文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ブラック・ジャーナリスト松田賢弥は何故「学歴」を隠すのか??? 松田賢弥は、小沢一郎の「2歳の時水沢へ移住、中3で水沢から上京し、区立中学を経て小石川高校 、慶應義塾大学経済学部、日大大学院、そして父親の急死で日大大学院を中退し、衆議院に立候補、27歳で当選・・・」という「学歴」や「経歴」を、嫉妬と羨望のまなざしで、強調して書いているが、それに対して、松田賢弥自身の学歴や出生については、何も書いていない。「岩手県生まれ」とか「北上市出身」とあるだけで、後は空白である。松田賢弥が、しばしば「中卒」や「集団就

言うまでもなく、別に僕は、ガセネタ・ジャーナリスト松田賢弥の学歴や職歴を知りたいわけではない。ただ、その二元論的書き方が、あまりにも単純素朴で不自然であり、それこそ物書きにあるまじき「お涙頂戴」的、「勧善懲悪」的書き方であり、こんな稚拙な論理構成の文章の書き方でよく講談社文藝春秋という超一流出版社のエリート編集者を相手にジャーナリスト稼業が務まるものだと不思議に思うだけである。誤解を恐れずに言えば、日の当たる「エリートコース」を驀進する小沢一郎に対して、「中卒」「集団就職」「貧しい東北農民」「出稼ぎ」「雪深い農村地帯」「大震災に見舞われた東北漁師」・・・という安っぽいメロドラマ的な「東北イメージ」、古臭いステレオタイプの「東北イメージ」を、「小沢一郎批判」の便利な小道具として強調したいがために、つまり松田賢弥自身が「東北イメージ」を具現化した存在であるかのように偽装するために、あえて「学歴」や「経歴」を書いていないのだろうかと邪推したくなるほどである。松田賢弥は、、『闇将軍 野中広務小沢一郎』の文庫本(講談社+α文庫)の「あとがき」で、こんなことを書いている。

岩手ーー。冬の吹雪の朝だった。ローカル線の無人駅までの道を、黒い外套をはおり、手拭いで頬っかむりをした二、三十人の男らが列をなして歩いていた。リュックや大きな風呂敷包みを背負っていた。奥羽山系のからの吹雪がモミがらのように頬を打ちつけているにちがいない。駅のない川向うから歩いてきたのだろうか。幼い私が後に知ったのは、彼らは遠い東京へ出稼ぎに向かう人々だった。

これは出稼ぎの話だが、この出稼ぎに行く男たちを見ていたらしい松田賢弥が、いったいどういう立場で、何処にいるのかよく分からない。この出稼ぎの男たちのなかに、明らかに松田賢弥の父や兄は含まれていない。とすれば、松田賢弥は何が言いたいのか。自分は、彼らの代弁者、彼らの苦労や苦悩を理解し、彼らの思いを表象し、代行していると言いたいのか。よく分からない。要するに、この出稼ぎに行く男たちは、松田賢弥の近親者でも知り合いでもないということだ。もう一つは、集団就職の話。

東京に集団就職に向かう中学を卒業したばかりの子らを見送りに東北本線のの駅まで行ったことがあった。男の子は一様にツメ襟の学生服の上に、新調したばかりの白っぽいコートを着ていた。ソデが長く、手首まで隠れていた。女の子は髪を三つ編みに結び、リンゴのように赤く染まった頬をしていた。皆、十五歳だった。駅に来ていたのはほとんど母親で、地元の人が「角巻」と言う赤い毛布のような外套をはおっていた。列車の発車を告げるベルが鳴った。「」頑張れよ。身体、壊すんでねえぞ。ちゃんと食うものを食ってなあ」(中略)母親らは軍手のようにゴワゴワした手袋であふれる涙をこすっていた。これが私の岩手であり、私を育ててくれた人々だった。

これもおかしい。不思議な文章だ。集団就職の子供たちの中に、言うまでもなく松田賢弥はいない。松田賢弥は、集団就職の子供たちを、気の毒そうに見ているだけである。この描き方を見ていると、松田賢弥自身には集団就職の経験はないと思われる。少なくとも集団就職の少年少女たちの中に、松田賢弥はいない。松田賢弥は高校に進学したのだろうか。何処の大学へ進学したのだろうか。そのことは書いていない。ただ、同じく岩手の水沢で育ったはずの「小沢一郎少年」だけが、中三で上京し、何の苦労もなく、小石川高校、慶応大学、代議士、大臣、日本政界の実力者・・・へとのし上っていったのが許せない、と言いたいらしいことは、「私はその小沢を、働きずくめだった人人に育てられた一人として、許すことができなかった」「私は小沢に負けたくなかった。ものいわぬ農民でありたくなかった」と書いてあるところからも、分かる。繰り返して言うが、松田賢弥自身は、どういう経路、学歴、職歴を経て、講談社文芸春秋にに出入りするようになり、そして講談社から何冊も本を出すようになったのか。

これが私の岩手であり、私を育ててくれた人々だった。その人々は、朝早くから暗くなるまで、田圃に顔を押しつけるようにして腰を曲げて這いつくばり、土くれだった手で雑草を抜き取っていた。その合間にはどの親も土方仕事をしていた。それでも東京に出稼ぎに出て行かなくてはならない。中学を出たばかりの子を親元から離し、働かさなくてはならなかった。後に物書きのはしくれとして、岩手の生んだ民主党副代表・小沢一郎を書くに至った原点はそこにあった。

「甘ったれるのもいい加減にしろ」と江藤淳は、太宰治の小説について書いているが、それにしても、松田賢弥の「甘ったれ方」はすごい。「貧しい東北」の怨念が、何故、同じ東北・岩手が生んだ大政治家に向かうのか。郷土の誇りに、何故、ならないのか。はたして、東北の、あるいは岩手県水沢の男たち、女たち、そして少年少女たちは、水沢という郷土が生んだ「剛腕政治家・小沢一郎」に対して、松田賢弥ほどの激しい怨念のような憎しみと怒りを感じているだろうか。そんなはずはあるまい。むしろ、成功者をひがんだりねたんだりするのではなく、盛り上げていく土地柄なのではないのか、岩手県、あるいは水沢というところは。後藤新平高野長英、そして斉藤実・・・。水沢の生んだ偉人達である。さて、明らかに、松田賢弥の書き方には、松田賢弥特有の屈折した自己欺瞞、つまり詐欺的なレトリックが隠されている。松田賢弥は、出稼ぎとも集団就職とも関係ない。ただ、小沢一郎を批判・罵倒するための装置として「出稼ぎの男たち」や「集団就職の少年たち」という、この通俗化された安直なむ「東北イメージ」が必要だったと言うだけのことだろう。それでなければ、一昔前の歌謡曲の唄いすぎ、あるいは映画の見すぎである。さて、実は「貧しく暗い東北イメージ」を強調するブラック・ジャーナリスト松田賢弥の背後には野中広務がいる。「部落出身」を売り物にし、「部落差別」を世渡りの武器に政界でのし上がり、「小沢一郎」というエリート政治家を目の敵にする野中広務である。松田賢弥は、2005年9月6日、『闇将軍 野中広務小沢一郎』で、こう書いている。

こんなことがあった。小渕恵三元首相が倒れてから一ヶ月後の2000年5月5日朝、野中から電話があった。森喜朗内閣の幹事長だった野中はこう言った。
「君は小沢をもう書かないのか。同じ岩手出身だから、かわいそうなんだろう・・・・・・」
電話の向こうの野中は薄笑いをしているようだった。私には、小沢をかわいそうだから同情して書かない理由はどこにもなかった。小沢は、野中にとっては依然、怨念の対象であったが・・・・・・

僕は、松田賢弥が、野中広務と、いつ、何を切っ掛けに親しく交流するようになり、松田賢弥が何を目的に野中広務の情報謀略工作の「手先」として活動するようになったのかは分からない。しかし、ある時点から、松田賢弥の書くものは、野中広務自身が書いたものと見間違うほどのものになったように見える。松田賢弥は、小沢一郎バッシング本だけではなく、たとえば、『逆臣 青木幹雄』や『小泉純一郎』という本も書いて、激しく青木幹雄小泉純一郎を批判しているが、いずれも情報源はは野中広務であることはあきらかであり、本文を熟読するまでもなく、野中広務の視点から、野中広務の政治的生き方を擁護、弁護するかのように書かれている。言うまでもなく、青木幹雄小泉純一郎も、野中広務の政敵である。野中広務に対する厳しい批判は書かれていない。情報源がほとんど野中広務だとすれば、それも当然のことだろう。松田賢弥の本は、野中広務という政治家の人間性を知る上ではおおいに勉強になるが、政治関係の書きものとしてはゴミクズ以下である。たとえば、『角栄になれなかった男 小沢一郎全研究』には、今ではガセネタだったということを誰でも知っている話だが、水谷建設の前社長川村尚が、日航ホテルで、紙袋に入った5000万円の札束を、「石川秘書」に手渡したという話が延々と書き記されている。また別の個所では、「捜査報告書偽造事件」として知られることになっ田代検事の証言を鵜呑みにしたらしく、田代証言を、これまた延々と引用しつつ、「石川秘書」を批判している。講談社は、こんなガセネタ本をいつまでも店頭に置いておかず、即刻、回収し、絶版にすべきだろう。



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