文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

何故、小沢一郎でなければいけないのか? 何故、竹下や小渕や野中・・・ではいけないのか?

江藤淳は、こう言っている、

「先にも述べたように、ベルリンの壁の崩壊以来、旧ソ連の崩壊やアメリカの地位の相対的低下という事態が相次いで起こった。最近でこそ多くのひと人たちも同様の認識を持つに至っているけれど、『変化の時代が到来した』という認識を平成元年以来持ちつづけてきたのは、小沢一郎とその同志たちである。だからこそ、小沢調査会も作った。・・・」
(江藤淳『大空白の時代』)

。これは、つまり、江藤淳にとって、これから、期待できる政治家は、小沢一郎しかいないということである。さらに江藤淳は、小沢一郎の弱点、欠点として批判の餌食になることが多い権力闘争や分裂騒動、あるいは金権政治についても、全く逆の見解を示している。

あらゆる政治家は権力を求める。権力争いをしない政治家は、要するにたまごを産まないニワトリみたいなものにすぎない。権力争いは、人間にとって性欲と同じくらい強い欲望だからである。したがって、権力争いはすること自体はよくも悪くもない。単に人間の現実そのものというほかはない。/ただ、権力を掌握した時に何をするかが問題なのである。/権力を掌握したら、その権力を行使して国を誤り少なく指導し、一国を指導することによって全世界の安定に寄与するというのが、およそこの世に生を受けて政治に志した人たちの目的でなければならない。/ところが竹下さんは権力を掌握することによって、いったい何をどうしようとしたのか、ちっともわからないのだ。
(江藤淳『大空白の時代』)

いかにも文藝評論家・江藤淳らしい鋭い発言である。おそらく誰でもがそう思っているが、なかなか口に出して言えることではない。そこを、誰はばかるところなく、堂々と主張できるところが、いかにも江藤淳らしいと言っていい。これは、決して、政治記者や新聞記者上がりの政治評論家にはできないことである。世間受けのするタテマエ論か 、毒にも薬にもならないキレイゴトをいうのが関の山であろう。江藤淳が、政治記者や新聞記者上がりの政治評論家たちを侮蔑し、批判・罵倒するのはそこに理由がある。

ところが新聞は「羽田か小渕か」「小渕になったら小沢の負けだ」と完全に既成概念の枠内で考えた記事を書いている。政界再編の可能性が全然見えていない。
芝居に見巧者という言葉があるけれど、いまの新聞記者は見巧者じゃない。こんな面白い芝居が行われているのに、なんと尺定規な味方しかできないのだろうと思うのである。
(江藤淳『大空白の時代』)

江藤淳の「政治記者」、「新聞記者」、「政治評論家」たちへの批判は留まることを知らない。江藤淳は、「政治記者」たちには政治が見えていないだけでなく、まず人間というものが見えていない、人間存在の本質が掴めていないと言っているわけだ。これは単なる揚げ足取りではない。新聞やテレビについて、こんなことも言っている。

 新聞やテレビは、いまこぞって国民は正しくて政治家が悪いといっているけれど、これこそ、偽善の極ではないのか。「少しでも徳を持っている人が君主になるように」と孔子は何千年も前に諸侯を説いて回った。けれど、一度も自分の理想を実現できなかった。
 政治を道徳的にしようと説いて誰にも受け入れなれなかったからこそ、その言行録が「論語」になって残っているわけで、実践では完全に失敗した。孔子も失敗したことを、新聞や放送がやって成功するわけがないではないか。

江藤淳が、1993年に言ったことは、現在もそのまま当てはまる。おそらく10年後も20年後も同じだろう。江藤淳が言っていることは、きわめて原理的なこと、本質てなことだと言っていい。さて、江藤淳は、「カネ」や「金権政治」についてもこんなことを言っている。


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