文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

森の農夫は、森について考える必要がない。


今、鹿児島中央駅を出発。飛行機で東京へ戻るつもりだったが、朝になって空港まで、一時間もかけてバスで行くのがなんとなく億劫になり、ちょっと料金は高いが新幹線に切り替える。ずっと本を読みながら、 あるいは、ビールでものみながら気楽に行けるのがいい。新大阪行き「さくら」は、乗り込んだ途端、快適だ。林芙美子取材の旅の続きで鹿児島に滞在していた。のんびり休憩をとるつもりだったが、なにかとせわしなく、野山をかけまわっていたら、かえって疲労困憊ということになってしまった。今日から、いつもの生活に戻ります。田舎にいると政治や事件への関心がうすれていくようだ。菅直人がどうだこうだ、小沢一郎がどうだこうだ、鳩山由紀夫がどうだこうだ、というような生々しい話が馬鹿らしく見える。ハイデガーの「野の道」や「森の道」の世界だ。ハイデガーは、森に住む農夫たちは、「森とは何か」なんて考えないと言っている。森は美しいだとか、森は豊かだとか、森林浴だとか、また森を守れだとか考えない。彼が森そのものなのだ。彼は森とともに生きている。森の農夫は、森について考える必要がない。しかし、都会から来たインテリ崩れは森を知らないがゆえに、「森とは何か」と考える。つまり森を対象として、概念として考えているからだ。森は大事だ、森を守れ、などと言うのは、そういう奴らだ。さてハイデガーが、森や道、山小屋にこだわったのは、言うまでもなくそれらが、彼の存在思想、あるいは形而上学そのものと深く関わっていたからだ。つまり、たとえば森の農夫は森を知っている。すみからすみまで知っている。森とは何かなどと考えないのは、森をすでに知っているからだ。存在についても同じことが言える。ハイデガーが言う存在は、森の農夫にとっての森のようなものでなければならないと言うことだ。存在とは何かと、概念的に考えているかぎり、 存在を知ることは出来ない。僕は、ハイデガーとおなじように森の中で育った。小さい子供の頃は、日曜日になると、父親に連れられて山に杉の苗木を植えに行ったものだ。辛い仕事だったが、今は楽しい思い出だ。その杉の木も今は見上げるような大木に成長している。僕の父親は、これで一儲けするつもりだったかもしれないが、今では、杉の大木など売っても一銭にもならないらしい。だが、それでもいいと思う。(続く)

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