文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

松浦寿輝の『不可能』を読む。

吉本隆明は、ある雑誌のインタビュー記事によると、今、87歳だそうである。とすれば、三島由紀夫が生きていたとすれば、今頃は、いくつになっているだろう。三島由紀夫は、たしか吉本隆明と一歳違いだが、しかし同学年だったはずだ。とすれば87歳か86歳か。そういえば江藤淳もいたな。江藤淳先生が亡くなったのは七月二十一日、大雨の日だった。昨日の大雨で、ふと江藤先生の亡くなった日を思い出した。さて、三島由紀夫が生き延び、つまりあの時に死なずに逮捕され、裁判を経て刑に服し、監獄暮らしから出てきて、今、老後を暮していたとしたら・・・という不可能な設定のもとに書き継がれた物語。それが松浦寿樹の新作『不可能』である。三島由紀夫ほど穏やかな日常を嫌い、畏れた作家はいない。「夭折の美学」というロマンチシズムを嫌悪し、軽蔑した三島由紀夫だったが、そこには「夭折」の憧れと嫉妬があった。そしてぎりぎりの「45歳」で、いわゆる三島由紀夫事件を引き起こし、割腹・自決したのだった。我々は、政治的にも文学的にも、まだその余韻の中にいる。三島由紀夫とは何だったのかが、まだ解明されていないからだ。さて、三島由紀夫が老人として老後を過ごしていたとしたら、どういう老後を過ごしていたであろうか。適当に生活と妥協し、穏やかな老後を過ごしていたであろうか。小説『不可能』は、平岡老人(三島の本名)が80代まで生き延びて老後を過ごしているという前提で始まる。もう若い時ほど退屈するわけではない。しかし、それも束の間、平岡は、世間をアッと言わせるような「何か」をやりたくなるのだった。若い彫刻家の卵「S」が呼び出される。退屈しのぎに石膏の彫刻を作らせ、さらに何か面白い事件の相棒役をやらせるためである。面白い事件とは、平岡老人が首を切断され、首なしの胴体とは別場所で発見されるという血腥い猟奇事件である。「あの平岡が首なし死体で発見・・・」というわけで、何十年か前の「三島事件」を連想しつつ、テレビや週刊誌は大騒ぎを始めるが、全ては平岡とSが仕組んだ芝居である。平岡の身代わりとして殺された老人は大阪の場末の日雇い労働者である。平岡とエスは中米の某国へ逃亡し、日本で起きた猟奇事件とその後のマスコミ報道、最後に平岡と会話したという役回りの政治家の生々しい証言など、新聞で読みながら、「しかし、馬鹿ですねえ」と語りつつ、シャンパンのグラスを傾けている。テレビや新聞の報道も、フランス文学者や哲学者のもっともらしい解釈も、もちろん議員の証言も、勝手にでっち上げられたもので嘘に過ぎない。いずれ、警察によってその嘘も暴露されるだろう。しかし、面白ければ一瞬ででもいいのだ。「いかなる『本当』もこの世にはありえない」「首を斬ることにいかなる意味があったわけでもない。バタイユも『高貴なる死』ももちろんでまかせにすぎなかった。」というわけである。つまり、「三島事件」もまた、政治的意味も文学的意味もなく、「でまかせ」に過ぎなかったというのが、作者・松浦寿輝の三島解釈であるように見える。(続く)


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