文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

江藤淳とその時代(1)---今日は江藤淳先生が亡くなった日だ。江藤先生の『小林秀雄』を読んで、慶應の学生だった僕は、文芸評論家になろうと決断した。江藤淳。すべてが格好よく、「あこがれ」の人だった。

7・21。今日は、江藤淳が亡くなった日だ。10年ぐらい前のこの日、大雨が降り、下水から水が溢れ、道路は水浸しになった。江藤淳が、鎌倉の自宅の風呂場で、手首を切って自殺したというニュースが流れてきた。信じられなかった。あれだけ自殺や挫折を嫌悪し、拒絶し、批判してきた江藤先生が、いかなる理由があったにしろ、自ら自殺するなんて・・・。しかし、受け入れざるをえない現実だった。遺書が残されていたと言う。「江藤淳は形骸に過ぎず・・・」。僕は、すぐ鎌倉の御自宅に駆けつけた。その日か、あるいは翌日だったかもしれない。先生の顔をもう一度、見て、この目に焼き付けておきたかったからである。すでに、新潮の坂本編集長や福田和也をはじめ、多くの人がつめかけていた。いつも、正月明けに行われる新年会の時のようだった。ただ江藤先生の顔がそこに見えないだけだった。坂本さんが、「君も見ておいた方がいい」と奥の和室へ案内しててくれた。江藤先生は、静かで、穏やかな顔で眠っていた。

心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。 去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし 以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸 を断ずる所以なり。 乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。 平成十一年七月二十一日」。

今、江藤淳は、実質的に忘れられている。時々、新聞や雑誌などで江藤淳という文字を目にするが、それらは江藤淳が忘れれられていることと矛盾しない。「江藤淳全集」も企画されていたはずだが、何時の間にかたち消えになったらしく、だれもそいう話はしなくなった。生前、あれほど華々しく文壇や論壇やジャーナリズムで活躍した人であるにもかかわらず、死後の江藤淳は、むしろそれが当然なのかも知れないが、完全に忘れられていると言っていい。おそらく江藤淳の死後、日本の思想状況は大きく変化した。もはや江藤淳の時代ではないというわけである。しかし、僕は、そこに現代日本の問題点と病巣があると考える。江藤淳には二つの顔があった。文芸評論家の顔と、もう一つは政治評論家の顔である。この二つの顔が江藤淳の中では分裂していなかった。江藤淳の根本思想は「治者の哲学」とでも言うべき思想だった。今、日本の文壇、論壇、ジャーナリズム、さらにネット論壇から消えたものこそ、、この「治者の哲学」だ。
(続く)

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