文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

学生の街・江古田で考えたこと・・・。

最近、二人の学生と話をした。向こうから話しかけてくれたので聞いていただけだが、話の内容のレベルの高さにちょっと驚く。ジャック・ラカンを勉強したいという女子学生は某大学の大学院を目指しているという。その大学の名前を聞いてちょっとびっくりしたが、まだあどけない可愛いらしい顔にもかかわらず、眼付きの鋭さと真剣さに圧倒されてしまった。「私も、柄谷行人の『世界史の構造』を読みたい。参加してもいいですか?」というので、昨日の「江古田哲学研究会」から参加することになった。いつまで続くかわからないが、それに将来は、研究者になりたいという彼女の夢が実現できるかどうかわからないが、当分、一緒に勉強して行きたいと思っているところだ。早速、「吉本隆明柄谷行人」を買って来て、読み始めている。「分かる?」と聞くと、「分かります」と言う。負けず嫌いなのか、毅然としている。柄谷行人の『世界史の構造』のなかの、ニーチェの「罪の意識」は債務関係という経済的下部構造に還元できる、というところも理解できたらしい。すっきりした顔をしている。もう一人は映画理論専攻の男子学生。レポートの中身が一人だけ飛び抜けているので、以前から、ひそかに注目していた学生あったが、しかし、いつもシニカルな、クールな態度で僕の話を聞いているので、僕に対しては批判的な学生なのかな、とも思っていた。そのうち来なくなるだろうと思っていたら、やはり予想通り、来なくなった。しかし、2、3回顔が見えないなと思っていたら、ここ2、3回、また顔を出すようになった。映画学科の学生には、毎年、不思議とデキる学生がいる。東浩紀など現代思想系をほとんど読んでいるらしく、思想用語がポンポン飛び出してくる。蓮實重彦の映画評論の影響だろうか。その彼が、授業後、照れ臭そうに話しかけて来た。何かモゴモゴ言っている。よく聞いてみると、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の原本と改訂版の話をしている。僕も、「君と話したかった」と言う。もっと話がしたかったが、昨日は原稿の校正や「江古田哲学研究会」などの準備で時間がなかった。「今度、時間のある時、ゆっくり話そうよ」というとニコリと笑った。書くものは大人顔負けだが、まだ幼い顔を残している。どんな秀才だろう。興味がわく。今頃になるとデキる学生とそうでない学生の見分けがつく。大学教師が、最近の大学生は講義を聞かないとか、私語でうるさい、居眠りしているとか言うが、僕には信じられない。昨日は、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の中の「病という意味」について話したが、学生は真剣に聞いていた。残りの30分でレポートを書かせたが入学試験場のような静けさ。「テストではないから、気楽に書いて・・・」と言ったにもかかわらず、真剣に書いている。さて、一昨日、昨日と二日間、終電近くまで江古田にいた。その間に、二つ「林芙美子論」を仕上げた。林芙美子の『放浪記』の解釈で、二つの新説を打ち出したものだ。「放浪」の存在論的意味についてと、何故、林芙美子の場合、「ふるさと」が「故郷」ではなく「古里」なのかという問題。ついでに桐野夏生川本三郎関川夏央らの「林芙美子・貧乏不幸論」解釈のデタラメも暴露していきたい。林芙美子を語る人は、一人の例外もなく、林芙美子は「貧乏」だったとか、「不幸」な生い立ちだったというが、それは本当なのか。その解釈は、作品内容と実生活を混同しているのではないのか。しかも昨日は、「月刊日本」のインタビュー記事の最終校正まで、時間がなくて、江古田からiPhoneでやった。慌てたが、なんとか なった。しかし、江古田は電波状況が悪いらしく、携帯メールが使えなくなってしまった。焦った。「月刊日本」のインタビュー記事は、タイトルを「存在論的国民論ーー政治家を育てるのは国民だ。」とした。先月号の「存在論的政治家論」の続編だから。前号は永田町で反響があったらしい。僕の政治評論は江藤淳先生の「治者の政治学」を受け継ぐものだ。江藤先生の名前を出し忘れたが・・・。(続く)


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