文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

アウシュヴィッツの後で、詩を作ることは野蛮か?

今、大宮駅新幹線ホーム。新青森行きのはやぶさがホームに入ってきた。鮮やかな青い車体を初めて見た。新しい東北を象徴するかのようだ。東北地方も復興への歩みが本格的に始まったということか。ところで、「アウシュヴィッツの後で、詩を作ることは野蛮である。」というアドルノの言葉はよく知られているが、大震災直後から、この言葉を思い出した人はすくなくないに違いない。言うまでもなく東日本大震災後に、アドルノの言葉を地でいくように、日本のマスコミや言論界は、そしてネット論壇も、震災報道、原発事故報道一色になっているわけだが、そうした中で週刊誌の連載記事とはいえ、画商で作家の洲之内徹について、つまり当面する事件や事故とは無縁に「美」や「美的なもの」について書いている福田和也の文章に興味を持った。福田はこんなことを書いている、「『アウシュヴィッツの後で、叙情詩を作るのは野蛮である』というテオドール・アドルノの言葉は、大戦後の知識人を震撼させた。人間のシステマティックな大量殺害という事態を前にして、詩的なもの、審美的なものを追求すること、愛でることは倫理的に許容できないという糾弾は、倫理と美は相容れるというヨーロッパの伝統的確信ーー真、善、美の確立ーーを激しく揺るがすものであった。その点で、洲之内徹の存在は、アドルノの提起した問いを、日本において、輸入品としてではなく、自前の問題として扱うことをかのうにする、と、やや逆説的だが言えるかもしれない。」福田はこう書いて、さらに次のようにも書いている。「洲之内の言葉は、アドルノと対極にある。人間が 『浪費され』ても「『美しいものが美しという事実だけは疑いようがない』というのだから。美しいものを作る人間の手と目は素晴らしい、と。」福田の論理展開は、見事に現代日本の思想的弱点を、つまり猫も杓子も震災論議原発論議に耽るという現実が内包する思想的弱点を、暴露していると言わなければならない。つまり今こそ作家や芸術家、思想家、学者、あるいは芸能人やスポーツ選手は、異口同音に、誰もが賛成するような凡庸な、倫理的な正論を吐くのではなく、それぞれの専門分野でそれぞれの才能や実力を発揮すべきなのだ。少なくともそうしてもいいということだ。無論、芸術活動や學問などより救援活動や応援メッセージが大事だと考える人はそうすればいい。(続)
(続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから、http://www.mag2.com/m/0001151310.html


人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ