文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

江藤淳と小沢一郎・・・江藤淳の「それでも『小沢』に期待する」を読む。

今回の小沢事件、小沢裁判を通じて、小沢一郎バッシング報道を続ける新聞やテレビ、つまり大衆を扇動する巨大マスコミにおいて、しばしば言われることは、「小沢一郎には政策がない、天下国家論がない。小沢一郎が関心を持っているのは地位や利権をめぐる権力闘争か、カネ儲けだけだ・・・」という類のものがある。はたして、そうなのか。小沢一郎は権力闘争や金儲けにしか興味ない政治家なのか。江藤淳は、「諸君!」に発表した「それでも『小沢』に期待する」という論文で、まったく別の、反対の見解を述べている。永田町内部の権力闘争や金権問題にしか興味を示さないのは、新聞やテレビの「政治記者」や「新聞記者上がりの政治評論家」の方であって、小沢一郎ではない、と。江藤淳は、冒頭にこう書いている。

92年の8月に、金丸信氏が自民党の副総裁辞任を表明して以降、マスコミは金丸氏の議員辞職竹下派内紛、皇民党への懐柔の疑惑等々について実に夥しい量の報道をしてきました。しかし、こうした報道、ことに竹下派の内紛と称される報道の基礎にある見方は、たいへん古い。いわゆる55年体制下で慣行された分節化ーー本来は言語学の言葉ですが、ここでは区切る、節目をつけるというほどの意味に解していただきたいーーの域を一歩も出ていません。

江藤淳は、ここで何を言おうとしているのか。それは新聞記者や新聞記者上がりの政治評論家の言うことは当てにならないということだ。さらに江藤淳は、竹下派分裂騒動の渦中にある小沢一郎に触れつつ、こう書いている。

竹下派内の小沢派と反小沢派の抗争劇は,実は冷戦後の国際環境の変化に対する日本の政治の、遅まきながらの対応だと私は見ています。つまり冷戦後の国際情勢や世界経済の現状は、従来の文節化では説明しきれないからこそ混乱ないしは混沌とわれわれの眼に映じている。全く同様の、国内の政情も従来の分節化の枠内で見ていたのでは,相も変わらぬ派閥抗争、猿山のボス猿争いに見えてしまう。だが、そいう見方では事柄の本質に穿ち入ることができないのではないか。これが夏以来の政局を観察して得た私の最初の感想です。

江藤淳が、すでにこの1992年の時点で、小沢一郎を取り巻くマスコミの「軽薄さ」な実体を見通していたことは、やはり江藤淳ならではの慧眼という他はない。江藤淳は、竹下派内紛騒動のなかに、単なる派閥後継争いではなく、「冷戦終結後」の世界秩序の構造転換という歴史的な意義があることを見抜いていた。江藤淳が批判する政治記者や政治評論家たちとは違う視点である。つまり、竹下派内の内紛劇は、誰が跡目を相続するかというような形態をとっているように見えるが、実は、自民党や永田町を超えて、日本国内はもとより、国際情勢や安全保障にも関わる重大な問題を内包しているというわけだ。それが分かっているのは小沢一郎という若い政治家だけではないのか、というわけである。そこで、江藤淳はこう断言する。

さてしかし、少し真面目に考えてみると、政治改革のための具体的な方策を持ち、それを実践しなくては新しい時代に即応する政治体制が確立できないと主張しているのは羽田・小沢グループの側であって、竹下、小渕、橋本、梶山らのグループではない。


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