文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

中間団体弱体化論・・・大震災と原発事故が明らかにしたもの。

大震災と原発事故は、現代日本の病根とも言うべき多くの問題を明らかにしたといっていいが、その中でも、僕が注目するのは現代日本人の思想的貧困化という問題と、中間団体の弱体化という問題である。大地震発生直後、日本のマスメディアには、欧米だけからでなく中国やアジア諸国からも、日本人の秩序ある行動と道徳観を賞賛する、過剰ともいえる「日本礼賛論」「日本人賛美論」が溢れた。たとえそれが事実であり、当然の評価だったとしても、われわれ日本人が、外国からの日本礼賛論をそのまま喜び勇んで報道している姿は、そしてそれを本気で信じ込んでいる姿は、何か不自然なもの、不可解なもの、幼稚・稚拙なものを感じさせた。物事を突き詰めて考えるという習慣を放棄し、思想的に劣化し、思考力が脆弱になった日本人の姿が、そこにあるように思われた。まだ東北地方の悲惨な現実も福島原発事故放射能汚染もを知らない段階でのこととはいえ、「褒められることがそんなに嬉しいのか」と、日本人の思想的劣化を思わないわけにはいかなかった。それは、福島原発事故以後、テレビや新聞に次々と登場し、原発放射能の「安全・無害論」を笑顔で喋り捲った「東大教授たち」も、同様である。彼らは、そのあまりにもいい加減な言動から「御用学者」と言われることになるわけだが、福島原発事故の深刻さが次第に明らかになるにつれて姿を見せなくなったが、今の日本の思想状況や言論状況を典型的に体現した者達であったと言っていい。それと同時に僕が考えたのは、中間団体の存在だった。つまり、大震災に直面して、国家レベルの政府も行政も何も出来ない、頼りになるのは、地域に密着した消防団隣組、婦人会、同業者(漁業関係者)のネットワークなどでしかないという現実である。自衛隊や消防署、ボランティアの努力にもかかわらず、未だに東北地方の震災現場には瓦礫の山が放置されているが、これは、政府や行政が何も出来ないということを意味している。政府や行政側には、人手不足や交通網の混乱、法的規制など、いくらでも「何も出来ない理由」はあるかもしれないが、しかし、やはり今回の大震災は、いざという時には国家や行政は当てにならない、ということをわれわれにまざまざと見せ付けてくれているように見える。そこで、思い浮かべるのは中間団体という存在である。中間団体とは、国家と個人の間に形成された様々な団体、あるいは共同体である。たとえば労働組合消防団、宗教団体、婦人会、青年団自治会、老人会、あるいは学校、会社、同窓会、学生運動組織…どである。今、日本では、これらの中間団体が次々と弱体化し、ある場合には消滅し、個々人は、国家と直接的に対峙するようになりつつある。その結果、もたらされたのは「国家の肥大化」と「人間のアトム化」である。今回の大震災は、先進国といわれてきた日本社会が、実は発展途上国並みの脆弱な社会でしかなかったという現実を暴露した。つまり、これは、中間団体の弱体化によって国家や行政に頼るしかなくなった社会の脆弱さを露呈したということである。ところで、中間団体の再構築による社会の再建・強化を議論している柄谷行人は、「文学界」四月号の山口二郎との対談で、こんなふうに中間団体を分析している。

絶対王政時代のフランスで、中間団体あるいは中間勢力の存在が専制化を防ぐということをいっています。具体的には、貴族とカトリック教会です。いずれも前近代的なものなのですが、それが権力の集中化をさまたげるというわけです。その意味での中間団体が、1990年までの日本には多数ありました。労働組合(国労日教組)、国立大学、部落解放同盟、などなどです。これらが1990年代にメディアなどに一斉に叩かれて力を失いました。国立大学はそれまで文部省から独立した中間団体のようなものでしたが、「民営化」とともに逆に、国家に従属するするようになった。創価学会もある意味で中間団体ですが、これも与党として取り込まれてしまった。こういう中間団体は批判されてもやむをえない面があるので、擁護するのが難しいのです。しかし、実際に中間団体がなくなってしまうと、ひどいことになる。資本に抵抗するものがないから、いわば資本の「専制」がはじまる。それが新自由主義ですね。個々人はアトム化してしまうので、無力になる。(「イソノミアと民主主義の現在」文学界四月号P209)

柄谷行人がいうように、労働組合や国立大学、部落解放同盟などは、「新自由主義」や「構造改革」の名のもとに次々と弱体化していった。その後にもたらせたのは、国家への全面的な従属という現実だった。たとえば民間のボランティアや募金・義捐金でさえ、国家や行政の支配下にあることが暴露されたのが、今回の大震災であり、それと同時に国家的な危機に際しても、国家も行政もほとんど機能しないという現実であった。しかし、一方では、たとえば、「さんま漁」の街・気仙沼市と「目黒のさんま」で御馴染みの東京の目黒区は、「めぐろのさんま」祭りを媒介に独自の交流を続けてきたが故に、いち早く目黒区から援助物資が直接、トラックで運び込まれた。これは一例に過ぎない。様々な非公式の横のネットワークが、つまり中間団体が活躍したのも今回の大震災の大きな特徴であったと言っていいが、この中間団体は、極度に弱体化しているのが、現在の日本社会である。さて、大家族、労働組合、宗教団体などのような、様々な中間団体から切り離され「アトム化」した個人は、国家やマスメディアの垂れ流す情報と情報操作に弱い。小泉純一郎時代に顕在化したポピュリズムである。つまりテレビや新聞を中軸とする情報操作が、アトム化した個人には有効に機能する。柄谷行人は、こう言っている。

2001年に小泉政権ができたのは、そのような背景においてです。彼は、旧来の中間団体の名残を、さらに守旧勢力としてやっつけて人気を得た。ちょうど同じころに、インターネットが普及し始めた。それによって、個人はいよいよアトム化したと思います。(中略)山口さんは『ポピュリズムへの反撃』(角川書店)という本を出版されましたが、日本でポピュリズムが本格化したのは、小泉政権のころからだと思います。中間団体がなくなったからです。(「イソノミアと民主主義の現在」文学界四月号P209)

(続く)

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