文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

岩田温の『逆説の政治哲学』を読む(4)

月刊日本」4月号が届いた。巻頭に亀井静香のインタビュー記事「菅直人総理に告ぐーこのままでは野垂れ死にするだけだ」があり、さらに沖縄の最初の芥川賞作家・大城立裕のインタビュー記事「琉球人の想いを大和人へ」、先ごろ、自民党を離党し、政務官に就任し、自民党を除名された浜田和幸議員の「なぜ私は政務官に就任したのか」がある。僕のインタビュー記事「存在論的国民論」と連載「月刊文芸時評」も載っている。是非、書店で手に取り、御一読いただきたい。ところで、すでに何回か紹介した岩田温の『逆説の政治哲学』について、「月刊文芸時評」でも取り上げたので、ここに再録しておきたい。(続く)

人間存在論としての政治哲学
■岩田温の『逆説の政治哲学』を読む。
 人間は複雑である。複雑な人間の営みである政治もまた複雑でないはずはない。したがって、単純に「合理主義」で割り切ることはできない。言いえれば、世の中には逆説かイロニーというような反合理主義、あるいは非合理主義とでも呼ぶべき表現方法でしか言えない真実というものがある。主としてそれは文学や宗教の担う分野だったが、しかしあくまでも人間的現象の科学的探求に携わる政治学や経済学であっても、人間にかかわる限りそれを無視していいいいわけはない。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名な一句がある。「善人が往生できるとすれば、悪人が往生できるのは当然だろう」というほどの意味だが、これを合理的に解釈して、「分かりやすい」と思う人
はあまりいない。ただ、謎と矛盾に満ちているが、どこか人間の真実を突いている言葉だとは多くの人は思う。しかし、その真の意味は感嘆には分からない。親鸞には、「人千人殺してみよ、極楽往生は間違いない」という言葉もある。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、「自由」を与えられた人間たちが、自由の重荷に耐えかねて、自由から逃げ出す「大審問官」の話もある。「自由を求めるのが人間で、自由から逃げ出す人間などいるはずがない」と言う合理的解釈で、この大審問官の問題に分け入っていくことは無理だろう。そこで、宗教や文学が登場する。政治が、しばしば作家や文芸評論家によつて論じられるのはその時だ。文学者が「政治的なもの」を批評するのを不可解に思う人も少な
くない。文学者は文学をやっていればいい、と。しかし、現実にはわが国の政治評論は、文学者たちの発言を中心に展開してきた。何故か。政治の奥に隠された人間的真実の追究という点においては、文学者が、政治学者や政治評論家、政治ジャーナリストと称する、いわゆる政治の「専門家」たちよりも、はるかに優れているからだ。
 複雑な問題を回避し、つまり文学的問題や宗教的問題を排除して、政治学や経済学が、誰にでも分かりやすい「科学」を名乗るようになった時、つまり「人間存在論」を捨てた時、政治学も経済学も終わったと言うべきかもしれない。政治学、ないしは政治哲学こそ人間存在論である必要がある。前回、サンデルの「政治哲学」について触れたが、サンデルの政治哲学には「人間存在論」がない。人間存在という不可解な、謎に満ちた、怪しい危険な存在への驚きや畏怖がない。
 さて、私の友人に、岩田温というまだ27歳の若い政治学、政治哲学の研究者がいるが、そして一緒に読書会や勉強会などを続けているのだが、その彼が一冊の書物を刊行したので、紹介したい。『逆説の政治哲学』(ベスト新書、KKベストセラーズ)。これがなかなか面白い。何故、『逆説の政治哲学』なのか。それは、岩田温が、政治的行為における人間存在を、合理主義では分析不可能な「非合理的存在」、あるいは「逆説的存在」として把握しているからだ。したがって、彼は、政治学専攻の研究者でありながら、政治学者たちやその著作よりも、文学者や文学作品を重視する。ここに、岩田温の政治学者としての「新しさ」があることは言うまでもない。
 ≪私は文学に対して優れた眼差しを有する文学者は、政治に関して優れた批評家、観察者になりうると考えます。日本では多くの文学者たちが、政治について論評してきました。進歩派と称される人々の中では、加藤周一井上ひさし大江健三郎灰谷健次郎といった人々が挙げられるでしょうし、保守派と称される人々の中では福田恒存三島由紀夫江藤淳西尾幹二などの人々が挙げられます。彼らの一つひとの政治的立場、主張の是非はさておき、なぜこれほどまでに、文学者である彼らが、全く畑違いに思える政治について論じるようになるのでしょうか。≫
 私は、以前から「文学や哲学を知らずに政治や経済を語るなかれ」をモットーにしてきたが、この岩田温の主張と無縁ではない。したがつて、私は、この本の本質は、ここにあると考える。つまり政治学と文学は密接な関係にあるということである。
 ≪だからこそ先に挙げた文学者たちは、政治に対し真摯に向き合ってきました。政治学者の中には、「政治学に関しては無知な文学者が床屋談義をしているにすぎない」と、文学者の政治評論、政治観察を軽蔑的に見る向きがあります。しかし政治という現象と文学とは相互に切断不可能な関係にあるのです。政治が人間の全ての事象を包括しうる現象であるのにと同様に、文学もまた人間の全ての事象を理解しようとする試みだからです。≫
 ここには、ステレオタイプ政治学という定式を乗り越える視点がある。政治学、ないしは政治哲学に新しい飛躍の一歩をもたらす書である。
村上春樹菅直人も「脱原発宣言」…そしてみんな「脱原発」になった。
 菅直人首相まで「脱原発宣言」というわけで、「そして、みんな『脱原発』になった」とでも言うほかはないが、私は、皮肉を込めて、「何処かに原発推進論者はいないのか?」と叫びたくなる。むろん、「脱原発」とは言いながら、現実には「脱原発宣言」は選挙用の飾り付けか、人気取りのパフォーマンスでしかない。現実に原発や核がなくなるとは、おそらく誰も思っていない。群集心理と同調圧力で、ただそう思わせられているだけであり、そう言わせられているだけである。20世紀、最大の発明である原子核エネルギーというものを手に入れた時点で、人類はもう後戻りできない地点にまで来たのであり、それにいかなる弊害や危険が付き纏おうと、人類はこれとうまく付き合っていくしかない。後には
戻れないのである。
 作家の村上春樹が、スペインで行われた、カタルーニヤ国際賞の受賞式のスピーチの中で、フクシマ原発事故を受けて「脱原発」を宣言し、「核」に対してももっと早くから「ノー」と言うべきだったと反省する演説をしたらしい。「効率」主義がよくなかった、と。村上春樹のスピーチは、明らかにノーベル賞を意識したもので、国際社会に向けての営業的匂いがするが、それはさておき、問題はこの村上演説の日本国内の受け止め方である。東京新聞の「文芸時評」で、沼野充義が、「分かりやすさ」という観点から、この村上演説を絶賛している。それに対して「文学界」8月号の匿名コラム(相馬悠々)「鳥の眼・虫の眼」が噛みついている。なかなか面白い噛みつき方である。このわずか1ページの巻末コラム
だが、私はひそかに愛読しているのだが、そ理由は、ここにだけ、古き良き批評精神というものが生き残っていると思うからだ。さてそのコラムは、こう書いている
 ≪「『分かりやすさ』が胸を打つ」という見出しで、沼野充義が、東京新聞文芸時評(六月二十三日)を書いている。本当にそうなのか?村上春樹が六月九日、スペインのカタルーニャ賞授賞式でのスピーチで、「日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と訴え、「原子力発電に代わる有効なエネルギー開発」を追求すべきだったと主張したことに対して、沼野さんは、「当然の主張」「まっとうな言葉」と賞賛、「いま『わかりやすい』言葉で語るのをおそれるべきではない。私は人気作家の勇気に対して「よくやった」と声援を送る。」と記している。
 欧州で脱原発の動きのある中、「よくやった!」は、大げさでしょう。≫(「文学界」八月号)
 こういう批評が文芸誌から消えて久しいが、なかなか鋭い批評ではないか。「寸鉄人を刺す」とは、こういうことを言うのだろう。「脱原発」も「反原発」も決して少数意見でも危険な意見でもない。フクシマ原発事故以前ならともかく、フクシマ原発以後、もっとも安全な、人畜無害な意見が「脱原発」「反原発」である。それが一種の流行語となっていること、あるいは大衆的な世論になっていること、今、「脱原発」を宣言することは大衆的世論に迎合することだ、ということを自覚していないとすれば、かなりの鈍感か、あるいは自己欺瞞でしかない。少なくとも作家や批評家が、このことの自覚なしに、無条件に「脱原発」や「反原発」を主張するのには大いに疑問を感じる。大江健三郎のように、四、
五十年も前から「反核」を叫んできたものの言うことは傾聴に値すると思うが、「3・11」以後、「脱原発」や「反原発」を主張することは、逆の意味で相当の勇気がいることだろう。言い換えれば、今、「脱原発」宣言をする者は、かなりの「恥知らず」ということである。
 と、ここまで書いているところで、吉本隆明が、「脱原発」批判を展開しているということを知った。吉本が、今、何歳になるか知らないが、相当の高齢のはずである。それにもかかわらず、「脱原発批判」とは恐れ入る。吉本は、「月刊ビッグトゥモロウ」(2011年8月号)で、科学技術の進歩は自然過程であり、止められるものではない。それよりも科学技術のさらなる進歩によって、「原発の暴走」という危険も克服していくべきだというようなことを言っているらしい。「考え続ける87歳インタビュー 吉本隆明」というタイトルで、次のように発言している。私が知りえた唯一の「脱原発」批判である。
 ≪「思い描いていた大人に僕はなりきれていない」/「誰かが示した安易で簡単な答えに飛びつかないことが大切です」/「大震災後をどう生きるか。僕は考え続けて生きたいと思う」今回の大震災で「原発はもうダメだ」と口々にいう社会。そんな言葉にすぐ引っ張られてしまう日本人に対し、“思想界の巨人”は、静かに「待った」をかけた。≫
 まったく同感である。「脱原発」も「反原発」も、個人の思想信条としては無駄ではないだろうが、現実的にはほぼ有効性はない。原子力工学をはじめとする科学技術の発展と進歩は、誰にも止められない。文字通り自然過程だからだ。原発の事故や危険性から立ち直り、国土を再建していく道は、さらなる科学の発展と進歩によるしかない。「脱原発」はともかくとして「反原子力」も「反核」も空論である。

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