文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

これでも曾野綾子は、シラを切るんか?「曾野綾子研究 8」ー

dokuhebiniki2013-11-09


(写真は、「沖縄集団自決」を取材中の曾野綾子と、集団自決を命じたと言われる赤松嘉次戦隊長?二人は、『ある神話の背景』(『沖縄戦 渡嘉敷島 集団自決の真実』)を執筆前に、名古屋の某所で、赤松部隊の隊員たちとともに、打ち合わせをしていた?)


曾野綾子が隠蔽した「曽根一等兵逃亡事件(朝鮮人軍夫集団逃亡事件)」の真相。これを書けば、「大変なこと」になると曾野綾子は言って書かなかったが、川田文子は、曽根一等兵を探し出し、直接、インタビューを試みている。それによると・・・。ところで、大江健三郎が「新潮」12月号で、「ロングインタビュー」を受けている。最新作『晩年様式集』の刊行を記念してのインタビューと思われるが、そこで、「沖縄集団自決裁判」についても簡単に触れている。
さて、曽根元一一等兵の逃亡事件である。

(川田文子『赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦筑摩書房より。この文章は、「美しい壷日記」http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-169.htmlから引用したことをお断りしておく。)


(続く)


敵前逃亡は発覚すれば死刑は免れない。この生命がけの行動を約二十名の軍夫は呼びかけられると同時に決断した。約二十名もの軍夫がこの決死行を瞬時に決意したのは、それ以前に第三戦隊で、死ぬ以上の苦しみを味わい尽していたからである。軍夫の置かれていた状況からすれば、第三戦隊にとどまって生きのびることの方がむしろ困難だという実感が、曾根氏以上に濃厚だったとしても不思議ではない。

逃亡を呼びかけられたが、踏みきれない軍夫もいた。二三四高地で生き抜く困難を承知していても、逃亡の成功も確信できなかったし、仮に米軍への投降が成功したにしても、米軍が捕虜に対してどのような扱いをするのか、咄嗟(とっさ)には推測できなかったからだ。

―――軍夫長が話したのは一時間もないんだ。三十分か四十分位。それですぐ降りたんすけんな。わずかな時間じゃけん、咄嗟に決断のつかない軍夫はおったんだろうと思う。(中略)

戦隊本部が曾根氏と軍夫らの逃亡を把握したのは午前六時、すでに一行が渡嘉志久(とかしく)に到着している頃だ。最初に連絡に駈けつけたのは、曾根氏と同じ第三中隊に所属していた朝鮮人軍夫の吉本であった。第三中隊の壕から本部まで、たいして離れてはいない。吉本が本部へ報告に行ったのは、一行が二三四高地を出て数時間もしてからだ。

本部から阿波連(あはれん)陣地へ有線通信が通じれば、渡嘉志久に近い阿波連から捜索隊を急行させるということも戦隊幹部は考えたろう。だが、三月下旬の空襲で通信線は切断され、復旧されないまま放置されていた。阿波連とは徒歩以外に連絡の方法はない。軍夫逃亡に気づいた阿波連から駐止斥候隊の連絡兵二名が本部へ駈けつけたのは午後二時半である。そして、曾根一等兵の直属上官である第三中隊長新海中尉以下二十二名が捜索に出るのが午後六時。対応の遅れが目につくが、日中、大がかりな捜索をくり出すのは米軍の砲弾に当たりに行くようなものであったから、日没を待っての出発になったのだろう。

米軍の上陸舟艇で座間味島に連れて行かれた曾根一等兵と軍夫は、別々の収容所に入れられた。慰安所にいた女たちも別の収容所に入れられたようだ。六月三十日未明の数時間、決死の行動をともにした軍夫や女だちとは、それっきりになった。

そして、問もなく、曾根一等兵は米軍の取調べを受けた。通訳には沖縄本島糸満出身だという日系二世の米兵があたっていた。(中略)曾根氏は通訳を通して執拗に繰返される質問に、「自分は無学で地図の見方は分らない」の一点張りで、返答を頑強に拒絶した。担当官は首を大きく横に振って、取調べを断念した。

座間味島の収容所では、阿嘉(あか)島の第二戦隊から投降していた染谷少尉と顔を合わせた。座間味島の第一戦隊長梅沢裕少佐も米軍に投降してすでに久しいと聞いた。

二十名余の軍夫らを率いての曾根一等兵の米軍役降は、第三戦隊幹部に大恐慌を巻き起こしたことが、陣中日誌を辿ると容易に想像される。いや、それ以前、六月二十二日の沖繩本島軍司令部の「最後の斬り込みを敢行す」の電報が、二三四高地の小さな谷問に追い込まれている第三戦隊幹部に決定的な打撃を与えていたに違いない。

二十二日を起点に、これまで大日本帝国天皇の軍隊として第三戦隊を支えてきたものが、急速に崩壊しはじめ、その崩壊感覚の中で赤松戦隊長をはじめ、戦隊幹部は、狂気にかられていく。そのぎざしは、二十六日、軍夫三名に対する“処刑”となって現れた。

〈六月二十六日 作業に陣地蜂に出る者、部落民に糧秣を強要する者あり。強奪せしものは厳罰に処す旨各部隊に通報す。水上勤務隊軍夫三名氏名不詳、恩納河原(おんなかわら)に於いて糧秣を強要したる模様なり。〉

陣中日誌には住民に糧秣を強要した軍夫三名に対する処罰がどのように行なわれたか、明らかにされていない。三名の軍夫は“処刑”されたのである。元第三戦隊副官知念朝睦(ちねんちょうぼく)少尉は、三名の“処刑”にあたったことを証言している。知念副官は沖縄出身の将校である。(中略)日本兵以上に栄養失調に陥っている軍夫が、人目を盗んで住民の食料を盗んだことは確かにあっただろう。(中略)軍夫が日本兵以上に空腹に耐えていることを島の人々は知ってはいたが、同情だけで食物を分け与えられるような余裕は微塵もなかった。軍夫が食物を手に入れようとすれば、
盗むか、強奪するしかなかったのである。

わずかな食料がもとで三名の同胞が日本軍によって殺されたという事件は、軍夫長フクダが曾根一等兵からの米軍への投降を伝えた時、軍夫たちの咄嗟の判断に少なからぬ影響を与えたに違いない。

そして、六月三十日の曾根一等兵と軍夫らの米軍への集団投降成功後には、戦隊幹部の狂気はさらに沖縄住民に向けられていく。

〈七月二日……晴れ 日時不詳。防衛隊員大城(おおしろ)徳安 数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞(おそれ)ありとして処刑す。〉

大城徳安防衛隊員は渡嘉敷国民学校の教頭であった。(中略)

この日の陣中日誌はもうひとつの“処刑”を記している。

〈米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以って陣地に進入、前信(ママ)陣地之(これ)を捕らえ戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状熊を暴路したる上は日本人として自決を勧告す、女子自決を諾し斬首を希望自決を抱(ママ)助す。〉

知念元副官によれば“処刑”されたのは男女四名である。刑執行は、戦隊長命令で経験を積むためにと“斬首”の経験のない者に命じられた。そのため、同名のうち女性一名が完全に死にきれないまま土をかぶせられた。その女性は首筋に重傷を負いながらも自力で土中から這い出し、その場を逃れた。だが、再び捕えられ、二度目の“処刑”は知念副官が行なった。

知念副官は以前、米軍によって渡嘉敷島に移住させられた伊江村民の収容所に情報収集のため潜入したことがあった。その時、逃げ出した女性とは顔見知りになっていた。沖縄出身であることから、知念副官にその女性を逃がした嫌疑がかけられ、二度目の刑執行は知念副官に命じられたのである。

二件の沖縄住民虐殺の後、第三戦隊は思い出したかのように逃亡者捜索隊を再度繰出した。

〈七月四日 知念小(ママ)尉以下十名、曾根一等兵及軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連(あはれん)方面に向い出発す。〉

そして翌日、この捜索隊は″逃亡者四名″を発見、本部に連れ帰る。

〈七月五日 ○二〇〇 須賀上等兵以下二名、捜索隊より帰隊す。一三〇〇 捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し、本部に護送帰隊す。本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。〉

曾根氏が率いた二十名余の軍夫らは全員米軍に投降している。河崎軍曹以下七名の捜索隊が本部に護送したという「逃亡者四名」とは、はたしてどんな″逃亡者″だったのか。少なくとも曾根氏が率いた軍夫でないことは確かだ。

曾根氏が軍夫長フクダを通して脱出を呼びかけた時、決断しきれなかった軍夫が、曾根氏らの米軍投降の成功を見て、その後を追ったことはあり得よう。直接フクダから誘いかけられたのではなくても、同胞の投降成功に力を得て、意を決して行動に走った者がいた、とも想像できる。しかし、それなら、再度起った軍夫らの逃亡は、当然、陣中日誌に記載されるはずだ。が、それにあたる記述はない。

ここでひとつの推測が成り立つ。「逃亡者四名」の発見は、第三戦隊幹部のデッチあげではなかったか。

曾根一等兵と軍夫らが姿を消してから、すでに四、五日を経過している。逃亡者が米軍に投降したことは、間もなく誰の目にも明らかとなろう。食料もなく、米軍にとり囲まれた小さな島で、第三戦隊の目に触れずに生き伸びることなど、とうてい不可能だからだ。投降に失敗して生命を落したとすれば、屍体や遺品がいずれ発見されるはずだ。二十名余の米軍投降成功は、隠し通せはしない。が、第三戦隊幹部は、絶対にそれを看過するわけにはいかなかった。このまま見過ごせば、第三戦隊の統率力はなし崩しになる。少なくとも今後、逃亡の歯止めは何もなくなる。どうしても逃亡者に対する制裁の儀式が行なわれなければならなかった。そこで、事件とは何の関わりもない四名の軍夫が制裁の儀式の犠牲として引立てられたのではなかったか。

制裁の儀式がすめば、逃亡者と逮捕者の人数の帳尻か合わなくても、一応目的ははたせ、「本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ」と、第三戦隊に於ける曾根一等兵と軍夫らの米軍投降事件は、落着するのである。

第三戦隊が六月二十二日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が二件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が一件、計八名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者四名」を加えると、その数は十二名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連(あはれん)の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。また、曾根氏は、軍夫を″処刑″したとして特設水上勤務隊小隊長斎田少尉が捕虜収容所の中で追及されるのを目撃した。

―――あれは軍夫が反抗したとか何とかでなくて、栄養失調で弱って仕事できんようになったんでしょうね。命令しても動けなくなって、坐り込んでしもうた。それを斎田少尉が横着で仕事せんように判断して処刑した。収容所で軍夫たちからだいぶ追及されよったね。斎田少尉もいいわけして、あれは殺さんでも、処刑しなくても死にそうじゃったんじゃ言うてね、いろいろいいわけしとりました。軍夫たちもそれ以上追及しなかった。斎田少尉という人、悪い人でなかったんですけど、見せしめのためにやったんやろ、思うんです。

軍夫の死亡は、第三戦隊による″処刑″はもちろん、四月十六日以降、戦死も、戦病死も、栄養失調による死も、いっさい、陣中日誌には記載されていない。

(中略)話しの途中、曾根氏は老夫人が茶を入れたついでに、しばらく耳を傾けていたりすると、質問への回答を曖昧にはぐらかした。二、三回それが続いて怪訝(かいが)に思っていると、何気ない素振りで私を初夏の庭先へと誘った。午前の澄んだ日射しが心地よかった。塀や垣根といった遮蔽物がなく、庭の造木は周囲の田畑や道にとけ込んでいた。築山や庭木がほどよく配され、手入れのゆきとどいた庭に見とれていると、背後で、外へ連れ出した理由が明かされた。

「あの件は、妻にも家族にも話しておらないんです。私のとった行動は決して恥ずべきことではない、と思っておるが、その一方で、あの一件を明かせば、この辺りでも批難中傷する人が出てくるだろうことも充分承知しております。……」

(中略)私は慄然とした。保守的基盤に執拗に呪縛されている風土の中で、持続し続けてきた老農夫の孤高な反骨の精神に触れた思いがした。(中略)私は曾根氏に、ずっと気になっていたことがらを問おうか、問うまいか、ちゅうちょしていた。どうきり出してよいか分らなかった。しかし、それをちゅうちょして問わないことは、曾根氏にも、披差別部落で、故のない差別に呻吟している人々にも失礼になる。私は尋ねた。

「曾根さんは披差別部落出身で、牛や豚の肉を捌(さば)くのが上手いので、現地自活班に入れられたのだと、赤松さんが言っていたのですが……」

二、三秒、静かな時が流れた。それから、吐息の混った低い声で曾根氏は答えた。

「わたしは違います。しかし、そういうことを言って人をおとしめたつもりになっているあの方の、人間としての品性を疑いますね」

(以上)
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(続く)



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