文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

青山繁晴や関西テレビをはじめ、テレビや新聞は、何故、検察の問題を、たとえば「検察と米国」というポストコロニアリズム的な植民地支配の実態を報道しないのか。あるいは「検察と米国」の植民地支配の実態を報道できないのか。マスコミもまた、そのポストコロニアリズム的な植民地支配の「手先」となっているからではないのか。テレビや新聞で、米国の日本支配に加担するジャーナリストよ、「国家とは何か」を哲学的に思考したことはないのか。

日本という国家が、いまだに米国のポストコロニアリズム的な植民地支配の対象になっていることを象徴する「小沢一郎暗黒裁判」が始まった。小沢一郎は「意見陳述」で、「裁判そのものの無根拠性」と、「検察との全面対決」の姿勢を鮮明にした。小沢一郎は、「裁判はただちに打ち切るべきだ」「明白な国家権力の乱用であり、民主主義国家、法治国家では到底許されない暴力行為」と激しく検察を批判した。日本の現役政治家で、最高実力者の一人である小沢一郎が、国家権力の象徴である検察や裁判所などを標的に、左翼系の革命家顔負けの「闘争宣言」をするということは、日本という国家にとっても明らかに異常事態である。佐木隆三は、田中角栄の裁判を傍聴したが、田中角栄は検察などを激しく批判するようなことはなかった、と暗に小沢一郎が「小物」であるかのように、テレビのインタビューでコメントしていたが、佐木隆三の「裁判報道」の思想的レベルを象徴していると思わないわけにはいかなかった。所詮、佐木隆三なんて、こういう究極的・本質的、政治的な裁判闘争というような場合には役立たずの「三流の通俗作家」でしかないということを自分から暴露している。検察そのもの、裁判そのもの、を一度も疑って考えたことがないということが、佐木隆三のコメントから読み取れる。毎日、裁判所に通って、裁判を傍聴しているとはいえ、検察や裁判所の周辺情報を、芸能レポーター並みに書くしか能はないのだろう。さて、「裁判傍聴記者」に堕落した佐木隆三がそうであるように、あるいは「真犯人は小沢一郎、主役は小沢一郎・・・」「小沢一郎湾岸戦争で一兆円フトコロに入れた・・・」と関西テレビで、気でも狂ったかのように叫びまくる妄想病患者・青山繁晴も、こんな確証のないガセネタを堂々と放送して恥じない人権無視の妄想テレビ局「関西テレビ」も問題外としても、日本の新聞やテレビの記者たちは、「小沢一郎暗黒裁判」の深層、「小沢一郎暗黒裁判」の真相を報道することは出来ないように見える。司法記者クラブの情報を、馬鹿の一つ覚えのように、批判的考察なしに、垂れ流すことしか出来そうもない。まさに東浩紀のいう「動物化するポスト・モダン」である。ブタなみの思考力というわけである。せっかく、裁判、検察、国家などの本質について考えてみるいい機会なのに、むしろそれを必死で隠蔽し、国民の眼から遮断しようとしているわけである。一昨日の「小沢一郎記者会見」でも、自民党の幹部あたりが盛んに叫んでいる謀略発言に単純に洗脳されたのか、「国会で説明するつもりはないのですか・・・」と質問した若い記者(TBSの馬鹿記者?)がいたが、逆に小沢一郎に、「君は三権分立を知らないのか・・・」「もっと勉強してから質問しろ・・・」と恫喝されていたが、テレビや新聞の記者の頭の悪さを象徴する一幕であった。さて、小沢一郎は、「意見陳述」で、検察による国家権力の乱用を指摘し、検察を激しく批判した。つまり「小沢一郎暗黒裁判」の本質が、有罪か無罪かというレベルの問題ではなく、検察そのもの、あるいは裁判そのものの根拠が問題であることを宣言した。僕は、小沢一郎の検察批判から、中国の文化大革命時代の末期の「四人組裁判」とイラクの米国主導の違法な「フセイン裁判」などを連想した。民主主義がどの程度成熟しているかどうかはともかくとして、日本のような民主主義国家で行われる裁判としては明らかに異常事態である。日本の国家権力は、乱暴な裁判を承知の上で「四人組裁判」を強行しなければならなかった中国や、アメリカという国家外の外国勢力によって主導された違法裁判「フセイン裁判」を受け入れざるを得なかったイラク・・・並みに追い詰められている、つまり今の日本は、文化大革命の頃の中国や、米国に占領されたイラク並みに「国家的危機」状況に追い詰められているということなのか。少なくともむ「小沢一郎暗黒裁判」は、日本が、国家的危機に追い詰められていることを象徴している。そこを語れない日本の新聞やテレビは、もはやジャーナリズムでさえない。国家権力の補完装置、「国家のイデオロギー装置」(ルイ・アルチュセール)でしかないことを自ら暴露していると言わなければならない。したがって、「小沢一郎暗黒裁判」の表層的現象を追いかけるだけでは、つまり政治資金収支報告書の虚偽記載や記載時期のズレがどうだとか、共謀・共犯が成立するかどうか、あるいは小沢一郎金権政治家かどうか、というような表層的なことに眼を奪われていると、本来の「小沢一郎暗黒裁判」が提起している問題の本質を見失うことになる。何故、国民もマスコミも、そして官僚や政治家たちも、「小沢一郎暗黒裁判」に固唾をのんで見つめているのか。「小沢一郎暗黒裁判」が日本国家の独立という問題に直結する裁判だからだ。だから、我々は、政権交代を前にして「小沢事件」なるものが始まって以来、何か次々と起こったかを忘れるべきではない。つまり「小沢事件」が、いつ、どのようにして始まったのか、「検察審査会」のいかがわしさ、「マスコミ報道」の政治性、「在日米軍司令部」の動き、さらには「東京地検特捜部」という組織は実は米占領軍主導で構想された組織であることなど、「小沢一郎暗黒裁判」の本質的な問題を追及していかなければならない。テレビや新聞の記憶喪失的な、表面的な裁判報道に洗脳されてはならない。敵は、政権交代を目前にして、米国の植民地支配に逆らう小沢一郎という日本の国民政治家を、法廷という場所に引きずり出し、さらし者にし、「国民生活第一」を政治信条とする小沢一郎の政治的パワーを奪取すること自体が、最大の目的なのだ。それ故、小沢一郎が「意見陳述」で言っているように、この裁判自体を、ただちに打ち切るべきなのだ、という思想と心構えを持つことが必要だろう。「小沢一郎暗黒裁判」の結果が問題なのではない。「小沢一郎暗黒裁判」そのものの政治性が問題なのだ。(続く)


(続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから、http://www.mag2.com/m/0001151310.html

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ



小林秀雄とベルクソン―「感想」を読む

小林秀雄とベルクソン―「感想」を読む

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

新版 日米戦争は終わっていない―宿命の対決 その現在、過去、未来

新版 日米戦争は終わっていない―宿命の対決 その現在、過去、未来