文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「小沢裁判」とは何だったのか?小沢一郎裁判は、結局、無罪判決で終わった。言うまでもなく、この無罪判決の意味は小さくない。しかし、むろん、判決の中身が問題なのではない。つまり無罪判決の理由を説明した判決文、たとえば「政治資金規正法に違反しているかどうか」「小沢一郎と秘書の間に共謀関係が成り立つかどうか」というような判決文の内容が問題なのではない。裁判官が、苦し紛れに、無罪判決を出さざるを得なかったという事実だけが重要なのである。

そもそもこの小沢一郎裁判は、裁判自体が「無効」であった。何者かがデッチアゲた、政治的謀略としての政治裁判であり、いうなればインチキ裁判であった。では、 誰が、何のために、小沢裁判を仕掛けたのか。


政権交代を実現し、政治改革を実現しそうな剛腕政治家・小沢一郎・・・。戦後日本を奴隷国家たらしめてきたアメリカという帝国主義国家からの独立を志向する政治家・小沢一郎・・・。米軍のプレゼンスは、第七艦隊で充分だと言い放った小沢一郎・・・。「官僚主導から政治主導へ」と、官僚主導の政治構造を批判する小沢一郎・・・。



その小沢一郎を、政治的に抹殺し、政権交代と政治改革を妨害し、日本という国家を「奴隷国家」のままにしようとして、巨大マスコミを総動員した情報操作を通じて、巧妙に仕組まれた「政治裁判」、それが小沢一郎裁判であった。有罪か無罪かを議論すること自体が無意味なのである。つまりこの裁判は「有罪ありき」が前提の裁判であった。その意味で、こ裁判が無罪判決で終わったという事実は重要である。いわば、この政治裁判が行き詰まったということであり、この政治裁判が挫折したということだからである。この「無罪判決」で、裁判自体が存在しないことになったからである。


小沢裁判では、裁判が進むに従って、「裁かれるべきは小沢一郎ではなく、検察と最高裁である」「裁かれるべきは巨大マスコミである」という意見が強くなってきたが、ここにこそ小沢裁判の問題の本質がある。まさしく、裁かれるべきは、「検察」「裁判所」「マスコミ」「親米属国派文化人」「・・・」であることが暴露されていったという意味で、この裁判の歴史的意義は大きい。


そこで、あらためて、ここで、小沢一郎裁判とは何であったのか、を総括してみたい。


その前にまず、小沢一郎という政治家の本質について考えてみたい。小沢一郎とはどんな政治家なのか。

ある程度、客観性を担保するために、文芸評論家・江藤淳とカレル・ヴァン・ウオルフレンの「小沢一郎論」から見てみよう。
まず、江藤淳小沢一郎論から・・・。私が「小沢一郎」について語る時に、常に脳裏に思い浮かべている「それでも『小沢』に期待する」(「諸君!」1993年1月号、『大空白の時代』PHP研究所所収)という江藤淳の論文があるが、そこで江藤は、斬新な「小沢一郎論」を展開している。当時の政治情勢はと言うと、宮沢喜一が総理大臣ではあったが、田中派の流れをくむ経世会内部で竹下グループと小沢グループの対立と分裂騒動が起きていたいた。やがて小沢グループが離党、新党結成を画策し、宮沢内閣下での衆議院選挙の結果、それまで万年与党であった自民党が下野することになり、それに対して小沢主導の「連立政権(細川首相)」が成立するという政界激動の直前であった。


江藤は、この時期の政界の重要問題は、竹下と小沢の対立と権力闘争にあるという前提に立ち、竹下登小沢一郎の政治手法の違いを論じながら、独自の小沢論を展開している。

それに対して、派を割ってでも、あるいは自民党そのものを分裂させてでも、冷戦後の国際情勢に対応しなくてはいけないと、小沢グループは考えているように見受けられる。そこには非常にはっきりした政策目標がある。(中略)小沢氏というのは不思議な政治家で、要するに政策を実現することが第一義、そのために自分がいつ総理になるかは二の次の課題であって、現在、輿望を吸収出来る人物が羽田孜氏であれば羽田さんを担ぐ。誰が総理になるかならないかは二の次の問題、政策の実現こそが緊急の課題だということをハッキリと打ち出している人間が出てきたということは、戦後日本の政治史上まことに驚くべきことだと言わざるを得ない。

次にカレル・ヴァン・ウォルフレンの小沢一郎論から。

『小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりである。ヨーロッパには彼に比肩し得るリーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない』
(アムステルダム大学教授、カレル・ヴァン・ウォルフレン)

この二つの小沢一郎論を読んで、「なるほど」と納得する人は少ないかもしれない。余りにも、マスコミを中心に出来上がっている「悪」「壊し屋」「金権政治家」・・・という「小沢一郎イメージ」とかけ離れているから当然であろう。しかし、江藤淳やカレル・ヴァン・ウォルフレンが、どいう人かを考えてみると、この二人の小沢一郎論が、信用できない、荒唐無稽なものと思う人も、そんなに多くはないだろう。

そもそも、政治的な野心と能力のある政治家が、様々な手法を駆使して膨大な「カネ」を集め、そのカネの力に物を言わせて、権力を奪取し、本来の政策目標の実現を目指していくことは、果たして批判されるべきことなのか。カネを集める能力も権力奪取を目指す権謀術も人身掌握術も持ち合わせていないような「清廉潔白」な政治家が理想の政治家なのか。言うまでもなく、私がもっとも嫌悪し、そして同時に排除しなければならないと考える政治家とは、政治的な野心も能力もなく、そしてその結果として当然のことながら、カネを集めることも権力を奪取する智謀もなく、むろん政策目標を実現する独裁的な豪腕力もない似非政治家である。


例外も無いわけではないが、テレビや新聞、雑誌というような伝統的なマスコミを中心とした「小沢批判」の言説の蔓延は、むしろ私は、それこそが問題だと思うが、一見すると「清廉潔白」だが、実はカネも力もない無能政治家にすぎない政治家失格者の跋扈を許すことになっているのだ。


 私は、江藤が、ここで小沢一郎という政治家を、「不思議な政治家」と呼んでいるところに、江藤の読みの深さを、つまり存在論的思考とでも言うべき深い、根源的な思索を感得する。それは、明らかに道徳主義的な、あるいは倫理主義的な読み方ではない。つまりイデオロギー優先の読み方ではない。「小沢一郎暗黒裁判」に際して改めて読み直してみたい論文である。江藤は、ここで、政治家の「権力欲」を批判も否定もしていない。むしろ、こう言っている。

もちろん、権力を獲得し維持しようとするのは、政治家のエネルギーの源泉であるがゆえに、それ自体を否定することは誰にも出来ない。けだし権力欲は、性欲と同じぐらい本然的な欲求であって、政治家が権力欲を抱いて、それをあからさまにぶつけ合いながら戦うのは、洋の東西を問わない現象だからです。

 ここで、江藤が言っていることは、平凡な常識に過ぎないかもしれない。しかし、こういう発言を雑誌メディアで堂々と展開することは容易ではないことは、昨今のマスコミの論調を見るまでもなく明らかである。さて、江藤は、こういう前提に立って、「小沢一郎」を、「権力を獲得すること」「総理大臣になること」を第一義としない政治家、つまり「自らが権力を獲得した暁には何をやるかをはっきりと示した…」政治家と見做し、それを、近来稀な「不思議な政治家」と呼んだのである。


私は、江藤の「小沢一郎論」やその後の政界変動の「読み」が当っていたかどうかを問題にしているわけではないが、江藤は、この論文を、こう締めくくっている。

となると、そこでいち早くその方向に踏み出そうとしているグループが力を得ることになるのか、それとも、にもかかわらずそのグループがかつての経験律によって押し潰され、政界だけが混迷をたどるのか。もし経済が混乱して、政治の世界もまた混迷しつづけるとなると、これは大変な危機になります。平成にして日本の炉心溶解ということになりかねない。まさかそうではあるまいと期待して政局の帰趨を見守りたいものです。

 

繰り返すが、江藤の予測が当っているかどうかを問うつもりはないが、ほぼ江藤の予測どおりに事態は進行していると考えられる。いろいろ紆余曲折はあったにしろ、「小沢グループ」が権力を得ようとしていることは明らかであり、それを阻止しようとする検察やマスコミの連合軍との熾烈な権力闘争が繰り広げられているのが、現在の日本である。





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