文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

帰郷の予定が延び延びになり、ようやく今日、今、鹿児島中央駅に向かって、東京駅を出発。新幹線も混雑という話だったので、早朝の出発に変更。今朝、3:00ごろから起きている。6::15、博多行き「のぞみ」の二番目に乗ると、意外に席は空いている。読書でもやりながらゆっくり行こう。

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今、新幹線の中で、「週刊読書人」を読んでいる。ハイデガーの「存在と時間」(岩波文庫)の全訳を完成し、一方では、廣松渉の弟子として「マルクス 資本論の思考」(せりか書房)を刊行した哲学者・熊野純彦のインタビューが載っていたので、旅の気まぐれに読もうと思って、わざわざ持ってきたのである。


熊野純彦は、かなり本質的なことを言っている。たとえば、自分の哲学を、いわゆるオリジナルな創造的な哲学ではなく、解説や紹介を中心にした哲学である、と。謙遜もあるだろうが、私は感動した。自分は創造的な哲学者ではない。無論、これは、熊野純彦の言っていることを、私なりに言い換えたものだが。つまり、自分の哲学研究を、古典的な哲学の翻訳や解説、紹介を中心とする地味な哲学研究と見做す。


「たとえば大森正荘蔵先生や廣松渉先生のような仕事を自分のメインにするタイプでもない。もしかするとぼくの仕事は、テキストのコメンタリーにしか見えないかもしれませんが、自分の思考を、古典的なテキストを通じて提示していきたいという思いは強く持っているんです」。私には、立派な自己認識だと思われる。


最近は、哲学もどきの文章を書き散らしている自称「哲学者」が氾濫している。勿論、うんざりする。大学で哲学かフランス思想、社会学を専攻し、博士論文だか雑文だかを促成栽培並みに書き上げ、それをそのまま書籍化する 。お手軽な新書を書き散らす 。それで、もう「哲学者」の誕生だというわけだ。熊野純彦は、そういう「哲学」を、皮肉と批判と軽蔑を込めて「jポップ」ならぬ、「j哲学」(笑)と呼ぶ。そして自分の哲学的立場を、古典やテキストを重視する翻訳や解説中心のものと規定する。私は、熊野の自己認識に深く共感する。


柄谷行人は、もうかなり昔のことだが、廣松渉との対談で、「日本の哲学は、西田幾多郎を例外として、むしろ文芸評論家の方にあったもではないか?」と言った。私は、柄谷の認識は正しいと思う。熊野純彦は、柄谷の著書の解説も書いていたはずだ。


さて、もちろん、熊野のインタビューの話も重要だが、それより前に、たまたま読むことになった「読書人」の「論潮」を担当している中島一夫の「内戦前夜にある『日本』」というエッセイも、分析が鋭く、面白い。ヘイトスピーチについての話だ。中島は、「我々の運動は一種の階級闘争なんですよ」という在特会の広報担当者の言葉に注目する。差別され、排除される「第三世界」は、実は国内にある。


そして在特会の運動を、デマや無知からきた単純な排外主義的運動と、見下すような「批判」を、逆に厳しく批判する。まず、在特会的なヘイトスピーチが、「一種の階級闘争」であることを理解すべきである、と。慧眼、かつ正論である。「左翼だろうと労働組合だろうと、あんなに恵まれた人たちはいませんよ。」「差別されているのは我々の方ですよ。」という在特会側の言葉も胸を打つ。


在特会的なヘイトスピーチ」を行っているのは、どういう人たちか?資本主義のネオリベ化で、階級的脱落の恐怖に怯えている人たちである。彼らこそ、現代の日本社会で排除され、切り捨てられ、差別されている人たちだ 。在特会は潰せても、そういう階層の存在を抹殺することはできない。国内が階級闘争としての内戦前夜になっている。中島は言う、「おそらく、今後「内戦」は激化し、また違った形で現れてくるだろう」と。(続く)


(写真は、浜松辺りの日の出 と関ヶ原近辺の車窓風景。新幹線の中で読んだ柄谷行人の『『世界史の構造』を読む』。今夏のインドネシア大学でもの。その他。)




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