文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「みのもんた事件」と「徳田虎雄事件」と『保守論壇亡国論』。

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みのもんた事件」はその後、どうなっているのだろうか?週刊文春週刊新潮が早速、「みのもんた」バッシング報道を開始したらしいが、私は、この事件には、最近、急速に政治事件化し始めた「徳田虎雄事件」(徳洲会選挙違反事件)と同様に、何か裏があると思う。私は、『保守論壇亡国論』で、「分かりやすさ」と「単純明快な答え」を求める思考態度に、最近の日本の思想的貧困化=空洞化が体現されていると指摘したが、週刊文春週刊新潮を初めとして、ネットの世界までもが、バカ息子の「個人犯罪」という「分かりやすい物語」で終わらせようとしている。文春の記事によると、「みのもんた」の次男は、慶応高校時代、万引き事件で停学処分を受け、退学の危機に陥ったが、「みのもんた」が多額の寄付金を提供し、それで退学の危機を乗り切ったそうである。しかも、慶応高校は、その「みのもんた」の寄付金で、全校に、クーラーを設置したとか(笑)。慶応高校が「みのもんた」の寄付金でクーラー???「文春」よ、どこまで本気なのか? 馬鹿も休み休み言え、とでも言うしかない。さらに、「みのもんた」の次男がコネ入社(日本テレビ)だとか批判しているが、文春や新潮には、「コネ入社社員」は、一人もいないとでも。私は「みのもんた」も「徳田虎雄事件」も好きではない(大嫌いだ)が、それとこれとでは違う。「みのもんた事件」にしろ「徳田虎雄事件」にしろ、裏に何かがある。小泉純一郎政権時代の再来を連想させる 。「みのもんた事件」も「徳田虎雄事件」も、明らかに政治的事件である。これらの事件を個人犯罪や単純な選挙違反事件と錯覚し、何者かが情報工作する「みのもんたバッシング」や「徳田虎雄バッシング」に煽動され、付和雷同することは、まさに思考停止という他はない。


Amazonに『保守論壇亡国論』に対する本格的な「書評」が掲載されていましたので、ここに紹介します。


ーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーー
■対象を斬る刃が著者自身に返ってくる批評, 2013/9/20
By ドラキュラ (さいたま)
Amazon.co.jpで購入済み(詳細)レビュー対象商品: 保守論壇亡国論 (単行本(ソフトカバー))


 著者はこの本で桜井よし子や中西輝政西部邁ら5人の保守派論客と元外交官の孫崎亨を批判している。批判の根底にあるのは、これらの保守派論客に、小林秀雄の『本居宣長』や田中美知太郎のプラトン翻訳、福田恆存シェイクスピア翻訳や江藤淳の『漱石とその時代』のような、思想や芸術について突き詰めて考え抜いて書いた「作品」がないという主張であり、保守派論客の主張が単純化され、精緻な思考が欠如していることを嘆いている。孫崎については、その単純化された主張が批判の対象になっている。著者はとりわけ江藤淳を模範として、これらの論客を批判しているが、生前の江藤の主張にどれだけ共感できるかで、読者の態度は分かれてくるだろう。評者は保守派論客としての江藤の良い読者ではなかったこともあり、とりわけ西部邁批判には違和感を覚えた。著者は転向者である西部を「遅れてやってきた保守」と断じ、江藤の自殺を辛辣に書いた西部を叩いているが、江藤の『作家は行動する』は埴谷雄高の影響下に書かれたものであり、江藤は当初、小林秀雄に批判的なスタンスであったのが、ある時期から小林を高く評価するようになった。そんな江藤は「遅れてやってきた保守」ではなかったのか。また、晩年の福田恆存が西部を遠ざけたのを福田の清水幾太郎批判と絡めているが、これも著者である山崎氏自身が清水の政治的立場の変更について『現代思想』や『倫理学ノート』、さらには『オーギュスト・コント』などをきちんと読んでいるのであれば、それこそこういう単純な書き方や結論には至らなかったのではないか。本書では天皇や皇室は大きなテーマにはなっていないものの、今は「象徴を論ず」や「當用憲法論」での天皇論が知られている福田恆存こそ、敗戦直後の「近代の宿命」などを読めば、彼が戦前の天皇制をどう観ていたのか、そして敗戦直後の政治状況の成り行きで昭和天皇が退位したり皇室制度そのものが廃止されたりしても、彼が何ら思想的に痛痒を感じなかった立場にあったことは容易に理解できる。さればこそ、晩年に文藝春秋から刊行された全集の「覚書」で、象徴天皇についての誤解を避けるような、弁解めいた一文を福田は書かなければならなかったのだろう。その他にも、文藝誌『文学界』での座談会では、皇族の引退を主張する中村光夫に同意する発言を福田は残している。福田が盲目的に神格化され、清水が論証抜きで罵倒されるのが、果たして本当に正しい批評であり、「保守」の二文字を除いても成立し得る知識人論であるのか。「この道一筋」が高く評価される日本で、転向者が保守の立場で政治的発言を行うことへの偏見や蔑視についても、改めていろいろと考えざるを得ない箇所であった。
 それでも、バブル批判で世に出た元日教組の評論家のような、「俺は貴様が大嫌いだ」式の嫌悪感の表明だけで終わらない論証はなされており、昨今、保守系の雑誌で同じ執筆陣が毎号同じようなことを書いているのに、飽き足りない思いを抱いている人には少なからぬ点で同意できる内容となっている。また、文芸誌『海燕』(今は廃刊)に発表されたままになっていた江藤へのインタビューが収録されたのは、実に有意義で喜ばしい限りだ。このインタビューで江藤は、戦後文学を主導した埴谷雄高大岡昇平を痛烈に批判しており、その発言を引き出したのは聞き手たる著者の功績だろう。二人や中野重治、あるいは小林多喜二などを持ち上げる左翼が地方の文学団体を牛耳り、地方紙や教育委員会が主催する文学賞の選考を壟断している現状を鑑みると、ここでの江藤の発言は今も生きていると強く感じる。
 著者は政治的に立場の違う柄谷行人の主張を高く評価しており、柄谷論をいずれ世に問うようだ。「作品がない」と他者を批判した著者の刃は、今度は著者自身に返ってくる。柄谷論や今後著者が書くものが後世まで残るような「作品」となりうることを、古い読者の一人として強く祈るばかりだ。
ーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーー

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