人は、情報の受け手の位置にいとどまった。ここから、情報の発信者側の人間と情報の受け手がの人間との間に「上下関係」=「位階性」が発生する。


たとえば、ネットで大炎上したという曽野綾子の「アパルトヘイト発言」がある。曽野綾子は、このアパルトヘイト発言をめぐって、抗議文を送りつけたという南ア大使(女性)と、先日、ラジオ番組で対決したらしい。南ア大使が、「アパルトヘイトを例に出さないでくれ」と、アパルトヘイト擁護発言の謝罪と撤回を求めたのに対して、曽野綾子は、「文学」「作家」を盾に、反論と言い逃れに終始したらしい。「区別と差別は違う」と。


しかも、曽野綾子が「アパルトヘイト」=「住み分け」の根拠にした話、つまり南ア連邦で、アパルトヘイト禁止後、黒人たちが入り込んできたマンションでは、生活習慣の違いから、白人たちはマンションから出て行ったという話は、実は伝聞情報だったらしい。事実かどうかも怪しい話を根拠に、民族ごとの「アパルトヘイト=住み分け」を主張したわけである。


曽野綾子のプライドを支えているのは、自分だけは情報の発信者側の人間だという思い上がりであろう。


情報の発信者は、一部のマスコミや作家たちに限られる。だから、マスコミに対しては、弾圧や取り引きによって、情報統制や情報操作が可能であった。マスコミ関係者たちと、保護と強制・弾圧という取引をすれば、それで、情報統制や情報操作が可能になる。しかし、それが、ネットになると不可能になある。


中学生のネット少年の突撃取材は、警察に警告・恫喝されるが、マスコミの記者たちの傍若無人な取材は黙認されている。警察とマスコミの間に「暗黙の了解」が出来上がっているからだ。言い換えれば、マスコミは、警察や権力側の情報工作、情報統制を受け入れているということだ。中学生のネット少年は、情報統制を受け入れていない。


ネット少年は、「自分の武器はナマだ」と言っている。自分の発信する情報は、権力による情報統制を受けていない「ナマの情報」だと言いたいのだろう。ネット少年にこそ、ジャーナリズムの精神は生きていると言わなければならない。



(続く)

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