「小保方晴子=STAP細胞事件」から「⚫▲◼★➡=刑事告訴事件」へ。その裏に何があるのか?何もないのか?あるいは、当事者たちには、何も自覚はないかもしれないが、大きな視野から見れば、何かがあるのか。では、何があるのか?
「きのこ氏」が誹謗中傷したという。それで、刑事告訴受理?それだけか?「誹謗中傷」なら、多少の差はあれ、誰でもやる。小生は「誹謗中傷なき批評」など、そもそも批評ではないと思っている。誹謗中傷を恐れて批評は出来ない。
僕は小林秀雄や吉本隆明、あるいは江藤淳からそれを学んだ。作品批評だけが批評ではない。ニーチェの言葉に「誰が発言したか」が重要問題だというものがある。発言内容より発言者が重要問題だ、と。つまり、ニーチェは、ソクラテス、プラトンに始まる西欧哲学の歴史を批判するに際して、その思想内容ではな、「誰が発言しているか」を問うたのだ。
例えば、神父や牧師がどんなに立派な発言をしようと、彼等がどういう職業の、どういう立場にいる人間かを忘れてはならないということだ。もちろん、僧侶階級が、天国や終末を語っている。僧侶階級は、「天国」や「終末」を語ることによって、自己正当化を行い、自己の職業的立場を特権化している。
小林秀雄は、ドストエフスキーの『作品論』と同時に、『ドストエフスキーの生活』というドストエフスキーの伝記を書いている。江藤淳は、『夏目漱石』で、作品よりも作家そのものがはるかに重要な、そういう作家がいる、夏目漱石がそうだと言っている。だから、江藤淳の代表作は、『漱石とその時代』という評伝だった。
(続く)
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