文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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岩田温の『逆説の政治哲学』を読む(3)

京都大学博士課程の早瀬善彦君の『逆説の政治哲学』書評を紹介します。


アメリカの政治哲学研究者、マイケル・サンデルブームの影響で、にわかに政治哲学という学問分野への関心が巷で巻き起こっている。長年、政治哲学を専攻してきた私としては、正直、このサンデルブームを冷めた目で見ている者の一人なのだが、それには大きな理由がある。いわゆる、ロールズ・インダストリーの系譜に連なる現代政治理論(無論、サンデルもその一人である)は、「政治とは何か」という根本的な問いから逃げているからである。

 そんななか、本書『逆説の政治哲学』は、政治について研究する学者であれば、一度は向き合わねばならないこの問いに正面から向きあった意欲的かつ挑戦的作品である。
 では、どういった点が、意欲的かつ挑戦的なのか。本書の醍醐味はなんと言っても、政治を「複雑な現象」として捉えた点にあるだろう。
 一般に、これまでの政治学は、国家や権力と結びつけて語られることが多かった。もちろん、こうした見方は、政治の基本的な解釈として間違ったものではないが、やはり一方で政治のもつ複雑な世界をせばめてしまうものでもある。ゆえに、著者は、古今東西の哲学者、文学者の古典に散りばめられた格言を引用しながら、具体的な事例や歴史を混ぜつつ、政治のもつ広範な世界を描こうとしたのである。
 こうした手法については、解説者の佐藤優氏が新カント的な方法に近いという鋭い指摘を行っているが、私自身は、古典的な政治哲学につながる部分もあると感じている。というのも、レオ・シュトラウスが指摘するとおり「(古典的政治哲学の)問題は、誰にでもよく分かり、誰もが慣れ親しんでいる用語でもって、少なくとも、あらゆる正常な大人たちに対して、日常的な経験や日常的な慣例に基づいて言い表されたのであった。」(レオ・シュトラウス『古典的政治的合理主義の再生』96頁。)からだ。
 いずれにせよ、著者も指摘するとおり、本書が一味違った政治学の入門書であることは間違いないだろう。

 さて、全体的な話はこれくらいにとどめ、本書の内容について幾ばくかふれておこう。まずはじめに、第一章の、政治の本質が友敵関係にあるとの指摘は非常に重要である。なぜなら、この基本的な政治観こそが、本書を一貫してつらぬく一本の糸だからである。 
 その証拠に、後に続く保守・革新、民主主義、全体主義、正義の分析においても、本性的に、人間とは相争う存在であるという前提が描かれている。保守は自身の祖国を守るために革新と戦い、革新は理想の建設のために守旧派と敵対する。民主主義の指導者は、大衆操作のために、ただひとつの敵の像をつくり上げ、それと戦う。全体主義者は、戦争のための戦争を行い、正義を語るものは、不正義とみなしたものと戦う。著者が、政治とは人間の逃れられない宿命だと語るとき、それは人間存在の本質が敵対することにあるという確信をもっているからでもある。
 にもかかわらず、実は、この敵対的政治観に目を閉ざそうとする政治哲学者は意外と多い。言論を越えた暴力は政治の破綻だとみるハンナ・アレントなどはその典型であろう。合意や和合ではなく、敵対。この政治のもっとも根幹となる本質を理解しなければ、あらゆる政治についての言説、研究は空疎で皮相な徒労に終わるといっても過言ではない。

 では、なぜ多くの政治学者や一般の人々(とりわけ日本人)が、この友敵という政治の本質、現実から逃げようとするのだろうか。答えは簡単で、筆者の指摘する平和的憲法的な世界観に浸かってしまっているからである。さらにいえば、政治的な対立が、国家や組織を弱体化させるという偏見に染まっていしまっているからでもある。
 しかし、著者はそうした偏見を取り除くよう指摘する。それこそが、マキャベリの『ディスコルシ』にある「貴族と平民との不和を非難の対象とする人びとは、私にいわせれば、ローマに自由をもたらした第一の原因そのものに文句をつけているようなものだ。」(本書38頁)という部分の引用である。
 貴族や平民の相争う姿勢が、逆にローマを強大なものとしたという逆説を導き出す著者の視点は非常に鋭く、また自民党の派閥政治が自民党を強大なものとしたという現代の実例を引いてくる手法も、説得力に満ちているといえよう。

 第二章は、政治を語る上では避けて通れない、保守・革新、つまり右翼・左翼の議論だが、著者はあえていずれの立場にも偏らないよう、客観的な記述に務めている。(といっても、著者の専門であるバークについての記述がやや多いように思えるが)この点が逆に両者の特徴を浮かび上がらせているといえよう。

 続く第三章は、いわゆる民主主義批判であり、小泉総理のポピュリズム政治などが批判されているが、正直なところをいえば、本書全体のなかではやや盛り上がりに欠ける章である。だが、こうもいえるだろう。つまり、後に続く全体主義の恐ろしさにおののき、やはり民主主義が一番よいと短絡的に考えてしまう読者への警告とも取れる章であると。

 さて、第四章以降では、ついに本書の核心にせまる内容が展開される。すなわち、正義が人を殺すときの実例、理論が数多く、しかも絶妙な説得力をもって紹介されているのだ。第四章は、全体主義批判、より具体的にいえば、共産主義ファシズム、ナチズム批判である。いずれのイデオロギーも恐ろしい災厄を人類にもたらしたが、なかでもやはり共産主義の残忍さは断トツであろう。著者はレーニンの指令を引いている。

知られる限りのクラーク、金持ち、吸血鬼を、最低百人は絞首刑にすること(市民たちの目に触れさせるために、必ず絞首刑でなければならない)…
昨日の電報どおりに人質を指名すること。吸血鬼のクラークどもが絞め殺されている姿、そしてその末に死んだ屍体を、数百キロ四方の市民たちの前に晒し、皆が恐怖に震え、何が起こったのかを理解し、叫び声を上げるような方法で行わなければならない。(本書、180〜181頁。)

 まさに悪魔すらたじろぐほどの悪行である。しかし、著者も繰り返し指摘するとおり、こうした蛮行が共産主義社会の建設という正義の名の下に行われたことを忘れてはならないだろう。
 引き続き、第五章もまた、四章とは違う角度から正義の問題を論じた章である。因果応報は合理的な考えか、利己主義と利他主義はどちらが正しいかといった観点から政治と正義の問題を論じている点が興味深い。全体的に、新自由主義的な思想に対し手厳しく感じるが、とりわけアイン・ランドの小説『水源』などを例にした解説は説得力をもっているといえよう。

 最終章は、権威と法律の問題という政治哲学のもっともオーソドックスな話題が中心で、政治哲学が政治の権威にひれ伏せば、その存在意義は喪失するというレオ・シュトラウスの格言により締めくくられる。最後の最後で基本に立ち返るという構成が、政治学の教科書という役目を果たしているともいえるだろう。
 以上、簡単に私なりの視点で本書の内容をみてきたが、結局のところ、著者が一貫して伝えたかったここととは何か。

私が思うに、それは、われわれ一人一人が政治というものを今一度、真剣に考え直してみなければならないということではないだろうか。本書で何度も指摘されたとおり、政治はたった一度の過ちにより、甚大な被害をもたらすからである。その被害は、はっきりいって、先の地震の比ではない。2009年夏の狂乱のなかで民主党政権という悪夢を誕生させた以上、この先も日本人が政治に対し真剣な眼差しをもたず、無知のままでいることは、もはや罪とさえいえよう。

 昨今、左右を問わず、軽薄な政治的言論がはびこっているが、政治というものを今一度、冷静に考え直してみたいという人であれば、本書は最高の手助けとなるに違いない。


(『澪標』編集長 早瀬善彦)

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