文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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観念論的転倒から唯物論的転倒へ、あるいはヘーゲルからマルクスへ。

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昨夜は、柄谷行人の『帝国の構造』のなかの「前後の転倒」という問題について考えてみた。ヘーゲル的な観念論的転倒とマルクス的な唯物論的転倒である。我々は、常に、現実の生活の場面では唯物論的転倒=唯物論的思考を強いられている。しかし、それにもかかわらず、我々は、観念論的転倒を行う。そして、小林秀雄の言う「現実(物)と直接的に向き合う」ことをせず、公式や尺度を使い、観念論的転倒を行ない、観念的思考という楽な道を選ぶ。


ヘーゲル的な観念論とは、結果が分かっていたかのように、考えることである。柄谷行人は、こう言っている。≪ヘーゲルにとって、物事の本質は結果においてあらわれます。すなわち、すでに完了した状態においてのみ。≫≪ヘーゲルにとって、理念は現実に存在する。というより、現実こそ理念的である。だからまた、彼にとって、歴史は終わっているのです。≫



たとえば巨人が4連敗して、つまり阪神が4連勝して、阪神日本シリーズに進出することになった。誰もが、この結果を予想しただろうか?恐らく、誰も予想していない。想定外であった。おそらく、これまでのデータなどから類推して、巨人が勝つだろうと考えていた人たちは、愕然としているはずである。この段階では、彼らは、唯物論的に思考しているのだ。ここには、柄谷行人の言う「驚き」がある。


しかし、結果が分かってみれば、「巨人4連敗」も「阪神4連勝」も、当然、そうなるはずだったかのように、我々は語る。「結果から語る」。結果が分かってみれば、もはや、「驚き」は消える。「ハラハラ、ドキドキ感」もなくなる。


観念論的転倒、観念論的思考とは、結果が分かってから、試合を語ることに似ている。唯物論的転倒、あるいは、唯物論的思考は、「試合の事前」に、あるいは「試合の途中」で、ハラハラ、ドキドキしながら、語る、あるいは考えることである。


「どうなるか、誰にも分からない」段階で、試合の結果を予想する。おそらく予想ははずれる。我々は、試合を客観的、あるいは冷静に語ることが出来ない。マルクス的思考とは、「試合の事前」に、あるいは「試合の途中」で思考することである。結果が分からない段階で無我夢中で考えること、それが唯物論的転倒であり、唯物論的思考である。




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現代日本の論壇や科学ジャーナリズム、アカデミズム・・・を地盤沈下させた「思想的劣化」は、どのようにして起きたのか?拙著『保守論壇亡国論』は、保守論壇だけではなく、左翼論壇、アカデミズム、ジャーナリズム、科学ジャーナリズム・・・を含めて、現代日本人の「思想的劣化」の根源的問題を、哲学的に解明しています。御一読ください。





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