文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

府中本町の一夜・・・府中にて 友と語らい 帰る道 今こそ唄え 「高石かつ枝」・・・

昨夕、五時に、井口時男さんと、武蔵野線南武線がぶつかる「府中本町」駅で待ち合わせ。駅の近くの居酒屋に。「病気の話」(病気自慢話?)から始まり、「大震災」「原発事故」をめぐるマスコミ、文化人の「いい子になりたい言説」の徹底批判へ。しかし、一番盛り上がったのは、二人だけの共通の秘密「高石かつ枝」の話だった。「高石かつ枝を知らない奴は日本人じゃない」というぐらいに、チカラを入れて「高石かつ枝」について語り、セーラー服姿で「りんごの花咲く町」を歌う高石かつ枝の動画を、僕のiPhoneで見ながら、周辺の客も無視して、ニヤける「二人」であった。しかし、井口さんが、散歩の時、持ち歩いているというiPodには、高石かつ枝の曲がほぼ全曲入っているらしい。「高石かつ枝のことなら、負けませんよ」というわけだ。はい、負けました。完全に脱帽。しかし、それにしても、何故、高石かつ枝の代表的なヒット曲は「リンゴの花咲く町」なのだろうか。「リンゴ」というだけで、何故、心が騒ぎだすのだろうか。島崎藤村の「初恋」や「黒髪」以来、日本的ロマンチシズムというと「リンゴ」というのが定番だからだろうか。最近、二回ほど長野県に行って、僕ははじめて「リンゴの木」というものを見たが、それまでは「リンゴの木」そのものがどんなもものかはまったく知らなかった。信州長野県の山奥でリンゴの木の実物を見て、ああ、なるほど、リンゴの木は、やはりロマンチシズムに相応しい木なのだと感じたが、それまでリンゴの木も知らずに、「リンゴの花咲く町」に感動していたのは、何故だろうか。ところで、文藝評論家としての井口時男は厳しい「ロマン主義批判」の人である。その人が、ロマン主義そのものの「高石かつ枝」が好きだというのだから不思議だ。しかし、考えるまでもなく、これは不思議でもんでもない。ロマン主義者だからこそロマン主義の嘘と欺瞞が見えるのだ。つまり凡庸なリアリストにはロマン主義者の嘘も欺瞞も見えないということだ。たとえば三島由紀夫ロマン主義者だったのかリアリストだったのか。ドストエフスキー無神論者だったのか、それとも熱烈な信仰者だったのか。いずれもどちらでもないし、どちらでもあるのだ。さて、冗談はこれぐらいにして、本題に入ろう。井口時男が、大震災や原発事故めぐるマスコミや文化人たちの「言動」を批判していることは、前回、書いた。あまり知られていないと思うが、「文藝思潮」というマイナーな雑誌がある。そこの座談会「大震災と文学」での発言である。井口の主張は、科学の発展は止められない。科学の失敗や限界を克服していくには、科学自身の進歩・発展によるしかないというのが基本哲学である。原発が大事故を起こしたからと言って、安易に原発を廃止し、原発を追放すれば、それでいいというものではない、と。ここで吉本隆明井口時男は一致する。一度、味わった禁断の果実、つまり「リンゴ」の味を知ってしまった以上、我々は、もう「リンゴなしの生活」には戻れないし、戻ることは不可能というわけだ。したがって、安易な「反原発」や「脱原発」の声に付和雷同するマスコミや文化人を、井口時男は、「堕落したヒューマニズムごっこ」として厳しく批判することになる。それこそ、安っぽいロマン主義であるというわけだろう。過激なロマン主義者だからこそ、安っぽいロマン主義者たちの言動に潜む嘘と欺瞞が見えるのだ。(続く)

井口時男の近著。
『少年殺人者考』(講談社)


『暴力的な現在』(作品社)

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